シンボウ先生(森望)の老いの科学・長寿への道



 

『第6回 共に生きる:家族・親族・友・ウイルス』

 宵枕
 路地裏をすりぬけながら、こう考えた。
 夕刻から飲み歩こうとすれば世間さまの目が憚(はばか)られる。テイクアウトの列にひとり並ぶのはいかにも侘しい。家飲みばかりでは窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさが高じると、どこか自由なところへ引っ越したくなる。どこへ行っても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画ができる。そしてしまいには文学になる。
 ある先達が『坊っちゃん』でばか売れしたらしいが、もしそんな輩(やから)が高齢化社会に舞い込んできたら、たぶん『爺っちゃん』でも書いて次のアタリを狙っただろう。親譲りの無鉄砲どころかはちゃめちゃで、たぶん葛飾北斎あたりをモデルにしたかもしれない。
 北斎といえば、あれは「長生きのお手本」みたいな人だ。勝手気ままに生きて88歳で死している。八十八の米寿、吾輩もそこまで行けたら御の字である。

 吾輩は吾輩である
 長年、老化研究をしながら、吾輩、つまり、不肖シンボウは、いつのまにか本物の「老化研究者」になった。老化を研究する者でもあり、老化した研究者でもある。そんな老化研究者のまま88歳になれれば良いが、80歳を過ぎて吾輩の頭がアルツハイマー病に罹患していないかどうか、それは心許ない。学生時代の吾輩の教授でさえもアルツハイマー病で亡くなられた。とはいっても、おかしなもので、アルツハイマー病は認知症であって、生死を決する病気ではない。脳の中の海馬だとか大脳新皮質のニューロンは障害されるが、生きるか死ぬかに重要な脳幹部のニューロンはアルツハイマー病ではなんら障害されない。だから、アルツハイマー病が原因で死ぬなんてことはありえないのだ。だとすれば、吾輩はアルツハイマー病では死なない。きっと死なないんだぞ。
 自分なりに予測するに、吾輩は88歳で死ぬ。振り返ればそれまで、その半分の44年ほどを老化研究に費やしてきた。人生の半分を「老化」のことだけ考えながら生きてきた。そんな人間は稀有だろう。何を好き好んで、と思われるに相違ない。それでも、「お前さんは何者だい?」と問われれば、堂々と「老化研究者でござる」と答えよう。だが、これから先、後期高齢者になって「要支援1」やら「要介護1」とか言われてくれば、「要支援老化研究者」だったり、「要介護老化研究者」になる。そういう段階になったら、もう誰も吾輩のいう話を聞いてはくれなくなるだろう。自分なりには、頭の中は大丈夫だと思っていても、周囲がそう思わないかもしれない。そういう視点からすると、吾輩ももうそろそろ「老化研究者でござる」というのはやめにしたほうがいい、ということなのかもしれない。それは「研究者」としては「おさらば」ということになる。
 吾輩のような専門馬鹿の人間から研究をとってしまったら、何が残るか? それは、結局は、「吾輩は吾輩である」ということなのだろう。どんな人生を歩もうと、誰もが「ひとり生まれて、ひとり死ぬ」。しかし、実際のところは二人の親から生を得て、最期には家族、親族に看取られて逝くのが理想なのだろうが、少子高齢化の中で核家族化が進んで、吾輩の家系もその「少子」の先頭をいくようなものだから、「大勢に看取られて」などは理想ではあれ、やはり無理だ。一人でもいい、家族の誰かがそこにいてくれたらと、願いは控えめになった。
 吾輩の吾は我ではない。「吾」と「我」はどう違うのか? 我にはどうも自分勝手な我(が)がつきまとう。吾は実は、「語る」に通ずる。人との対話の中で吾が育まれる。子供の頃、「人のふり見て我がふり直せ」と教えられた。己を正すには、まずは人をみることだ。そんな中で、自分というものがしだいにわかってくる。そんなものだ。そうして形作られた「吾」は、終いには「悟る」に通ずる。要は、人生というものは「吾を知る旅」である。己は何者なのか? それを突き詰めれば、「吾輩は吾輩である」。それがどのような吾輩なのか、それがわかれば「悟り」の境地となるのだろう。「吾を知る心」、それが「悟る」ということに他ならない。そのためには、まずは「語る」ことから始めなければならない。結局、人はひとりでは生きていけない。だから、家族がいて、親族があり、そして友がいる。さらに近頃は、人様の周辺に常にウイルスの脅威がはびこっている。

 春待:共に生きる
 新型コロナウイルス、そのコロナ禍になって久しい。もうかれこれ2年近くになる。この夏はオリパラの強行開催の最中、「第5波」が勢いを増してきたが、幸いワクチン接種もかなり進んで、この波は収束しつつある。だが、また冬場にかけて「第6波」がいつ動き出すか、不安はぬぐいきれない。大小の波はいくつも出てくるだろうし、来年へも続くのは確実だから、人間対新型コロナウイルスの戦いは、少なくとも3年がかりになるのは間違いない。現状のワクチン頼みではなく、来年には何とか治療薬の見通しが出てきて欲しいところだ。
 そもそもウイルスとは寄生性の生き物で、バクテリアでも植物でも動物の細胞でも、どこにでも巣食う。細菌に巣食うバクテリオファージというのは、中には巣食ったあとにすべてを食い殺して、細胞をあたかも溶かしてしまう、そんな恐ろしいものもある。誰のからだの中にもウイルスは生きている。普段はめだたずに眠っているようでいても、時にググッと起きだして口内炎などを発したりする。冬場の流行り風邪だってウイルスのしわざだ。
 実は、人に巣食うウイルスは何も人の細胞に潜むだけでなく、体の中に巣食う細菌、いわゆる常在菌、それにたかるバクテリオファージもいる。人に細菌が寄生して、その細菌にまたウイルスが寄生する。いわば、親亀、子亀、孫亀の連鎖である。そんな細菌は腸内や口内だけでなく、皮膚の上にもいっぱいいる。そういうと気になって、皮膚をゴシゴシする人がいるかもしれないが、それはいけない。皮膚の湿気を保ってくれるのもあるし、少し酸性にして皮膚をばい菌から守ってくれるものもいる。人は何百兆個もの細菌たちと一緒に生きているし、おそらくその何十倍ものウイルスと一緒に生きている。目に見えない生き物だけに、数にしてみるととてつもなく多い。
 実は、人の中に巣食っているのは、細菌やウイルスだけではない。細胞の中にはミトコンドリアという細胞内小器官がある。これは大昔、私たちの先祖がまだ動物でも植物でもなかった時代に、大きな細胞の中に入り込んだ細菌だったと考えられている。二十億年も前の話だ。ミトコンドリアは細胞のエネルギーを作り出す強力な化学工場で、これなくしては私たちの生命はない。そのミトコンドリアがもともと別の生き物だった証拠に、私たち人間の細胞の遺伝子とは別物の遺伝子をちゃんと自分の中にもっている。それが大昔の独立した生き物の痕跡なのだ。結局、生き物は、自分だけで生きてはいない。何かと一緒に生きている。人がいて、細菌がいて、そしてウイルス。新型コロナだって、このまま何百年も何千年も、人間様のそばにいれば、いつか住みついてしまうだろう。何でもがうまく回るばかりではなかろうが、ウィズ・コロナ、新しい生活様式の中で、一緒に生きていく術を探ろう。

 秋草:人生が二度あれば
 こんな夢をみた。父さん、敬老の日だよ。そう電話して、翌朝、車を飛ばして老人ホームまで迎えにいった。今日はデイサービスのフルコースにしよう。担当者は私だ。まずは、昔、父さんが仕事していた場所をぬけて峠越えして湖を見に行こう。山は紅葉が早いから少しは見所もあるだろう。一緒に行ったことはなかったけれど、父さん、冬にはワカサギ釣りとか言って、出かけていたね。湖を一周するのは結構かかるから、手前から右に回り込んで、あまり人が来ない静かな方を少しだけ回ろうか? 昼飯は、いまはコロナで、どこのホテルの食堂もいろいろ手を尽くして頑張っているけど、ちょっとスーパーで簡単なのだけど、少し買ってくるよ。ちょっとここらで富士山見て待ってて、な。
 どうしてた? 大丈夫? お茶と弁当、小さいの買ってきたけど、迷ってね。父さん、風呂に行こう。一時間半くらいかかるけど、途中も眺めのいい道だから、楽しいと思うよ。たしか休憩所も広くて食堂もあるから、そっちでちゃんと食べよう。ありゃ、寝ちゃったかな。すすきの野原が延々と続く長い長い一本道だった。
 着いたよ、父さん。ここ、一度来たことあるだろう、ずいぶん前だけど、寒い日だったね。ああ、思ったより混んでない。よかった。靴を入れるのに百円がいるんだ。あ、ある。大丈夫。こっちだよ。ええと、二人です。ああ、こっち、父さん。ロッカー、ここにしよう。あ、十円がいる。大丈夫。タオルここにあるから。いいかい、一緒行こう。こっち。すべらんようにね。ああ、やっぱりいいね。まず、ちょっと浸かって。。。背中、流してあげよう。。。背中、せ。。。。。父さん、これまでありがとう、な。
 。。。。。
目がさめた。私は夢の中で泣いていた。こういうことを、一度もしてあげることが、できなかった。

 秋風:「匿名」の友
 こんな夢をみた。「朝には四つ足、昼には二本足、そして夕べには三本足で歩くものは何か?」旅人にそう問うて、答えられぬ者をみな食うてしまう野獣がいた。元は狛犬ほどの大きさだったのだが、食うて食うて、みな食うてしまうものだから、とてつもなく大きくなった。しまいには腹が太うなって動けぬ。体は重くて、足は砂の中にめり込んでしまった。苦しくてもう食べれぬ。日照りの中でそのままじっとしていたら、ミイラのように固まって、口もきけぬようになった。
 その野獣がミイラになって鎮まったころ、幕末の日本から34名の武士たちがその野獣を見物に来た。江戸からパリへ行く、その道すがらである。野獣の右足のたもとに立ち並んで記念撮影に興じた。写真を撮ったのはアントニオ・ベアト。その頃、幕末の日本に入って風景、風俗写真を撮ったフェリーチェ・ベアトの弟だった。34人の志士たちのこの洋行は、渋沢栄一がパリの万国博覧会などへ出かけた、それよりも4年ほども前のことである。その一行の一人が、のちに沼津の兵学校で教鞭をとった。江戸城明け渡しのあと、徳川家が駿府へ移封されたのを受けての措置のひとつだった。それだからだろうか、高校生のころ、私は図書室かどこかで、その野獣の前の武士たちの写真を見た記憶があった。
 富士山をめがけて空に筋雲がなびいて、秋風がそよぐ季節だった。私は毎朝6時50分発の列車にのって御殿場から沼津の高校へ通った。下駄履きで吊革にもたれて、電車の窓からは、黄金色の田んぼの脇に赤い彼岸花がまぶしかった。
 He was faithful to the last.” 英語の暗唱文が百題あった。これはその最初の二つで、このくらいは誰もが覚えていた。あとの98題は実力次第なのだろうが、私はそのあとはもう何も覚えていない。でも、この二つを唱えてみれば、同じ高校の卒業生かどうかはすぐに判定できた。
 秋の文化祭では通学の地区ごとに何か出し物を出すことになっていた。生徒たちが夏くらいから計画をねって、大きな張りぼてを作ってはその祭りの日に校庭で引き回す。その奇抜さと出来栄えが、地区ごとの競争になった。私たちはリヤカーをいくつも組んで、その上に大きな張子のスフィンクスを作った。なぜか殿部にミサイルを突き刺した。その理由はとんと思い出せない。御殿場や小山や裾野など、富士山の麓の町々から通う生徒は、沼津の街の生徒とは少し雰囲気が違って、要は田舎臭かったのだろうが、「山線地区」と呼ばれていた。3学年のその山線の仲間たちで作ったスフィンクスの張りぼての姿は今でもはっきりと脳裏に刻まれている。けれど、その前後の日々のことはもう50年の年月の中、すっかり忘れた。東京の大学へ出たあと、米国やら日本各地に移り住む中で、高校時代のことはすっかり忘れてしまっていた。
 長い間の仕事も、歳ふればそれなりに「定年」ということにもなって、そのあとはだいぶ自由にもなった。時間もできた。それまでは研究商売で論文ばかり書いてきたけれど、定年後は本を意識して書くようになった。
 以前の『ライフスパン:老いなき世界』に対抗してというわけでもなかったのだが、『寿命遺伝子』の本(第1回参照)を出したとき、ふと思い立って、高校の図書室に一冊、送ってみた。すると、すぐに礼状の葉書が届いた。それからしばらくして同窓会報が送られてきた。自分が同窓会の一員ということも忘れてしまっていた。何とも不謹慎な「生徒」だと恥じ入った。
 中に会費納入のお知らせと同窓会報の最後のほうは会費納入者のリストが小さな文字でびっしりと刻まれていた。「第〇〇回」がいくつもあるが、自分がそのどこに属するのかもわからなかった。何度も見ていく中に、たった一人だけ同級生の名前を思い出した。それで、自分は「第六十七回」の卒業生に属することを知った。と、その名簿のその部分の最後に「匿名」とある。会報の紙面にびっしりと並んだ小さな活字の中で、その「匿名」は二つあった。そのひとつが自分たちの学年にある。これはいったい何だ?
 研究という謎解きを生業(なりわい)にしてきた癖で、これが妙に気になった。
 ある時、夢をみた。「に・し・じ・ま」君というのが、夢に出てきた。よう、元気か? そう言われても、不意にはわからなかった。君は誰だ? 西島だよ。一緒に張りぼて、作ったじゃないか。覚えてないのか? 覚えてない。ずいぶんになるな。どうしてた? こっちはいろいろあった。君は? ずっとここにいるよ。あの時から、ずっとここだ。
 はっと思った。事故があった。文化祭の日の未明だっただろうか。夜中の交通事故で4人が死傷した。運転は先輩がしていたのだろう。学校で事故のことを聞いて、病院へ行った。同級生の一人がベッドの上にいた。包帯やらチューブやら、いっぱいつながって、近くの装置の画面にはいくつもの波形が通りすぎながら電子音が止(や)まなかった。
 すまん、と言って、目が覚めた。忘れてしまっていて、すまない。暗闇の中でその「匿名」がよぎった。ああ、「に・し・じ・ま」君だ。ご両親が、ずっと「匿名」という形で、もう半世紀のあいだ、同窓会費を納めていたのだろう。多分、卒業はしていない。でも、卒業式の日に、写真で一緒して、「卒業証書」も出されたのかもしれない。その時のまま、彼の人生は止まった。だが、その止まったまま生きている。学んだ高校への感謝の念は人一倍強い。それが親の想いなのだろう。そうすることが、息子が生きた証になる。本人もまた親の無念も計り知れないものがあるのだが、その老いにも長寿にも無縁の人生は、長いながい時間の中で、秋風にのって昇華していった。

 秋花:寿黙庵
 こんな夢をみた。死ぬのはずっと先のことだと思っていた。西から来た台風が過ぎ去って、涼しい風が吹き渡る。それがしだいに穏やかになって、遠くの山が近くに見えるようになった。部屋の花が何もなくなって、由美子がどこかにお花ないかしら、という。スーパーの花屋で買うこともたまにはあるが、その口調にはどこか郊外に出てみたい、そんな愁いが滲んでいた。進一は車を出した。
 自分と同じく、車もだいぶ歳をとってきてエアコンが時々効かない。その日も途中で空気が生暖かくなった。窓を少し開ける。川沿いの道にはすすきが揺らいで、信号で止まると虫の音がよく響いた。田んぼの稲はもう黄色くなって、畦道にはあふれるほどの彼岸花が輝いていた。春にはこの先の田舎道で野の花を採った。だが、台風のあとで今日は期待できない。元気ならこの先の峠を越えて、山あいの道で野葡萄やら烏瓜をみつくろってもいいのだが、その日はなんとなく峠越えする元気がなかった。
 ああそうだ。しばらく前に息子夫婦が孫を連れて一年ぶりに来てくれたが、帰る前日に訪れた山裾の牧場があった。あそこへ行ってみよう。孫娘との時間は永遠である。世代を越えてDNAに刻まれた過去の記憶が、家族の絆を強くしている。それが生命というものだ。あの牧場? 由美子の声が弾んだ。丘の道を上って降りて、また上って、その牧場の入り口に来た。しかし、ゲートは閉ざされていた。エッ? 連休なのに、なんで? まだ緊急事態宣言の最中(さなか)だった。ああ、そうか。また行き場を失った。
 途中で墓地公園の看板が見えたのを思い出した。ああ、あそこなら開いているかもしれない。道を引き返した。主道から分岐して急な坂道を上ってみる。どこまで続くのかと不安にも思いながら進むと、やがてその入り口らしきものが見えてきた。思いがけず、そこにはたくさんの車がある。人も大勢だった。彼岸の週の連休である。だのに、自分は父親の墓にも、また郷里の先祖の墓にもお参りすることを、今朝考えもしなかったことを、急に詫びる心地だった。花や水桶を携えて行き来する人々がまぶしく思えて、こちらは恥じ入った。そんな気持ちを抱えながら、ずっと奥まで上がってみた。素晴らしい眺めだった。
 街の喧騒を遠く離れて、山あいの先に人々の営みを見下ろしている。行くはずだった牧場の牛舎の大きな赤屋根も見える。宣言下ではあっても牛が何頭も出ていて、そこには牛たちなりの日常がアリのように小さく見えた。高台の区画には墓らしい墓がなかった。緑の中に樹々がゆらぎ、慎(つつま)しげに草花が植わっている。ああ、ここに花があった。
 街を見下ろすベンチがあった。山並みが幾重にも広がる。二人は並んで座って、ただそれだけで時間が過ぎた。米国で運転を覚えた由美子だが、日本の道はこわがって運転しない。それでもここなら牧場へのバスで来れるだろう。ここなら来れるよ。進一がそう言った。そう、バスでも来れるわね。由美子の声が弾んだ。左には孫たちとの思い出の場所もある。そう、一人でも来れるよ。進一がそう言って、すこし間があいた。と、突然、由美子は滝のように大声で泣き崩れた。一人で来るの、そんなの嫌だ、いやだ、いやだーー。嗚咽が周囲を揺るがした。ベンチから落ちる体をただ支えた。まだずっと先の話だ。大丈夫、一緒に来れる。まだ何度でも一緒に来れる。
 死ぬのはずっと先のことだと思っていた。でも、いつか死んでからでもここにいる。この景色がある。眼下に飛行機がゆっくりと降り立つのがみえた。あんなふうにしてまた三人で来てくれるだろう。それを一緒に見守る。その安心感はかけがえのないものだった。この世からいつか消えてもここに一緒にいる。思いがけないことだった。樹木葬の丘を風が吹き抜けた。この歳になって、もう先を見ることはないと、そんなふうにも思っていたのに、ふとそこに未来が見えた気がした。花を探して、その花を摘めはしなかったけれど、思いもしない世界が開けた。ここが次の住処になる。この時初めて気がついた。




No.1『第1回 老化と寿命:まずは、夢のない話から始めよう』
No.2『第2回 松と亀:アメリカもおいしい』
No.3『第3回 遺伝子の老化:二重らせんとジム・ワトソンの老い』
No.4『第4回 身体の中の五輪』
No.5『第5回 細胞の老化:自食と自浄とライフスタシ』



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