思い出の南極



No.1『南極観測隊員になったワケ』
No.2『晴海埠頭を出発』
No.3『航海・オーストラリア西海岸へ』
No.4『氷海の中へ』
No.5『夏作業中の思い出』
No.6『観測隊の構成』
No.7『越冬交代』
No.8『観測のスタートと生活、“ションドラ”のこと』
No.9『航空機で空気試料を集める』
No.10『極夜の生活』
No.11『南極の春』



『(1)南極観測隊員になったワケ』
 南極で越冬を終え帰国して今年で36年が経つ。記憶はその後の生活の中で薄れたり、また何かの拍子で思い出し修正強化されたりしてきた。これは「私の記憶の中の南極」についてのお話しです。「南極」は、私にとって心に残る経験でした。
 私が隊員に選ばれたのは、仕事の内容が関係した。30歳台半ばになっていたが、茨城県つくば市の研究学園都市にある気象庁気象研究所に勤務する研究官の時でした。私の南極での担当はオゾン層の研究で、赤外分光装置を使って地上に届く太陽光の赤外部の分光スペクトルを調べ、オゾン層に関係する大気中の微量成分の変化を調べるものだった。
 1970年台半ばごろ、冷蔵庫やスプレーに使われるフロンガスが成層圏まで拡散してオゾン層破壊を引き越すことが警告されはじめていた。フロンガスは、炭素原子を中心にして周りに4個の塩素(Cl)やフッ素(F)原子がくっついた物質で、化学的に安定で有用な人工物だったのだが・・・。
 国内のほか南極へも誰かを派遣してオゾン層を調べようという計画が持ち上がり、思い切って応募した。未知の世界と、未知の体験への挑戦だと思ったからです。



メーカー((株)日本電子)工場で観測装置点検中の川口貞夫教授と前隊長。手前右が筆者。






『(2)晴海埠頭を出発』
 現在、南極観測隊員はオーストラリアまで空路で行き、観測船「しらせ」へ乗船し南極へと向かうが、昭和57年当時は東京晴海埠頭で乗船した。出港時の家族との別れの様子がニュースで流れ、憶えておられる方も多いと思う。
 出航は南半球の初夏にあたる毎年11月下旬だ。その直前の数ヶ月はそれぞれの担当業務の準備、積み出し荷物の荷造りなどで、慌ただしい日々を過ごした。私が最も驚いたのは、税関検査で、150kgもある荷重量のハードディスクを担当の職員が軽々と縦にして検量したことであった。昔のミニコン用のもので、製造元からは歪みを作らぬように水平を保つよう厳重に注意されていたが、アッという間もない早業だった。その途端に、暗く重い気持ちになったものです。
 観測船「ふじ」の甲板に立ち、岸壁で家族や知人たちが見送る姿がいつまでも瞼に残った。泣いてもわめいても戻るわけにはいかない。戦後生まれの私は、徴兵され戦争へ向かう兵隊とその見送りの家族の心情とは、きっとこんな感じだったのかと思った。

 

1982年11月、南極へ出航する「ふじ」。大勢の見送りと楽隊の演奏の中、東京晴海埠頭から出港した。






『(3)航海・オーストラリア西海岸へ』
 東京湾から太平洋へ出たとたん、船は大きく揺れた。ようやく出航してホッとしていたが、ラッシング(固定)を怠った荷物が船室の反対側の壁までぶっ飛んだ。伊豆大島沖の黒潮に入ったらしい。船室は二人部屋で二段ベッドだった。
 私の参加した第24次南極地域観測隊(前 晋爾隊長)は、越冬(出張期間は1982年11月〜1984年3月)に35名、夏隊(夏期の作業に従事した後、翌1983年3月に帰国)15名の計45名。一方、「ふじ」の乗組員は艦長以下、士官や下士官など192名、全部で237名もの人員が乗船していた。自衛官は階級により船室に差があるが観測隊員はお客さんの扱いで、比較的ゆったりしていた。
 船の中の狭い空間でも、人間というものはそこに居場所を見つけ楽しみを、作り出す。観測隊と自衛隊という垣根をこえ、同じ気象職種や県人会の懇親会が頻繁に開かれた。気象ゾンデの発射室が即席のバーベキュー会場になったり、厨房から余った食材を酒のつまみに入手したりと、大いに社会勉強をした。
 思い出すのはフィリピン沖のレイテ沖海戦犠牲者の慰霊式と赤道祭である。水兵が数日前から猛特訓した礼砲を放ち、「海ゆかば」鎮魂曲が流れる中、「ふじ」は大きな弧を描く航跡をしるし、真っ青に澄む海中に花束が投ぜられた。かつてこの海域で大激戦が展開され、多くの若者が命を落とした。太陽が照りつけ、あたりが静けさに包まれる。低いエンジン音だけの飛行甲板に整列し、私たちは深く黙祷を捧げた。

 

「ふじ」は日本を離れ太平洋を赤道へと向かう。飛行甲板で赤道祭。各班の演目を楽しむ。






『(4)氷海の中へ』
 豪州西南海岸パース近くのフリマントル港に1週間停泊し、水や生鮮食品、燃料などを補給する。出航するとすぐに暴風圏だ。南半球の地形では、厳寒の南極大陸(最高標高は4000m超)の周りを相対的に温かい海洋が囲む。このため大洋上は常に低気圧帯となり、空はどんより曇り、嵐や激しい波が立つ。観測隊員のくつろぎスペースの壁に、誰かが振り子をつるし角度目盛りを記していた。私は船に弱く、頭が重くなると、いつも10数度以上になっていたことを記憶する。
 氷山が見え始めると、波は静かになる。そして氷海に進入、びっしり広がる氷を押しのけ船は進む。「ふじ」は全長100m、満載排水量8,449トンだが、前進しては氷に阻まれ、後退・前進を繰り返す。ついに夕方近くまで奮闘するも、もうほとんど進まなくなった。ブリッジに緊張感が漂い、艦長はその日のチャージングは終了と決断した。我々も邪魔にならぬように隊員室へ退散する。
氷原に停泊した「ふじ」をみつけ、アデリーペンギンの一団が見物にやって来た。舷側に並んだ乗員との対面は、まさに“エーリアン”に見えたことだろう。
 翌朝、目覚めると晴天で冷たい南風が吹き、幾重にも重なっていたパック・アイスは北へ流され、青い水面が広がっていた。南半球では北半球とは逆に南風が冷たい。さすがに百戦錬磨の艦長の判断は見事だった。



パックアイス(積層氷)の海を前進後退を繰り返して水路を開く。バックした船首方向の海氷面。





珍しい船と人間を見物するアデリーペンギンの一団。羽を広げ緊張している。






『(5)夏作業中の思い出』
短い夏の間に越冬準備を終らなくてはならない。船と昭和基地のヘリポートの間でピストン空輸が行われる。荷受けをし、それぞれの保管場所へトラック輸送するのは23次隊(われわれの前の隊)である。かれらは真っ黒に陽焼けし、ヤッケは砂ぼこりで汚れ、その中に知り合いがいても見分けがつかなかった。何より彼らの動きは集団としての一体感があり、無駄がない。これが一年間の越冬生活の成果だ。
 物資のうち油類のドラム缶はヘリコプターから直接転がり落とし、24次隊がタイヤで受け止める。夕食後も、白夜の中、残業で揮発油、軽油、灯油、重油、アスファルトなどに分類移動をする。ドラム缶起こしは二人一組でやるのかと期待したが、一人でやらねばならない。おかげで200kg前後のドラム缶を、傾斜を利用して起こす要領をおぼえた。
 次にツルハシを渡され、新たに建設する発電棟まわりの「土地均しをせよ」という。雪氷の研究者で南極のベテランのNさんは適当にサボり、「ここでしゃかりきになるのはシロウトや!」とのたまう。実際、何時間も作業したあと、小型ブルドーザーで一瞬に均されてア然とした。人間集団の管理とは「(小人に)閑暇をあたえず、遊ばせない」のがコツのようだと悟らされた。
 第一次越冬隊建設の歴史的遺物である作業棟が、われわれ新参ものの寝室となった。大部屋に石油ストーブが1つだけで、冷え切った鉄製二段ベッドの上で寝つくまで苦労した。朝は早く起き、6時までに急いで食事を摂らなければならない。連日の肉体労働で疲労が蓄積し、食堂に常備されていたビタミン剤が必需品であることがよく分かった。

 

昼食後の休憩。慣れない連日の肉体作業で疲れはピークになる。右の写真は観測棟のまわりに梱包のまま集積された観測機材。一つ一つ開梱し、棟内に持ち込み装置を組み立てる。






『(6)観測隊の構成』
 観測隊員は、その主な仕事から、大きく観測担当(気象、電離層、雪氷、地学、生物などが専門)と、設営担当(建設、機械、発電、車両、医療、通信、調理などのプロ)に分けられる。隊員は国の機関(気象庁、海上保安庁、電波研究所(現情報通信研究機構)、工技院(現産業技術総合研究所)、各大学、極地研究所など)や民間企業(日立、いすゞ、小松製作所、大原鉄工所、東条会館、日本食品など)から派遣されていたが、隊員は全員が国家公務員の身分となる。
 12月には昭和基地に上陸し、1月末まで越冬準備と大規模な建設作業に参加する。この間、夏隊などの一部は大陸などの調査地点で作業に従事する。
 24次隊では、前年の夏に作られたコンクリート基礎の上に鉄骨をくみ上げて発電棟を建設するのが最大のミッションだった。その間にも、各自の引き継ぎと、新たな作業の立ち上げが同時に進められた。
 観測部門のチーフは、名古屋大の岩坂先生で、レーザーレーダー(ライダーと略す)によるエアロゾル(大気微粒子)の研究をされ、気象学会などでは顔なじみの先輩だった。ライダーは、上空にレーザー光のパルスを発射し、大気中の分子や粒子(エアロゾルや氷雪雲粒)から散乱してくる光パルスを好感度の光センサー(光電子増倍・フォトマルという)で受けるもので、日本は国際的にも先進国だった。
 尊敬する先輩たちと一緒に越冬できることは、私が南極に志願した大きな理由のひとつである。当初、南極に一年もいると世界の学問から取り残されるのではないかと、不安があった。しかし、先輩たちと身近に接することができたことは、何ものにも代えがたい宝ものだった。さらに、一周遅れと思っていたが、実は世界の最先端にいたことが後でわかる。
 観測棟にはライダーと赤外分光装置が設置され、私は毎日、研究のことや様々なことを学べたし、雑用を離れ、一緒にお茶を飲みながらのおしゃべりは楽しい至福の時間だった。

 

1983年の基地風景、手前から情報管理棟と観測棟(青)、奥に発電棟(赤)や居住棟が見える。情報管理棟内のミニコンと可視分光観測担当の芝崎隊員。




『(7)越冬交代』
 夏期間の全体作業がほゞ終わり、それぞれ担当の作業が本格化するころ、前の隊は「ふじ」へ移り、我々の隊が基地の主人公となる。2月1日の越冬交代式を終えると、居住棟の個室に入った。個室といってもベニア壁で仕切られた畳二畳の空間だ。しかし、暖房も15℃に保たれ、プライバシーのある空間がどんなに素晴らしいか、冷たい二段ベッドの大部屋から解放されただけでもうれしかった。寒さは人の気持ちも萎えさせるのだ。
 数ヶ月をともに過ごした夏隊のメンバーとの別れが来る。握手しながら目を合わせると自然に涙が湧いていた。空輸を終えたヘリコプターの最終便が旋回し、機体を振り上空で挨拶する。なじみのパイロットや輸送に協力してくれた乗員らの顔を思い出し、名残が惜しい。はるか水平線上の小さな点になるまで見送り、基地の居住区へもどりながら、誰もが無言になり、急に寂しさが込み上げる。これから一年間は泣いても笑ってもこの隊員だけでやっていくしかないと、あらためて思い至る。このとき、みんなの心が団結したように思う。
 昭和基地は、南極大陸リュッツホルム湾のオングル島にある。V字湾の最奥からは大陸氷床が流れ出し、白瀬氷河と名付けられている。その右岸をおよそ120km湾の外へ向かったところに、岸から5kmほど離れてオングル諸島が位置する。この見渡すかぎり果てしない景色が、無人の氷雪地帯なのだ。

 

夏隊員との別れの握手。    最後のヘリが別れを告げて飛び立った。




『(8)観測のスタートと生活、“ションドラ”のこと』
 越冬中、私は昼間は観測棟で過ごした。晴天なら、屋上の太陽光の追尾装置のカバーを外し、赤外分光装置へ太陽光を導入し観測を行う。分光装置の仕組みは、光をいったん二方向に分割し、それぞれを鏡で反射した後に再び合成する(マイケルソン分光計という)。その際に一方の鏡を移動させ、二つの光路差を変化させると波長によって光の強弱が生じる。この変化を数学的に解析すると、波長別の光の強さが分かる(フーリエ変換分光という)。
 この技術には、精密な光学系と小型で安定したレーザー光、電子計算機が使われる。晴海の検査で思わぬ事態に遭遇したし、色々失敗したが、なんとか動くことが分かった。昭島市の工場(日本電子(株))で一緒に製作し、メンテ技術のノウハウを教えてくれた技術者の方たちに感謝するばかりだった。
 トラブルに備えスペア部品を用意していた。にもかかわらず部品交換して全く同じ間違いを犯したときは、愕然とした。同じ過ちをすればスペアをもっていても意味がない。幸い、致命傷にならず運が良かった。
 観測棟では岩坂さんとお茶を飲み、おしゃべりを楽しんだ。生活上、小用は重要な問題だった。“ションドラ”(空ドラム缶)にためるが、ホースが凍結したことがある。凍ったゴムホースを外し地面にたたきつけたりしてやっと開通したが、暖房の効いた部屋に戻った途端、強烈な臭いに襲われた。屋外の極寒の世界では臭いは凍結されていたのである。ハエなど昆虫もまったくいない世界だ。

 

居住棟の外に置かれた“ションドラ”    精製水ポリタンクを再利用した小用便器(内側)




『(9)航空機で空気試料を集める』
 日本からの航海中と南極越冬中に空気試料の採集を行った。空気に微量に含まれるフロンや二酸化炭素、メタンなどの動向を調べるためだ。
 赤道を越えて南半球に入ると、フロンガスの濃度は階段状に減少した。当時、フロンガスはまだ生産規制されておらず、北半球を中心に盛んに放出されていたためで、その地球大気全体に拡がる様子が明らかだった。
 24次の南極観測では車輪に補助ソリを着けた小型航空機(ピラタス・ポーターとセスナの二機)が使われ、パイロット二名と整備士が活躍していた。滑走路は東オングル島の前に広がる海氷上で、凸凹をならして使われた。私も航空機に搭乗し、上空約7500mまで空気採集を行った。持ち帰った試料は、気象研や東北大、東大で精密分析がなされた。その結果、南の果ての地球上でもっとも清浄な空気中でも、北半球起源のガスの濃度が徐々に増加していることが分かった。(注)
 しかし、秋(5月)のある朝、基地の前に広がる海氷が沖に流され、黒々とした海面が現れた。海が再び凍りしっかりした滑走路ができるまでは、航空機もしばし巣ごもりとなった。



スイス山岳で使われるピラタス機にサンプリング機材を載せて空気試料を採集する。
高高度では酸素マスクを装着する。





秋のある朝、基地前面の海がぽっかり開いた。セスナ機(左)とピラタス機(右)は陸に繋留された。



(注)現在、フロン11,12は現在ピークを過ぎて減少に転じた。一方、二酸化炭素等は増加中で、温室効果ガス全体の温室効果は増加中である。
(参照)https://www.data.jma.go.jp/gmd/env/info/wdcgg/GHG_Bulletin-15_j.pdf



『(10)極夜の生活』
 秋も過ぎ、いつしか日の出は遅く、日没は早くなる。太陽は地平線に沿うようにゆっくり西へ動く。そして6月から7月半ばごろまで、昭和基地は一日中太陽が出ない夜(極夜)を迎える。しかし、まったくの暗闇ではなかった。正午をはさむ4時間くらいの長い薄明(黄昏:たそがれ)がある。国内のように日没後30分たらずで暗くなることはない。地平線のわずか下を太陽が、地平に沿って動いているからだ。この長い薄明のもとで屋外作業が行われた。
 当時は、真水を得るために、十人くらいの作業当番で海氷上の氷山へ行き、ツルハシで氷を割ってソリに積みこみ基地まで運んだ。この作業は昼食後の運動としてはちょうど良かった。一回で約3トンくらいだったと思う。発電機の冷却余熱で溶かすのだ。海氷上ではサッカーやソフトボールも楽しんだ。つい夢中になって走ると極地用防寒靴が脱け、冷たい思いもした。
 そんな極夜のミッドウインター祭は最大のイベントだった。女装の役があたると、何だか怪しい気持ちになった。旅行隊のために、朝6時に起きて食パン製造もした。好奇心旺盛な仲間が砂糖の量や温度を変えてみたら発酵度が変わり、酵母菌が生きていることを実感した。
 極夜明け、春の光を感じて心身に喜びがあふれてくる。極夜の闇に、気づかぬうちに“鬱状態”になっていた自分を発見する瞬間だった。



海氷上でサッカーを楽しむ隊員たち。





北の地平線を東(右)から西(左)へ"転がる太陽"。一枚のフィルムを固定し手動でシャッターを押す。観測作業の合間に押したので、等間隔に写っていない。




『(11)南極の春』
 春の陽ざしに暖められ屋根の雪がとけて滴る音がする。来るべき越冬交代に備え、スコップで砂を撒いて基地周辺の雪解けをうながす。
 ある日、ふと見上げた青空に数羽の真っ白な鳥を見たことがある。はるか上空で翼に陽をうけて鮮やかに輝いていた。南極では対流性の雲である積雲は無いと聞いていたが、オングル島のような露岩地帯には、日射による小規模な上昇気流が生じ、それに乗っていたのかもしれない。とにかくよく見ないと気が付かないほど小さな点が夢のように虚空を舞っていた。虫などいないので、春の繁殖期の行動なのかもしれない。
 アデリーペンギンの営巣地の調査はほとんどの隊員で協力した。生物担当隊員からカウンターを渡されて数を数える。全部で百羽ちかくのつがいが1〜2メートル間隔で小石の巣をつくり、あちこちで鳴きかわす声がにぎやかだ。防寒着の体が冷えてくるほどだったが、日射で暖められた糞の匂いが漂ってくる。よく見ると固まった糞の堆積の下に雛の死体がある。おそらく何年も何十年、いやもっと長い年月の堆積物だろう。交尾するペンギンたちのそばで、しばし変わらぬ生の営みとその繰り返された無限の時間を思った。
(注:オングルカルベンの営巣地では、卵・雛から若鳥になるのはわずかに15%ほどにすぎないという調査結果がある。)



オングルカルベン島のアデリーペンギンの営巣地にて。





極夜明けの最も寒いときに、三羽のコウテイペンギンが基地を訪れた。数日間滞在していずこともなく去ったが、隊員たちの気持ちは大いに励まされた。



次回「(12)最終回」につづく





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