平野寅次郎のYR散歩



 ウォーキングには「出会い・ふれあい」があると言われますが、このコーナーは2019年10月開催の「第16回IVVオリンピアード フランス大会」で私がJVAの川内会長にお会いしたご縁で依頼されました。平野寅次郎とは映画「男はつらいよ」の寅さんのように全国の大会を歩いていた時に妻の友人から命名され、ペンネームにしています。 ウォーキングは「誰でも・いつでも・どこでも・いつまでも」です。YR(イヤーラウンド)とは「通年歩行」で時間に制約されず、自分の都合で、いつでもウォーキングが楽しめ、IVV認定がされるコースです。JVAのHPには全国のコース一覧が掲載されています。 寅次郎のお好みの神奈川県・東京都のYRコースを紹介します。


No.1『湘南ふじさわウオーキング協会(FWA) 江の島コース12km』
No.2『JVA・JWA 九段・皇居コース 10km』
No.3『竹の湯コース10km』
No.4『靖国神社・迎賓館・清水谷公園・大使館・千鳥ヶ淵・北の丸公園 12km』
No.5『湯島天神と不忍池〜西郷どんコース 約5km』
No.6『小石川植物園・護国寺・小石川後楽園 13kmコース』
No.7『さんぽみち連絡 5km 東大コース』
No.8『神田明神・湯島天神・水天宮・日本橋コース 10km』
No.9『さんぽみち連絡 小石川後楽園コース 6km』
No.10『谷根千コース 5km』
No.11『第三玉の湯コース 10km』
No.12『東京スカイツリーコース Aコース 14km』
No.13『不忍池・西郷どん・神田明神・湯島天神  5km』
No.14『水天宮・日本橋・神田明神・湯島天神 コース 10km』
No.15『東京スカイツリーコース A-bコース 11km』
No.16『神楽坂―神宮外苑・国立競技場―外濠公園 20km』
No.17『文京の坂113 @湯島ブロック−1』
No.18『文京の坂113 @湯島ブロック−2』
No.19『文京の坂113 A水道橋ブロック 6km』
No.20『文京の坂113 B本郷ブロックー1』
No.21『文京の坂113 B本郷ブロックー2』
No.22『文京の坂113 C白山ブロック−1』
No.23『文京の坂113 C白山ブロック−2』
No.24『文京の坂113 D駒込ブロック 7km』
No.25『文京の坂113 E大塚ブロック 12km』
No.26『文京の坂113 F小石川ブロック−1』
No.27『文京の坂113 F小石川ブロック−2』
No.28『文京の坂113 G小日向ブロック−1』
No.29『文京の坂113 G小日向ブロック−2』
No.30『文京の坂113 H目白台ブロック−1』
No.31『文京の坂113 H目白台ブロック−2』
No.32『よこはま みなとみらい 10kmコース』
No.33『文京の坂めぐりコース 8km』
No.34『さんぽみち連絡コース 6km』
No.35『[水のめぐりBコース 皇居内堀一周] 10km 500選 東京13−01』
No.36『[歴史探訪コース] 10km』
No.37『[東コース(江戸川周遊コース)] 12km』
No.38『[南コース(新中川健康の道)] 12km』
No.39『[北コース(柴又七福神巡り)] 13km』
No.40『[新中川北コース(葛西城址コース)] 10km』
No.41『[西コース(親水公園巡り)] 14km』
No.42『[第三玉の湯連絡コース] 6km』
No.43『[水辺の道コース] 10km』
No.44『テルメ末広 A 荒川コース 10km』
No.45『辨天湯 Aコース 10km』
No.46『辨天湯 Bコース 10km』
No.47『平野寅次郎のYR散歩(番外編)』
No.48『テルメ末広 A 荒川コース 10km』
No.49『水のめぐりCコース 上野不忍池〜谷中〜神田川 12km』
No.50『不忍池コース 3km』
No.51『東大赤門&坂道見所 Dコース 8km』
No.52『気楽に散策 Eコース 5km』
No.53『〜YRよもやま話〜』
No.54『〜YRよもやま話−2〜』
No.55『〜YRよもやま話−3〜』
No.56『藤澤宿コース 7km』
No.57『F二子坂戸緑道・円筒分水コース 8km』





『湘南ふじさわウオーキング協会(FWA) 江の島コース12km』
ステーション:関水スポーツ店 JR東海道線・小田急江ノ島線 藤沢駅南口


 寅次郎が生まれ育ち、2011年まで住んでいた湘南の海を楽しむコースで、JWAの「美しい日本の歩きたくなるみち500選」の神奈川14−6」です。
 寅次郎と湘南の海を見に行きましょう! 湘南の海は四季にわたり楽しめます。
 関水スポーツ店で受付、専用パスポートをもらい、奥田公園から境川沿いを歩きます。境川を渡る江ノ電に出会ったらラッキーです。
 小田急線「片瀬江ノ島」駅前から弁天橋を潮風に吹かれながら江の島に渡ります。参道を上がり赤鳥居左側の江の島エスカー乗り場がチェックポイント(パスポートに押す印が常設)で折り返しですが、上がって江島神社にお参りを! 幸福・財宝の招福や芸道上達のご利益が期待できます。奉安殿では「裸弁財天」にお目にかかれます。  参道両側は江ノ島名物のお店で賑やかです。生しらす丼(写真下左)・サザエのつぼ焼き・江の島饅頭・タコ煎餅に足止めです。復路で弁天橋手前を右手に行くと江の島ヨットハーバーで東京2020オリンピックのセーリング会場です。

 


生しらすの美味しい食べ方は生卵にしらす専用ポン酢を混ぜしらすの上にかけます。


 

 弁天橋に戻り、江ノ電「江ノ島」駅、湘南モノレール「湘南江の島」駅の脇を通って常立寺へ。しだれ梅の名所で蒙古襲来時の元使5人を葬った「元使五人塚」は隠れた名所です。横綱朝青龍・横綱白鵬ら大相撲のモンゴル力士が多く訪れています。あなたも現地でご覧ください。
 脇の坂を上ると片瀬山で富士山と湘南海岸の遠望が素晴らしいビューポイントがあります。この景色は歩いて来ないと味わえませんよ。片瀬山は昔ゴルフ場、今は高級住宅地です。


 山を下り、境川に出るとゴールの関水スポーツ店は間近です。ゴールの手続きをしてください。専用パスポートは参加回数でのFWA表彰制度があります。
 湘南の海や江ノ島の歴史が満喫できるコースで、乗り物マニア・撮り鉄(鉄道ファン)の方にもご満足いただけるコースでもあります。
 他のYRコースはFWAのHPの「YR・四季の道」をご参照ください。

 

平野寅次郎 拝




『JVA・JWA 九段・皇居コース 10km』
ステーション:神田セントビル3F JR総武線 秋葉原駅/御茶ノ水駅


 江戸時代からの都心、皇居周辺を歩くYRコースで見所が盛り沢山です。
 1.神田明神(写真下左)・将門塚(写真下右)のパワースポット
 スタートするとすぐ右手が「神田明神」です。ご祭神は一の宮 大黒様、二の宮 恵比寿様、三の宮 将門様で都心108町会の総氏神様です。ゴール近くの大手町にあるのが「将門塚」で朝廷に反旗を翻した東国の英雄 平将門が捕えられ、京に送られた首級が3日後に東方に飛び去り、この地に落ち「旧神田明神」創建の地となりました。「旧神田明神」は家康の江戸城拡張で江戸城の表鬼門の現在の場所に移されています。しかし、「将門塚」自体は「祟りを恐れ、この塚が動かせない」とビルの谷間に鎮座しています。動かそうとして災難にあった事実があるそうです。
 「神田祭」は湘南ふじさわウオーキング協会HP「ひろば 寅さん歩71江戸・東京の祭」をご参照ください。

 

 

 2.ランドマークは東京ドームのビッグエッグと靖国神社の大鳥居
 YRコースは地図を片手に歩きます。コース通りに歩いているか心配の時にランドマ−クになるのが、東京ドームの屋根と靖国神社の大鳥居です。

 

 

 3.靖国神社・千鳥ヶ淵周辺は桜の名所
 靖国神社の境内の桜は東京都の桜の開花日を決定する標本木になっています。
 千鳥ヶ淵の桜(写真右)は見事です。是非、桜の季節にもお越しください。


 

 4.司法・立法の最高機関と憲政記念館
 半蔵門から皇居のお濠の反対側を歩くと、国立劇場の隣が最高裁判所(司法権を担当する国の最高機関)です。
 道を挟んで見える国会(国の唯一の立法機関)とは高さを同じにしているとのこと。議会開設80年を記念して1972年開館の「憲政記念館」(入場無料)にも立ち寄ってください。庭には時計台や日本水準原点があります。

 5.桜田門・二重橋・皇居前広場
 皇居前広場は即位の礼で多くの人が訪れた場所です。コースは大手門方面に行き、「将門塚」から「神田明神」へ戻ります。

 

 

 今回YRを歩きながら「YRを歩くこと=人生の生き方と同じだ!」と痛感しました。
 ・建物=物事は正面を見ただけで終わりにしないで裏側も見ること。
 ・歩いて来た道は、たまには振り返ることも必要。
   神田明神の御社殿の裏には銭形平次の碑など数多くの見所がありました。
   靖国神社の拝殿の裏には名勝 神池庭園がありました。
   歩いて来た道を振り返ると、また違った景色が見えました。
 東京都は道端に地名の由来や史跡の説明板が多く設置されています。説明板を見つけたら、立ち止まり読んでください。周囲を注意深く見る訓練にもなりますよ。
 自分のペースで歩けるYRの良さを再認識した寅次郎でした。

 

平野寅次郎 拝




『竹の湯コース10km』
ステーション:竹の湯(南麻布1丁目) 都営大江戸線/南北線 麻布十番駅


 ウォーキングの後、お風呂に入って汗を流す快感は体験者にしかわかりません。
 寅次郎所属の湘南ふじさわWAでは「ウォーキングにプラスワンの楽しみを」とゴールがスーパー銭湯の例会やみかん狩りと温泉を楽しむバスウォークを企画しました。JVAのHPを見るとスタート・ゴールが銭湯のYRコースがあり、「麻布十番」の「竹の湯」を選びました。変貌する都心の光景と寄り道(神社も多くあり)が満載、そしてゴールのお風呂が楽しみなYRコースです。

 麻布十番駅から童謡「赤い靴」のモデルになった「きみちゃん像」を左折、直進して「善福寺」の先の「麻布山入口」信号を渡り、進むと、電柱に「竹の湯」の案内があります。営業は15時30分から月・金曜日は休み。寅次郎、着替えとタオル・石鹸を持って一番風呂のゴールを目指してスタートです。 地図はJVAのHPから取り出しました。「二の橋」交差点を渡り、左折、麻布通り右側を直進、「飯倉片町」交差点では右手に東京タワー、「六本木1丁目」では2002年竣工の「泉ガーデンタワービル」(写真下左)があり、上からガーデン(写真下右)が覗けました。



 

 

 1986年竣工の「溜池アークヒルズ」を過ぎると「霞が関官庁街」、「国会前」から「桜田門」・「皇居前広場」に入ります。「国会前庭」(写真下左の左右の緑地)は寄り道スポットです。「憲政記念館」もあります。

 

 

 「日比谷公園」も寄り道スポットです。写真右は日比谷公園の「首賭けイチョウ」(日比谷交差点の道路拡張で伐採寸前にあったところを日比谷公園生みの親、本多静六博士が「私の首を賭けても」と明治35年に移植させた大木で、「松本楼」の脇にあります)公園内の他のイチョウより黄葉が早いようです。(写真は11月15日撮影)



 

 園内の「雲形池」付近の紅葉・黄葉は時期が合えば写真下の光景が見られます。(11月30日撮影)

 

 

 霞が関の官庁街から桜田通りを進み、虎ノ門交差点の「虎」(写真左)を見て直進、左手は2014年6月開業の超高層ビルの「虎ノ門ヒルズ」(下左)です。東麻布での東京タワーです(下右)。




 

 

 ゴール近くには綱町三井倶楽部(写真下左)やオーストラリア大使館(写真下右)があります。

 

 

 ゴールの「竹の湯」(大正2年開業の老舗)には営業開始の15時30分前は20人が待っていました。定連のおじさん・おばさんに加え、場所柄、外国人 や若者の姿が目につきました。

 

 

 「麻布黒美水(こくびすい)温泉 ミネラルたっぷりの天然黒湯温泉、しっとり・すべすべ美肌の湯。効能(適応症)は神経痛、筋肉痛、関節痛、 腰痛、冷え症、疲労回復など」と記載。ウォーキング後のクールダウンにぴったりです。料金は大人470円。受付でYRと言い、別に200円を払う とIVV印がもらえます。冬場もポカポカして気持良いですが、夏場にも歩いて、お風呂で汗を流したいYRコースです。
 通りすがりにある神社は是非歩いて見つけてお参りしてください。

 

平野寅次郎 拝






『靖国神社・迎賓館・清水谷公園・大使館・千鳥ヶ淵・北の丸公園 12km』
ステーション:神田セントビル3F 最寄駅 JR 秋葉原駅/御茶ノ水駅


 千代田区の桜の名所と大使館をめぐるJVA・JWAのYRコースです。

 ステーションから御茶ノ水駅、明治大学駿河台キャンパス、神保町を経て九段下の「靖国神社」に向かいます。2020年の東京の桜の開花は東京管区気象台観測史上最も早い3月14日と発表、また3月22日満開と発表されました。この決定をした「桜の標本木」は靖国神社拝殿に向かって右手にあります。(写真下左で2020年3月23日撮影。本殿裏の「神池庭園」の桜(写真下右)も見事。



 

 市ヶ谷駅に出て市ヶ谷壕の土手「外濠公園」の桜並木を歩き、四谷駅から「迎賓館」(ここは港区)を横目でみて「紀之国坂」信号を左折、「喰違木戸跡」(現地に説明板)、「ホテル ニューオオタニ」の前を通過します。左手の「上智大学脇の桜並木」や「ホテル ニューオオタニの日本庭園」は別の機会にお立ち寄りください。「紀尾井坂」を下り、右折すると「清水谷公園」(写真下左)です。園内には紀尾井坂で1878年(明治11年)暗殺された「大久保利通公の哀悼碑」があります。清水谷公園は紅葉もお勧めです。



 

 公園脇の階段を上がり左折すると「バングラデシュ大使館」(写真下左)、「麹町四丁目」信号を渡り、左折、「参議院宿舎前」信号を右折すると、「ベルギー王国大使館」(写真下中)、「イスラエル大使館」(右手奥で写真撮れず)を過ぎて「女子学院」脇を行くと、「ローマ法王庁大使館」(写真下右)があります。



 

 「大妻女子大」脇を通過すると、「墓苑入口」信号で「千鳥ヶ淵緑道入口」です。旧江戸城の内濠で型が千鳥に似ているので「千鳥ヶ淵」と呼ばれたとのこと。昭和30年代植栽のソメイヨシノが育ち、東京屈指の桜の名所です。2018年4月2日撮影の写真です。2020年3月23日も撮影しましたが、満開度で負けました。





 

 「千鳥ヶ淵緑道」の終点左手には「インド大使館」(写真下左)があります。「田安門」(写真下右)から「北の丸公園」に入り、「日本武道館」周辺も桜の名所です。この写真は2020年3月23日撮影です。



 

 「日本武道館」・「北の丸公園」は工事中のため桜の写真は下の2枚です。



 

 日本武道館のHPからパノラマ写真をお借りしました。



 

 コースは「北の丸出口」から「平川門」、「一ツ橋」、「神田錦町」、「美土代町」、「小川町」を経て「聖橋」を渡りゴールです。桜と大使館三昧のYRでした。

 

平野寅次郎 拝






『湯島天神と不忍池〜西郷どんコース 約5km』
ステーション:神田セントビル3F 最寄駅 JR 秋葉原駅/御茶ノ水駅


 梅の名所 湯島天神から桜の名所 上野恩賜公園までのJVA・JWAのYRコースです。

 時期は異なりますが梅と桜を楽しめる、お散歩コースです。途中には思わぬ出会いもあります。ステーションから坂を下り、「神田明神下」を左折、「妻恋阪」交差点で「鳴門鯛焼本舗」に出会いました。1909年(明治42年)から受け継がれた伝統の製法(一丁焼き)で餡は鳴門金時入りの鯛焼き(220円)です。
10時開店の最初のお客さんとして熱々の鯛焼きを美味しくいただきました。



 

 直進して「湯島中坂下」を左折、「湯島中坂上」を右折で「湯島天神」です。

 湯島天神(湯島天満宮)
 458年に天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)を祀り、創建と伝わる古社。南北朝時代の1355年に「菅原道真公」を合祀、「学問の神様」として多くの受験生に頼りにされています。江戸時代には境内で「富くじ」が売られ庶民にも親しまれました。また、境内の梅も有名で、この地の梅を歌った「湯島の白梅」は大ヒットしたとのこと。泉鏡花の「婦系図」もここが舞台です。



 

 お参りしたらコース地図の指示通り、「女坂」を下り、「春日通り」に出て「天神下」を左折すると目の前に「上野恩賜公園の不忍池」が広がります。

 上野恩賜公園の桜
 天台宗の僧侶「天海僧正」が江戸城の鎮護・徳川将軍家の菩提寺「東叡山寛永寺」を建立した時、上野の山の随所に桜の木を植えたことに始まり、桜の名所になったのは元禄期(1700年頃)とのこと。



 

 写真上左は不忍池入口の桜(2020年3月21日撮影)、奥に「弁天堂」が見えます。「弁天堂」までは池の中の桜並木を歩きます。「弁天堂」から道路に出る手前右側に「駅伝競走発祥之地」の碑(写真上右)があります。
1917年(大正6年)4月27日首都が京都から東京に移った50周年を記念して三条大橋から上野不忍池のこの碑のある当時の「大正博覧会」の正面玄関まで全長508Kmを23区に分けて関東勢(東京)、関西勢(名古屋・大阪)の2チームが丸3日かけてゴールの上野まで走りました。大阪は単独でチーム編成が出来なかったとのこと。この3年後に「箱根駅伝」が誕生しています。
道路を渡り、階段を上ると「上野の山」です。2020年のお花見は新型コロナウイルス感染拡大防止で宴会が禁止となっています。写真下は2015年3月28日に撮影したものです 。



 

 写真下は「東京国立博物館」日本庭園の一般開放時(2015年4月2日撮影)の写真です。2020年は新型コロナウイルス感染防止のため当面の間は臨時休館です。毎年春と秋に一般開放されますのでHPで確認願います。
 

 コースは「花園稲荷神社」、「上野大仏・パコダ薬師堂」、「五條天神社」、「上野東照宮」、「上野動物園」から「大噴水」(寛永寺の本堂があった場所)の手前で折り返し、「正岡子規記念球場」、「摺鉢山」から京都の清水寺を模した「清水観音堂」(写真下左)の舞台から琵琶湖になぞられた「不忍池」(写真下右)を見下ろしました。公園内には「東京国立博物館」、「国立科学博物館」、「国立西洋美術館」、「東京都美術館」、「上野の森美術館」、「東京文化会館」などがある文化の森です。



 

 西郷隆盛銅像
 薩摩藩士の西郷隆盛は江戸総攻撃を中止させ、江戸城無血開城で江戸の町を火の海から救った人。維新の三傑として明治政府では陸軍大将、政治家として活躍しましたが、意見の相違から下野し、西南戦争の指導者となり鹿児島県の城山で自刃。大日本帝国憲法公布の大赦で「逆徒」の汚名が解かれ、没後21年に顕彰を称える像が建てられました。像は高村光雲作、犬は後藤貞行作です。公開時に招かれた西郷夫人は「うちの主人はこんな人でなかった」と薩摩弁で言ったとのこと。軍服姿でなく、上野の山に建てられて「上野の西郷さん」と親しまれています。

 

 写真下左は上野広小路方面に下りる公園口の「しだれ桜」です。コースは「中央通り」を秋葉原駅まで直進して「神田明神下」に戻り、ゴールです。



 

 末広町駅近くの「外神田五丁目」交差点で「神田達磨 たい焼き」(写真上右)に出会いましたが、次回の寄り道とします。距離は短いですが、見所一杯のお散歩コースです。桜の季節を外して静かな時期に「歴史と文化」に触れ、そして「たい焼き」を楽しむお散歩もお勧めです。

 

平野寅次郎 拝








『小石川植物園・護国寺・小石川後楽園 13kmコース』
ステーション:神田セントビル3F 最寄駅 JR 秋葉原駅/御茶ノ水駅


 都心で四季に花が楽しめ、有名大学をめぐるJVA・JWAのYRコースです。

 ステーションから本郷の「東京大学赤門」に向かって一直線に歩きます。
「本郷三丁目」交差点左手に江戸時代の川柳で「本郷もかねやすまでは江戸のうち」と詠われた「かねやす」があります。「東京大学」については他のYRコースで詳しくお話しします。「本郷弥生」交差点を横断、少し右へ行き、本郷税務署方面へ左折です。途中の右手に「ほうろく地蔵尊」、白山上を下りる途中右手奥に「白山神社」、下りて最初の道を左に入ると「八百屋お七の墓」があります。湘南ふじさわWAのHP寅さん歩49「健康ご利益めぐり-11文京区-2」を参照ください。湘南ふじさわWAはHPリンク集の加盟団体からリンクできます。「白山」交差点を直進して進むと「小石川植物園」の脇に出ます。

 小石川植物園
 正式名称は「東京大学大学院理学系研究科 附属植物園」です。この地は「白山御殿」(小石川御殿)と呼ばれ、三代将軍徳川家光の四男徳松(後の五代将軍綱吉)が住んでいました。兄の四代将軍家綱の死に伴い、御殿は廃止し、幕府の「小石川薬草園」となり、あかひげ先生のいた小石川養生所、青木昆陽が甘藷の試作、大奥女中のへちま水も作られたとのこと。明治になり国の薬園「東京帝国大学の植物園」となり、植物学の研究・教育実習施設となりました。
 約48000坪の広大な敷地に多くの植物が楽しめますが、特に春のソメイヨシノ(2015年4月2日撮影)が見事です。精子発見のイチョウ、ニュートンのりんごの木、メンデルの葡萄の木、薬園保存園、公開温室など見所一杯です。



 

 開館は1月4日〜12月28日の9時〜16時30分、休館日は各月曜日(祝日の場合は翌日)、入園料大人500円、小・中学生150円です。
「日本庭園」を歩き、写真下左の「旧東京医学校本館」の出口が開いていれば、ここから出て、YRコースに合流出来ます。「湯立坂」を茗荷谷駅方面に上る途中の右手に「占春園」(写真下右)があります。



 

 「占春園」は徳川光圀の弟を藩祖とする陸奥守山藩 松平家の上屋敷、中屋敷の地で、占春園は屋敷内の庭園の名残です。1903年(明治36年)「東京高等師範学校(戦後の東京教育大学、筑波大学)」校地の一部になりました。
上に行くと現在は「教育の森公園」となり、「筑波大学(大学院)」、「放送大学」の建物があり、コースに合流できます。「春日通り」に出て、「お茶の水女子大学」の前を過ぎて、「大塚三丁目」交差点を左折し、護国寺方面に向かいます。護国寺手前には「豊島ケ岡御陵」(皇族の専用墓地)があります。

 護国寺
 1681年(文和元年)五代将軍綱吉が生母 桂昌院の願いにより建立の真言宗豊山派総本山です。「本殿」は元禄時代の建築技術の粋を結集した建築物としてその雄大さは都内随一と称賛される国の重要文化財です。本殿向かって左の「月光院」は大津三井寺から移築。三条実美、大隈重信、山県有朋など著名人の墓があります。写真下左は「仁王門」、中は「不老門」、右は「本殿」です。



 

 「仁王門」を入り、右手には富士塚の「音羽富士」がありました。湘南ふじさわWAのHP寅さん歩25「東京の富士塚めぐり−2」を参照ください。
「不老門」をくぐると右手に「一言地蔵尊」があり、一言だけの願いを聞き届けるお地蔵さまに寅次郎、「新型コロナウイルス拡大の早期終息」をお願いしました。「護国寺」を出て直進、「江戸川橋」を左折、神田川沿いに進み、「白鳥橋」を左折、「牛天神下」、「小石川税務署」から「小石川後楽園」に向かいます。

 小石川後楽園
 1629年(寛永6年)水戸徳川家の祖である頼房が中屋敷(のちに上屋敷)に造ったもので、二代藩主光圀(水戸の黄門様です)の代に完成した、池を中心にした「回遊式築山泉水庭園」です。中国の風物を採り入れ、庭園名の「後楽園」も明の遺臣「朱瞬水」の命名です。国の特別史跡・特別名勝の重複指定で、全国でも浜離宮恩賜庭園、金閣寺などごく限られています。

 開館は9時〜17時、休館日は年末年始(12月29日〜1月1日)です。入園料は一般300円、65歳以上150円、小学生以下及び都内に在住・在学の中学生は無料です。みどりの日(5月4日)、都民の日(10月1日)、シルバーウイーク(別途定める)の無料公開日があります。
 2020年の東京の桜の開花は観測史上一番早い3月14日と発表されました。
 写真下は園内にある「しだれ桜」でソメイヨシノより早い満開(2020年3月21日撮影)です。写真下右の桜の後の白い屋根は東京ドームです。



 

 桜の他、梅、花菖蒲、紅葉など四季の花が楽しめます。
 「小石川後楽園」から「飯田橋ハローワーク」、「東京ドーム」、「水道橋駅」を通過、「順天堂大学」、「東京医科歯科大学」、「湯島聖堂」の「近代教育発祥の地」を歩きます。湘南ふじさわWAのHP寅さん歩20「東京の発祥之地めぐり(学問・文化編―1)をご参照ください。「昌平橋」を左折するとゴールです。
 見所が多く、ゆっくり立ち寄りしているとゴール時間に間に合わなくなりそうなコースです。季節ごとのYRコースとして楽しんでください。
 寅次郎、秋に訪問して紅葉を楽しむ予定です。

 

平野寅次郎 拝






『さんぽみち連絡 5km 東大コース』
ステーション:神田セントビル3F 最寄駅 JR 秋葉原駅/御茶ノ水駅


 10kmのお散歩は少しきついという人やリハビリでの散歩には5km程度が良いという人が増えて来ています。IVV-JAPAN(JVA)・JWAのYRリストにワンウェイ5kmコースがありました。スタート・ゴールが異なります。残念ながら新型コロナウイルス感染拡大防止で東京大学構内へは関係者以外の立ち入りは出来ません。又、2020年の文京つつじ祭り(根津神社)は中止となっています。寅次郎は以前に訪問していますので紹介します。

 ステーションの受付でYR申込用紙に記載して地図をもらいます。申し込み用紙はゴールで提出、200円を払うとIVVがもらえます。現在は5KmでもIVVが出るようになりました。
 「本富士消防署」、「本富士警察署」の先を左折して「龍岡門」から「東京大学」の構内に入ります。構内は見所一杯です。「赤門」を入った受付に置いてある「本郷地区キャンパス ガイドマップ」が役に立ちます。

 

赤 門
 正式名称は旧加賀屋敷御守殿門。1827年(文政10年)建立の重要文化財です。



 

正 門
 浜尾総長の創意により青年の意気溌剌たる雄大な気概を表現。1912年(明治45年)竣工の登録有形文化財、赤門の先にあります。



 

三四郎池
 正式名称は旧加賀藩屋敷の「育徳園心字池」です。夏目漱石の小説「三四郎」以来、この名で親しまれています。



 

安田講堂
 安田善次郎氏の寄付により1925年(大正14年)に竣工。現在は式典、公開講座、五月祭などに使用されています。登録有形文化財です。




 

 構内には食堂、レストランが多くあります。寅次郎のお好みは安田講堂脇を下りる中央食堂(学食)の「赤門ラーメン」453円です。

 

 見かけは辛そうですが、食べてみると程よい辛さです。学食は11時30分〜13時30分は学生・教職員優先です。学食の1Fは生協購買部で日用品の他、東大の名入の学用品、クッキー、饅頭、チョコレート、赤門ラーメンなどが盛り沢山並び、学校訪問の父兄や高校生のお客さんが多いです。校章になっている「イチョウ」も東大名物です。
 湘南ふじさわWA HP寅さん歩196「東京の学食めぐり−5」を参照ください。リンク集からご覧いただけます。
 

 歩道橋を渡り、弥生キャンパス(農学部)の「農正門」(写真下左)近くには「上野博士と忠犬ハチ公」の銅像(ハチ公没後80年の2015年(平成27年)3月除幕)があります。東大農学部教授の上野博士はハチ公の飼い主で、1925年(大正14年)東大構内で急死されました。ハチ公は自分が死ぬまで10年間朝夕、上野博士の自宅(松濤)から渋谷駅に通い、博士の帰りを待っていました。

 

 東大構内を出て、「弥生式土器の発見地」、「サトウハチロー旧居跡」、「お化け階段」(写真下左、上りと下りで段数が異なる)を下りると、6代将軍徳川家宣の産土神「根津神社」、写真下右は重要文化財の社殿です。

 

 つつじの名所で、文京つつじ祭(2020年は中止)は多くの人で賑わいます。写真は2015年4月22日の撮影です。境内の下から見上げると写真下のようです。

 

 中腹にある「つつじ苑」(つつじ祭り中に開園)の入場料(寄進料)を払い、上に上がると花が近くで見られます。

 

 「湘南ふじさわWA HP寅さん歩―89 江戸・東京の祭−18(花の祭−4)」を参照ください。リンク集からご覧いただけます。

 ゴールの「さんぽみち総合研究所」の場所は「白山一丁目」の信号の前の「KRDビル」です。さんぽみち総合研究所は「バスでウォーク」で全国のウォーキング大会のツアーの企画をしています。寅次郎も全国大会に出かける時にお世話になりました。ここがスタート場所のYRコースもあります。IVV−JAPAN(JVA)のHPウォーキングステーション一覧の東京都を参照ください。
 5kmコースと侮れませんよ。入れなかった人も入らなかった人も「東京大学」に入って構内を満喫、「根津神社のつつじ」や周辺の文京区の史跡も楽しめるお散歩YRコースです。平穏な日常が戻ったら、ぜひ歩いてください。

 

平野寅次郎 拝






 

 都心を歩いて、見どころ・寄り道満載のYRコースです。

『神田明神・湯島天神・水天宮・日本橋コース 10km』
ステーション:神田セントビル3F 最寄駅 JR 秋葉原駅/御茶ノ水駅


 

 YRの歩き方の基本はコース地図をしっかり読みながら歩くことですが、今回のコースは「寅さん歩」シリーズ(湘南ふじさわWAのHPに連載)で歩き回ったエリアなのでコースの近くにある見どころにも寄り道して紹介します。
 本音を言うとコースを間違えて見つけた見どころもあります。
 スタートしてすぐの「神田明神」は「平野寅次郎のYR散歩―2」を参照ください。
 コースは清水坂下を左折するのですが、直進してしまいました。すぐ右側に「妻戀神社」を見つけました。説明板には「その昔、日本武尊が東征の折、この地で倉稲魂神(稲荷神)を祀ったことが起源。また日本武尊が三浦半島から房総へ渡る時、大暴風雨に遭い、妃の弟橘姫が海に身を投げて海神を鎮め、一行を救ったことから妃を船魂神(海神)としてここに祀った」と記載。
 写真下左は妻戀(恋)神社、写真下右は境内右奥のお稲荷さんです。

 

 「湯島天神」は学問の神様 菅原道真公を祀る神社で正式名称は「湯島天満宮」です。
 受験生のお願いの絵馬が盛り沢山ぶらさがり道真公も大変ですね。

 

 梅の名所としても有名で、梅の木の下に石標「奇縁氷人石」(写真下右)があります。
 江戸時代の「迷子知らせ石標」で、後半の「一石橋」で説明します。

 

 「天神下交差点」から「秋葉原電気街」を通り「万世橋」(写真下左)を渡り、「水天宮通り」を進みます。人形町の「甘酒横丁」入口の反対側の右奥にある寅次郎のお気に入りで行列ができる店「玉ひで」でランチの寄り道です。
 1760年(宝暦10年)創業で、お昼の部は11時30分〜13時30分です。写真下右は親子丼(進化)1800円、鶏だしスープ付きでトロトロの卵の中のしゃもの肉は並んでも食べたい美味しさです。日本の親子丼発祥の地で、湘南ふじさわWAのHP「寅さん歩」17東京発祥之地めぐり(グルメ編−1)を参照ください。

 

 写真下左は2016年(平成28年)耐震の改築が行われた「水天宮」の入口、写真下右は本殿です。カップルの参拝姿が目立ちました。

 

 「水天宮」は水難除けの神でしたが、現在は安産の神として有名。総本社は福岡県久留米にあり、久留米藩主 有馬頼徳が三田の江戸藩邸内に分社建立したのが始まりで、1872年(明治5年)に現在地に移ったとのこと。戌の日の帯は寅次郎の母も締めたと言っていました。「水天宮」にお参りした後は「水天宮交差点」を右折、直進します。
 「蠣殻町交差点」で兜橋方面に行くと、「東京証券取引所」(写真下左)脇の道に「兜神社」(写真下右)があります。1878年(明治11年)この地に前身の「東京株式取引所」を設立した時に関係者が鎮守として造成したとのこと。また、「兜」とは源義家が東征の折、この地で兜を岩に懸けて戦勝を祈願したことに由来するとのこと。

 

 「昭和通り」を横断、常盤橋方面に向かいます。室町三丁目「あじさい通り」の「おかめ桜」(写真下左)が満開(2020年3月3日撮影)、「三越本店地下」(「三越駅前」地下コンコースの壁面)で200年前の日本橋を描いた「熈代勝覧(きだいしょうらん)」(写真下右)は必見の寄り道、約17mの絵巻は常設展示です。

 

 「常盤橋」手前を左折(コースは直進)、「一石橋」の親柱(写真下左)脇に「迷子しらせ石標」が(写真下右)あります。正面「満(ま)よいひ子の志(し)るべ」、右側面「志(し)」らす類(る)方」、左側面「たづぬる方」、裏面「安政四丁巳年 十二月 御願済建之 西河岸町」と記載。江戸時代の「迷子告知板」です。

 

 「左面にいなくなった子の情報、右面に心当たりの子の情報を書いた紙を貼って知らせたとのこと。往来の多い場所に置き、湯島天神、浅草寺境内等に同様なものがあった」と説明板に記載。
 コースに戻り、進むと「駿河台下」に到着。ゴールの時間(平日は17時まで)に余裕があればコース沿いの「明治大学アカデミーコモン」地下2階にある「明治大学博物館」、「阿久悠記念館」(代表曲の視聴が出来ます)や「湯島聖堂」に寄り道してYRを楽しんでください。
 湘南ふじさわWAのHP「寅さん歩」121江戸・東京の祭―47(江戸らしい祭)、「寅さん歩」200東京の学食めぐり―8及び「寅さん歩」315東京の博物館めぐりー8(千代田区―2)を参照ください。リンク集からご覧出来ます。

 

平野寅次郎 拝






 

 ゴールのさんぽみち総合研究所まで片道6kmのYRコースです。
 平野寅次郎YR散歩―6で訪問した「小石川後楽園」の花菖蒲と小石川の名所を楽しみます。今回はコースにある説明板を読みながら歩きます。内容の詳細は現地でお読みください。説明板をゆっくり読めるのもYRの魅力のひとつです。

『さんぽみち連絡 小石川後楽園コース 6km』
ステーション:神田セントビル3F 最寄駅 JR 秋葉原駅/御茶ノ水駅


 

 ステーションから「神田明神」先の「湯島聖堂前」信号を左折、「東京医科歯科大学」に沿って歩くと「近代教育発祥の地」の説明板があります。その先の階段を下り右折、「神田川沿い(線路沿い)」をJR水道橋駅方面に向かって「お茶ノ水坂」(反対側の道路に説明板)を下ります。坂の途中には「神田上水懸樋(かけひ)跡の碑」があります。江戸時代、神田川の上に木製の樋を架けて神田上水の水を通して神田、日本橋方面に給水していました。「水道橋」信号を右折、「東京ドームシティ」(写真下右)側を歩きます。

 

 「ウインズ後楽園」(黄色いビル)の先を右折、「小石川後楽園」裏手門の手前を左折、白壁沿いの「緑道」を進みます。途中には「小石川後楽園展示室」(写真下右)が無料で覗けます。そして正門に到着です。6月1日から当面の間、開園は10時〜16時の時間短縮です。入場料は一般300円、65歳以上150円です。

 

 「小石川後楽園」は回遊式築山泉水庭園で国の特別史跡・特別名勝の二重指定を受けている名園です。水戸徳川家屋敷の庭として初代藩主頼房が着手、2代藩主光圀(黄門様)の代まで30年をかけて完成しています。ちなみに徳川幕府最後の第15代将軍慶喜は第9代藩主斉彬の7男としてこの地で誕生しています。
 明治2年の廃藩置県で邸宅とも陸軍省の所管となりますが庭園はそのままの姿で保持されました。園内奥では「花菖蒲」が一面に咲いています。写真下は2015年(平成27年)6月の撮影です。花菖蒲は初夏を告げる花で日本では梅雨を代表する花の一つです。花言葉はその姿に由来して「優しい心」「優雅」です。

 

 FWAのHP「寅さん歩」96 江戸・東京の祭―25(花の祭―7)を参照ください。リンク集からご覧になれます。
 「小石川後楽園」を出て右折、突き当りの道路を横断し左折、「小石川税務署」前を通過し、「牛天神下」の信号を渡り、最初の信号を右折、「牛坂」を上ります。源頼朝ゆかりの「北野神社(牛天神)」(写真下左)、写真下右は境内の末寺「太田神社・高木神社」があります。太田神社は元は貧乏の神、今は芸能の神・福の神、高木神社は五穀の神です)それぞれの説明板を参照ください。

 

 「春日通り」に出て左折、「傳通院前」の信号を右折すると「傳通院」の山門(写真下左)です。徳川家康の生母「於大の方」や2代将軍徳川秀忠の娘(家康の孫)で豊臣秀頼の妻の 「千姫」などが眠っている徳川ゆかりの寺です。「傳通院」の名は於大の方の戒名とのこと。写真下右は「本堂」で墓地は本堂左手にあります。入口の墓地案内板でお参りしたい方を確認してください。作家の柴田錬三郎、日本画家の長谷川明治、指圧師の浪越徳次郎などの墓もあります。

 

 写真下左はお於の方の墓(右手前には生涯が記録)、写真下右は千姫の墓です。

 

 山門を入り左には「指圧の心は母心 押せば命の泉湧く」で有名な浪越徳次郎生前寄贈の「指塚」(写真下左)がありました。「日本指圧専門学校」は山門手前右にあります。山門を出て左の「善光寺坂」を下ります。道の真ん中に「ムクノキ」(写真下右)があります。説明板を参照ください。

 

 「慈眼院」(写真下左)・「沢蔵司稲荷」(写真下右)の面白い内容の説明板があります。傳通院の修行僧の沢蔵司が蕎麦好きの稲荷大明神だったという話、前述のムクノキには沢蔵司がやどっているといわれ道路拡張の時に伐採できず、道をふたまたにしたという話が記載されています。

 

 坂を下り右折、「えんま通り商店街」を進むと右手が「源覚寺」です。寛永元年創建の浄土宗の名刹。老婆の眼病平癒の願いに閻魔大王が自分の眼を老婆に与え、お礼に老婆は大好物の“こんにゃく”を奉納し続けた由来から、「こんにゃく閻魔」として長く親しまれ、今もお参りに“こんにゃく”をお供えする人が多いです。地獄の蓋が開くお盆(東京では7月15日)には参詣者に“こんにゃく”がふるまわれます。お寺の話ではお供えされた“こんにゃく”ではなく新たに入手の“こんにゃく”を使うとのことです。
 説明板には「木造閻魔王坐像の右眼は黄色く濁っている。高さ100.1m、ヒノキ材の寄木造りで、彩色を施し、玉眼が嵌入してある。優れたできばえを示し、運慶派の流れをくむ鎌倉時代の作と思われる。銘文によると寛永12年(1672)に仏師竹内浄正が修理している。彫刻美術品として優れているとともに、文京区所在の仏像の中で、古い作製年代に属するものとして貴重な文化財である。(一部略)」と記載。写真下右は閻魔像が奥にあるので、左手前に写真を置き、参詣者はその前に“こんにゃく”をお供えしています。

 

 境内には歯痛緩和の「塩地蔵」(寛永元年の開山以前よりこの地にあり、お身体に塩を盛ってお参りして身体健康を祈願)や小石川七福神の「毘沙門天」が祀られています。写真下左は「塩地蔵」、右は「毘沙門天堂」です。

 

 寅さん歩48 健康ご利益めぐりー10(文京区−1)、49 健康ご利益めぐり-11(文京区―2)寅さん歩99 江戸・東京の祭―28(江戸らしい祭−12)、寅さん歩120 お江戸の閻魔大王―2を参照ください。
 「こんにゃくえんま前」信号を直進、「白山通り」を横断、道なりに「西片二丁目」信号を進むと「本郷通り」の「本郷弥生」信号に出ます。左折して「東大農学部前」バス停の所に「将軍御成道 岩槻街道」の説明板を見つけました。
 向ケ丘1丁目13-6で「正行寺 せきどめ とうがらし地蔵」を見つけ、新型コロナ終息を祈願しました。「向ケ丘1丁目」信号前がゴールの「さんぽみち総合研究所」の建物(写真下右)です。通り過ぎないようにご注意ください。

 

 今まではさっと見て、通り過ぎていた小石川の多くの名所を説明板をしっかりと読んで学び直したYRでした。

 

平野寅次郎 拝






 

 文京区と台東区の境界にあたる中・津・駄木界隈の寺町を周遊する距離は短いですが、寄り道も多く、見所満載のコースです。「谷根千」と呼ばれる人気の散歩道です。

『谷根千コース 5km』
ステーション:さんぽみち総合研究所 最寄駅 南北線 東大前駅2番出口


 

 スタートして最初の信号「日本医大前」を右折するコースですが、左折して「夏目漱石旧居跡」に寄り道です。森鴎外も漱石が住む13年前に1年余り住んだという二大文豪の居住地です。旧居は犬山市の明治村に移築、保存とのことです。

 

 夏目漱石はイギリス留学から帰国後の3年10ケ月この地に住み、「吾輩は猫である」の創作の舞台となり「猫の家」と呼ばれました。塀の上は作り物の猫でした。 コースに戻り、「日本聖公会 東京聖テモテ教会(写真下左)」を左折、森鴎外の小説「青年」に登場した「新坂」(権現坂・S坂とも呼ばれる)を下ると「根津神社」(写真下右)です 。

 

 根津神社についてはNo,7 さんぽみち5km東大コースを参照ください。
 根津神社前には「菓寮 花小路 焼きかりんと」のお店があり「松任谷由美お気に入り」とのポスタ-がありました。不忍通りを横断して「谷中の寺町」に入ります。」途中には「大名時計博物館」(写真下左)と 日荷上人(にっかさま)を祀った「延壽寺 日荷堂」(写真下右)があります。日荷上人は横浜から身延山まで三日三晩、仁王尊二体を背負って奉納した「健脚の神様 足腰病守の神様」です。足を大事にするウォーカーの皆様はしっかりとお参りしてください。

 

 写真下左は谷中のシンボル「ヒマラヤ杉」と「みかどパン店」(三角地に建つので“みかど”とのこと)です。自然食材で作られた「ヒマラヤ杉ラスク」が売られていました。写真下右は前後左右がお寺の谷中の寺町風景です。

 

 やがて「谷中霊園」に到着です。写真下左は現在、右は桜満開の時期です。

 

 コースは霊園中央路を抜けますが、多くの著名人が眠っていますので代表して、「徳川慶喜墓所」に立ち寄り、お参りしましょう。徳川幕府最後の将軍慶喜は「自分は徳川家を潰した」と将軍家菩提寺の墓所には入らず、ここで眠っています。墓所へは案内表示があります。写真右の写真の中央が慶喜のお墓、右は正室、左は徳川家の墓(子孫用)です。

 

 コースに戻り、中央路を進むと、右手に「天王寺五重塔跡地」(写真下左)、正面には「天王寺」(写真下右)があります。「天王寺」は江戸時代前からの名刹ですが、幕府からは日蓮宗から天台宗に改宗させられ、寺名も「天王寺」に変更させられ、新政府からは大半の土地を召上げられ、「行人坂の大火」で焼失後、1791年(寛政3年)に再建、幸田露伴の小説のモデルにもなった「五重塔」は1957年(昭和32年)放火で再度焼失という波乱万丈の歴史です。

 

 日暮里駅脇から左折ですが、右の跨線橋は鉄道ファンの「鉄道博物館」です。

 

 御殿坂を上ると月見寺の「本行寺」(写真下左)、幕末の上野戦争で敗走した彰義隊士をかくまったため、新政府軍の攻撃を受け山門に銃弾の跡が残る「経王寺」(写真下右)が並んでいます。

 

 「経王寺」前の左路地を入ると近代日本を代表する彫刻家・彫塑家の朝倉文夫の「朝倉彫塑館」があります。コースは「夕やけだんだん」(写真下左)と「谷中ぎんざ」(写真下右))に向かいます。

 

 よみせ通り商店街を通り抜けると「団子坂下」、坂(写真下左)を上った所にある「森鴎外記念館」(写真下右)です。鴎外の終の棲家の旧家跡で「観潮楼」と呼ばれ、当時はここから海が見えたとのことです。「団子坂」の由来は近くに団子屋があったとか、悪路で転ぶと団子のようになったとか諸説があります。

 

 大観音通りを進むと、右手に「光源寺」があります。1589年(天正17年)神田四軒町に創建され、江戸城の拡張で慶安元年(1648年)現在地に移転しています。境内にある「駒込大観音」は1697年(元禄10年)造立の御丈約5mの「十一面観音像」でしたが東京大空襲で焼失し、1993年(平成5年)御丈約6mに再建されたとのことです。

 

 向丘二丁目交差点を横断し左折、本郷通りを進むと、まもなくゴールです。
「谷根千」の寺町を満喫しましたが、紹介を省略した多くの寺院があります。是非、現地で確認してください。又、桜の季節にもおすすめのコースです。

 

平野寅次郎 拝






 

 江戸の面影を残し、粋でお洒落な街 神楽坂をスタート、ゴールは神楽坂の「第三玉の湯」でウォーキングの汗を流すYRコースです。

『第三玉の湯コース 10km』
ステーション:第三玉の湯 新宿区白銀町1-4 最寄駅 南北線 大江戸線 牛込神楽坂駅A3出口


 

 「第三玉の湯」は「神楽坂上」交差点にある「安養寺」(写真下左)から大久保通りを交番方向に下ると左手にあります。スタートして神楽坂通りを進むと東西線神楽坂駅前に「赤城神社」(写真下右)があります。

 

 「赤城神社」は鎌倉時代の1300年(正安2年)上野国赤城神社を勧請した江戸時代から「牛込の鎮守」です。2009年(平成21年)再生プロジェクト(設計監修は国立競技場設計の隈研吾氏)でお洒落な社殿に生まれ変わりました。敷地内にはマンション(社殿の右手)も建っています。

 

 「狛犬」(写真上左)は江戸時代に流行った加賀白山犬でスフィンクスに似ています。写真上右は社殿手前にある菅原道真公を祀る「蛍雪天神」です。 YRで迷わないコツは次に行く地点を明確にして、交差点の信号の上の表示や道路にある案内地図板を見て歩くことです。道路の右・左側のどちらを歩くかも地点を早く見つけるポイントです。東京女子医大通りを抜け、防衛省先の合羽坂下から「津の守坂」の左側を歩き、坂の途中に案内表示がある「新宿歴史博物館」(写真下左)に立ち寄り、新宿の歴史を勉強しました。写真下右は江戸時代の「内藤新宿」の再現模型です。休館日は第2・4月曜日(祝日の場合は翌日)、12月29日〜1月3日、観覧料は一般300円です。

 

 甲州街道を横断し、直進、「円通寺坂」を下ると右手が「須賀神社入口」です。須賀神社に上がる石段はアニメ映画「君の名は。」で主人公の男女が再会するラストシーンに描かれた場所で映画ファンの聖地だそうです。 「須賀神社」は「新宿区ミニ博物館(新宿区内の文化財や史跡、伝統産業を担っている職人さんの仕事場などを展示・公開)で「社殿」(写真下左)の左側に「三十六歌仙絵」のレプリカ(写真下右)が解説付きで紹介されています。三十六歌仙絵を一人一人の絵に仕立てた優品で本物は社殿内に保管とのこと。

 

 社殿左の稲荷神社から出て直進、右折、「本性寺」先を右折すると「於岩稲荷 陽運寺」(写真下左)があります。「陽運寺」の説明板には[戯曲が世に広まり、貞淑な妻だった「お岩様」が庶民の畏敬を集めました。境内にある泰山木の下にお岩様縁の祠があったと伝えられ、陽運寺の起源とされています。「えんむすび」の寺、厄除け、芸道上達のご利益もあります]と記載。

 

 写真下左は女性参拝者を見込んだ陽運寺の週替わり「お寺ごはん 鶏そぼろ弁当」1200円で境内の庭で食べられます。さらに「田宮神社跡 於岩稲荷」(写真下右)が道を挟んであります。「田宮神社跡」の説明板によると[田宮家の邸にあった社で、初代 田宮又左衛門の娘 お岩が信仰し、養子 伊右衛門と共に家勢を再興したことから「お岩さんの稲荷」と呼ばれ次第に人々の信仰を集めたようです。鶴谷南北の戯曲「東海道四谷怪談」は実在の人物からは200年後の作品で、お岩夫婦も怪談話とは大きく異なり円満でした]と記載。湘南ふじさわWAのホームページ 寅さん歩222 東京にこんなところ−21 を参照ください。リンク集からリンク出来ます。

 

 来た道を「本性寺」まで戻り、左折し直進、「戒行寺」の先を右折、先にある「鉄砲坂」を左折、「学習院初等科」(写真下左)の裏に出ます。右手の「迎賓館」(写真下右)を眺めて、四谷見附(四ツ谷駅)方面に向かいます。

 

 外堀通りを歩きますが、「外濠公園」の中を歩くと車の騒音から逃れられます。 外濠公園の出口「国史跡江戸城外掘跡(市谷地区外濠)」の説明板(写真下左は当時の市谷見附の写真)を読み、「市ヶ谷橋」から現在の「市ケ谷壕」(写真下右)を見て、外堀通りを渡り、少し戻ると「市谷亀岡八幡宮」があります。

 

 「市谷亀岡八幡宮」(写真下左)は1479年(文明11年)太田道灌が江戸城築城の際に西方の守護神として「鎌倉鶴岡八幡宮」の分霊を祀りました。
 是非、階段上までお立ち寄りください。

 

 外堀通りの左側を歩くと、「東京理科大学」の校舎があり、写真上右の「モニュメント」に気付きます。説明板によると[名称は「坊ちゃんの塔」で夏目漱石の小説「坊ちゃん」の主人公が本学の前身の東京物理学校を卒業した数学教師に由来、人間味あふれる実力ある理系教師を輩出し、理学のさらなる普及の継承を期待して建設の鏡映対称な一対の五面体の「ペンタドロン」を組み合わせて構成]と記載。時間の余裕があれば左奥の東京理科大「近代科学資料館」にもお立ち寄り下さい。(開館状況は事前にHPで確認ください)
 「神楽坂下」から神楽坂通りを上り、コ川家康の意で創建され毘沙門天を祀る「善国寺」(写真下左で狛犬は石虎)にもお立ち寄りください。その前の小道を右に入ると写真下右のような「兵庫横丁」があります。
 コースは善国寺手前の「本多通り」を右折し「筑土八幡宮」に向かいます。

 

 「筑土八幡宮」(写真下左)は800年代に信仰心の厚かった老人の夢に現れた八幡神のお告げで祀られたのが起源の古社で筑後の宇佐神社の宮土を求めて礎としたのが命名の由来とのこと。境内には住居が裏手にあった「田村虎蔵」(童謡「金太郎」、「浦島太郎」を作曲)の顕彰碑がありました。ここも階段を昇り、是非立ち寄り下さい。ゴールの「第三玉の湯」(写真下右」はすぐ近くです。

 

 「第三玉の湯」は高濃度炭酸泉・弾力ジェットと露天風呂(大きくはありませんが)で「都会のオアシス」と人気の銭湯です。営業は15時からなので、途中での立ち寄りなどで時間調整をしてください。入浴料金大人470円を払い、ウォーキングパスポートを出すとIVVが押印されます。シャンプーもボディソープもありました。貸タオルもあるので手ぶらでも利用できます。寅次郎の風呂上りの定番は腰に手を当てて飲む「コーヒー牛乳」です。
 今回もコース途中に多くの寺院がありますが、紹介を省略しております。現地での説明板をご覧ください。「外堀通り」は桜の季節に歩くのもお奨めです。

 

平野寅次郎 拝






 

 2020年9月7日から日本市民スポーツ連盟の事務所は湯島ハイタウンA棟に移転しました。寅次郎、新YRコースを歩きました。

『東京スカイツリーコース Aコース 14km』
ステーション:湯島ハイタウンA棟208号   最寄駅 千代田線 湯島駅


 

 湯島ハイタウンA棟(写真下左はビル入口)に入り、右側の階段を2階に上がり事務所(写真下右)でYRの受付をしてスタートです。ビルを出て左折、御徒町駅方面に「春日通り」を進みます。

 

 左側に「アメ横」、右側に移るとレトロスポットの「佐竹商店街」、「三筋二丁目交差点」には「川柳発祥の地の碑」(写真下左)があります。柄井川柳がこの地で「万句合」の会を開いています。隅田川西岸にあった蔵前の米蔵の荷駄馬用の厩に因んだ名の「厩橋」(写真下右)を渡ります。

 

 「本所四丁目」を過ぎ、左にあるWCの先の「横川橋」手前の小道を下りると「大横川親水公園」です。しばらく歩いて「釣堀」の右側を上がると目の前の「東京スカイツリー」(写真下左)に圧倒されます。
 「業平橋1丁目」の信号を左折、「東武橋」方面に行くと、右側に「ソラマチ」と「東京スカイツリー」(写真下右)があります。

 

 道の左側を歩き「とうきょうスカイツリー駅」を右に見て、「小梅牛島通り」から「墨田公園」に向かいます。前ばかり見ていないで立ち止まり、後を振り返る(人生と同じです)と「東京スカイツリー」のビューポント(写真下左)。

 

 「墨田公園」は関東大震災からの東京復興事業の一環として計画・整備された公園で徳川水戸藩邸の庭園も残されています。園内にある本所の総鎮守の「牛嶋神社」(写真上右)には体だけでなく心も治すと信じられている「撫牛」(写真下左)が鎮座。でもどこを撫ぜれば心が治るのかは説明板には書いてありませんでした。

 

 コースでは後ろを通る「三囲(みめぐり)神社」(写真上右)は右に下りて立ち寄ってください。三井家(越後屋)の江戸進出の時に「三囲」の名にあやかって守護神とした神社です。当主はライオンがお好きだったそうで三越のシンボルライオン像(旧池袋三越から移したもの)、コンコンさん(おきつねさん)、狛犬が社殿を守っています。「墨田公園」の墨田区側と台東区側を結ぶ歩行者専用の優美な曲線とX字型の「桜橋」を渡ります。両岸の桜並木は5代将軍徳川吉宗の計らいで植えられたものです。橋の上から振り返って見る「東京スカイツリー」(写真下右)です。

 

 「台東パークサイドスポーツセンター」の脇を行き「いまどばし」(昔の山谷堀で江戸時代は吉原通いの水路)を右折、「今戸神社」方向に向かいます。「今戸神社」は招き猫発祥の地、今戸焼発祥の地、新選組沖田総司終焉の地です。

 

 写真下左は社殿の中の招き猫です。ランチは「今戸二丁目」のお食事処「イチカワヤ」に飛び込み、熱中症対策も兼ねた「塩サバ定食」(写真下右)750円。

 

 お弁当を持っていれば通過する、どこの公園でも食べられますよ。
 「今戸二丁目」信号左にある「本性寺」は痔の神様が祀られていて「痔平癒」のご利益があるとのことです。お悩みの方には社殿とお墓のお参りをお奨めです。「明治通り」に出て「泪橋交差点」を通過します。「泪橋」とは現在は暗渠の「思川」にかかっていた橋で右に行くと南千住で江戸時代の小塚原刑場です。罪人はこの世との別れの場、家族や身内は今生の別れの場で、お互いにこの橋の上で涙を流したことに由来します。「三ノ輪交差点」から「金杉通り」に入り、「東日暮里」から「鶯谷駅前」の左側の道を行き、線路手前の右側の階段を上がると「寛永寺陸橋」上です。「谷中霊園」を右に見て「言問通り」を進み、「旭ビル」(建物の上に記載、右側は浄名院)を左折すると「寛永寺根本中堂」(写真下左右)です。「上野恩賜公園」の大噴水あたりにありましたが、上野戦争で焼失してしまい、1876年(明治9年)から12年かけて川越喜多院の本地堂を移築しました 。

 

 「上野恩賜公園」は見所満載で別のYRコースがあります。今回はコース沿いにある歴史的建造物や史跡を紹介します。「国際子ども図書館」(旧帝国図書館)、「黒田記念館」、「京成電鉄博物動物園駅跡」(写真下左)、「鳥取藩池田家江戸屋敷の正門」(写真下右)を通過します。

 

 「東京国立博物館前の大噴水」(写真下左)から「上野動物園」や鳥羽・伏見の戦いで征討大将軍として参戦、戊辰戦争の指揮をとった「小松宮彰仁親王銅像」(説明板には兄宮が敵方の寛永寺最後の門跡に因んでここに建つと記載)を通過します。その先の「上野東照宮」は奥まで入ってください。ここまで(写真下右)無料で見られます。

 

 落ちない合格大仏と受験生に人気がある「上野大仏」(写真下左)、"鐘は上野か浅草か"の「時の鐘」(正午には鐘をつきます)などがあります。

 

 気取ってみたい方には「時の鐘」手前の「上野精養軒」で明治の文豪 森鴎外も食したと伝わるハヤシライス(サラダ付き1680円)をお奨めします。
コースは「五條天神社」の脇の坂を下りますが、「花園稲荷神社」参道(写真下左)から「五條天神社」(写真下右)に下りる道をお奨めします。

 

 「不忍池」の中の桜並木(江戸時代は茶屋が立ち並んだとのこと)を通り、ゴールへ向かいます。桜の季節はお花見YRです。以前に撮った墨田公園の桜(写真下左)、上野恩賜公園の桜(写真下右)です。

 

 「不忍池」から「弁天堂」に向かいます。参道入口左の柳の下に駅伝の発祥を記念した「駅伝の碑」(写真下左)がありますので見つけてください。
 写真下右は「弁天堂」の裏側です。正面は寄付提灯で社殿が隠れています。
 「不忍池」はハスの花が咲く時期が楽しみです。

 

 文京区、台東区、墨田区、荒川区を歩き回り、江戸・東京の歴史やいろいろな顔を見ることが出来ました。七福神の寺社も多いです。見学ポイントを絞って何度も楽しめるYRコースです。
 早足で歩いてお昼にはゴールの方には湯島ハイタウンA棟の入口右にある「喜代松」のランチ天丼(1040円)をお奨めします。
 文中の金額は訪問時のものです。
 また、湯島ハイタウンA棟の後方には「旧岩崎邸庭園」(岩崎彌太郎の長男で三菱第三代社長の久彌の本邸で重要文化財)があります。是非お立ち寄りください。前方にある「湯島天満宮(湯島天神)」は別のYRコースがあります。
 リンクできる「湘南ふじさわWA」のHP ひろば にはYRコース沿いにある話題の場所の詳細が記載されていますので、ご参照ください。
 寅さん歩11・15・23 東京発祥之地めぐり、寅さん歩37・38健康ご利益めぐり(台東区)、寅さん歩174 お江戸の時の鐘−1、寅さん歩301 東京の博物館めぐり−1

 

平野寅次郎 拝






 

 2020年9月7日から日本市民スポーツ連盟の事務所は湯島ハイタウンA棟に移転しました。従来あったコースですが、スタート・ゴールが変更になった新YRコースです。

『不忍池・西郷どん・神田明神・湯島天神  5km』
ステーション:湯島ハイタウンA棟208号   最寄駅 千代田線 湯島駅


 

 湯島ハイタウンA棟(写真下左は入口)を入り、右側の階段を2階に上がり事務所(写真下右)でYRの受付をしてスタートです。ビルを出て左折、「天神下」を左折、「不忍池」方面に向かいます。季節は異なりますが「桜」と「梅」と「鯛焼き」が楽しめる、お散歩コースです。桜の写真は以前に撮影したものです。

 

 目の前に「上野恩賜公園の不忍池」(写真下左)が広がります。「不忍池」の中の道を通り、「弁天堂」(写真下右は裏側)に向かいます。

 

 「弁天堂」から前の道路に出る手前、右後ろに「駅伝競走発祥之地」の碑(写真下右)があります。1917年(大正6年)4月27日首都が京都から東京に移った50周年を記念して三条大橋から上野不忍池のこの碑のある当時の「大正博覧会」の正面玄関まで全長508Kmを23区に分けて関東勢(東京)、関西勢(名古屋・大阪)の2チームが丸3日かけてゴールの上野まで走りました。大阪は単独でチーム編成が出来なかったとのこと。この3年後に「箱根駅伝」が誕生しています。

 

 「弁天堂」前の信号を渡り左折、「五條天神社」(写真上右)への坂を上ります。医薬祖神が主神ですが、菅原道真も祀る「天満宮」とのこと。「花園稲荷神社」、落ちないと受験生に人気の「上野大仏」、ここまでは無料で見られる「上野東照宮」(写真下右)、鳥羽・伏見の戦いで征討大将軍として参戦、戊辰戦争の指揮をとった「小松宮彰仁親王銅像」(説明板には兄宮が敵方の寛永寺最後の門跡に因んでここに建つと記載)、「上野動物園」と見所が多いです。

 

 また桜の時期は大混雑の場所です。上野の桜は天台宗の僧侶「天海僧正」が江戸城の鎮護・徳川将軍家の菩提寺「東叡山寛永寺」を建立した時、上野の山の随所に桜の木を植えたことに始まり、桜の名所になったのは元禄期(1700年頃)とのことです。
 2020年は新型コロナウイルス感染拡大防止でお花見の宴会が禁止となってしまいました。写真下は2015年3月28日に撮影したものです。

 

 「上野恩賜公園」の広場には洒落たコーヒー店が並びます。交番の右手にあるWC脇を行くと「正岡子規記念球場」、隣の公園管理事務所で上野恩賜公園案内図をもらってください。古墳時代の前方後円墳の「擂鉢山」、京都の清水寺を模した「清水観音堂」(写真下左)の舞台から琵琶湖になぞられた「不忍池」(写真下右)、を見下ろしました。「天海僧正毛髪塔及び供養塔」、「彰義隊墓所」、「西郷隆盛銅像」と続きます。また公園内には「東京国立博物館」、「国立科学博物館」、「国立西洋美術館」、「東京都美術館」、「上野の森美術館」、「東京文化会館」などがある文化の森です。

 

 薩摩藩士の西郷隆盛は江戸総攻撃を中止させ、江戸城無血開城で江戸の町を火の海から救った人です。維新の三傑として明治政府では陸軍大将、政治家として活躍しましたが、意見の相違から下野し、西南戦争の指導者となり鹿児島県の城山で自刃しました。大日本帝国憲法公布の大赦で「逆徒」の汚名が解かれ、没後21年に顕彰を称える像が建てられました。像は高村光雲作、犬は後藤貞行作です。公開時に招かれた西郷夫人は「うちの主人はこん人でなかった」と薩摩弁で言ったとのこと。軍服姿でなく、上野の山に建てられて「上野の西郷さん」(写真下左)と親しまれています。写真下右は上野広小路方面への公園口の「しだれ桜」です。

 

 コースは「中央通り」を秋葉原駅方面へ直進します。地下鉄末広町駅近くの「外神田五丁目」交差点の右側で「神田達磨 羽根付き たい焼き」(写真下左右)に出会いました。薄焼き鯛焼きの特徴を楽しみながら、皮そのものの美味しさも楽しめるように、羽根を付けたとのこと(登録商標)。北海道十勝産の小豆を使った粒あん入り(184円)。年中無休で12時からの営業です。焼きたての香ばしいうちにお召し上がりくださいとのことです。

 

 「ベルザール秋葉原」まで行き、右折、「神田明神」に向かいます。
 「神田明神」(写真下左)のご祭神は一の宮 大黒様、二の宮 恵比寿様、三の宮 将門様で都心108町会の総氏神様です。「神田明神」の創建の地は大手町にある「将門塚」(写真下右)です。朝廷に反旗を翻した東国の英雄 平将門は捕えられ、京に送られた首級が3日後に東方に飛び去り、「将軍塚」の地に落ちたとのこと。「神田明神」は家康の江戸城拡張で江戸城の表鬼門の現在の場所に移されましたが、「将軍塚は祟りを恐れ、動かせない」と現在もビルの谷間に鎮座しています。動かそうとして災難にあった事実があるとのこと。
 江戸時代から続く「神田祭」は山王祭、三社祭と並ぶ、江戸三大祭です。リンクの出来る湘南ふじさわWAのHPの「寅さん歩71・92 江戸・東京の祭」をご参照ください。

 

 コースは「神田明神」の脇を出て「清水坂下」から「湯島天満宮(湯島天神)」に向かいます。すぐ右側に「妻戀神社」を見つけました。説明板には「その昔、日本武尊が東征の折、この地で倉稲魂神(稲荷神)を祀ったことが起源。また日本武尊が三浦半島から房総へ渡る時、大暴風雨に遭い、妃の弟橘姫が海に身を投げて海神を鎮め、一行を救ったことから妃を船魂神(海神)としてここに祀った」と記載。写真下左は妻戀(恋)神社、写真下右は境内右奥のお稲荷さんです。

 

 さらに直進して進むと「湯島天満宮(湯島天神)」(写真下左)に到着です。
 458年に天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)を祀り、創建と伝わる古社。南北朝時代の1355年に「菅原道真公」を合祀、「学問の神様」として多くの受験生に頼りにされています。江戸時代には境内で「富くじ」が売られ庶民にも親しまれました。また、境内の梅(写真下右)も有名で、この地の梅を歌った「湯島の白梅」は大ヒットしたとのこと。泉鏡花の「婦系図」もここが舞台です。園内の梅の木の下には写真下右の「奇縁氷人石」(江戸時代の「迷子のお知らせの石標」)があり、石の右側に「たずぬるかた」(迷子の特徴・服装など)、左側に「をしふるかた」(どこで見かけました、預かっていますなど)を紙などに書いた情報を貼り付けるとのこと。当時、日本橋や浅草寺にもあり、湯島天神も人が集まる繁華地だったことが偲ばれます 。

 

社 殿          湯島の白梅



 

   受験生のお願い満載の絵馬     奇縁氷人石    

 

 お参りしたら、右側にある、「女坂」を下り(男坂でも良いです)、「春日通り」に出ます。目の前はゴールの「湯島ハイタウンA棟」ですが、右の横断歩道まで行き、渡ってください。距離は短いですが、見所一杯で楽しめるお散歩コースです。桜や梅の季節を外して静かな時期に「歴史と文化」に触れるお散歩もお勧めです。
 早足で歩いてお昼にはゴールの天丼のお好きな方にはコースで「湯島天神」鳥居手前左にある「天庄」のランチ天丼又は「湯島ハイタウンA棟」入口の右にある「喜代松」のランチ天丼(味噌汁が付かない分、お安い)をお奨めします。
 また、「湯島ハイタウンA棟」の後方に「旧岩崎邸庭園」(岩崎彌太郎の長男で三菱第三代社長の久彌の本邸で重要文化財)(写真下)があります。是非お立ち寄りください 。



 

平野寅次郎 拝






 

 2020年9月7日から日本市民スポーツ連盟の事務所は湯島ハイタウンA棟に移転しました。従来あったコースですが、スタート・ゴールが変更になった新YRコースです。都心を歩いて、見どころ・寄り道満載です。

『水天宮・日本橋・神田明神・湯島天神 コース 10km』
ステーション:湯島ハイタウンA棟208号   最寄駅 千代田線 湯島駅


 

 湯島ハイタウンA棟(写真下左は入口)を入り、右側の階段を2階に上がり事務所(写真下右)でYRの受付をしてスタートです。ビルを出て左折、「天神下」を左折、「不忍池」方面に向かいます。季節は異なりますが「桜」と「梅」と「鯛焼き」が楽しめる、お散歩コースです。桜の写真は以前に撮影したものです。

 

 YRの歩き方の基本はコース地図をしっかり読みながら歩くことですが、今回はコースの近くにある見どころにも寄り道して紹介します。
 「天神下交差点」から「秋葉原電気街」を通り「万世橋」(写真下左)を渡り、「水天宮通り」を進みます。人形町の「甘酒横丁」入口の反対側の右奥にある寅次郎のお気に入りで行列ができる店「玉ひで」でランチの寄り道です。

 

 「玉ひで」は1760年(宝暦10年)創業で、お昼の部は11時30分〜13時30分です。写真上右は親子丼(進化)1800円、鶏だしスープ付きでトロトロの卵の中のしゃもの肉は並んでも食べたい美味しさです。日本の親子丼発祥の地です。リンク出来る湘南ふじさわWAのHP「寅さん歩」17東京発祥之地めぐり(グルメ編−1)を参照ください。
 写真下左は2016年(平成28年)耐震の改築が行われた「水天宮」の入口、写真下右は本殿です。カップルの参拝姿が目立ちました。

 

 「水天宮」は水難除けの神でしたが、現在は安産の神として有名。総本社は福岡県久留米にあり、久留米藩主 有馬頼徳が三田の江戸藩邸内に分社建立したのが始まりで、1872年(明治5年)に現在地に移ったとのこと。戌の日の帯は寅次郎の母も締めたと申しておりました。「水天宮」にお参りした後は「水天宮交差点」を右折、直進します。「蠣殻町交差点」で兜橋方面に行くと、「東京証券取引所」(写真下左)脇の道に「兜神社」(写真下右)があります。1878年(明治11年)この地に前身の「東京株式取引所」を設立した時に関係者が鎮守として造成したとのこと。また、「兜」とは源義家が東征の折、この地で兜を岩に懸けて戦勝を祈願したことに由来するとのこと。

 

 「昭和通り」を横断、常盤橋方面に向かいます。室町三丁目「あじさい通り」の「おかめ桜」(写真下左)が満開(2020年3月3日撮影)、「三越本店地下」(「三越駅前」地下コンコースの壁面)で200年前の日本橋を描いた「熈代勝覧(きだいしょうらん)」(写真下右)は必見の寄り道、約17mの絵巻は常設展示です。

 

 「常盤橋」手前を左折(コースは直進)、「一石橋」の親柱(写真下左)脇に「迷子しらせ石標」が(写真下右)あります。正面「満(ま)よいひ子の志(し)るべ」、右側面「志(し)」らす類(る)方」、左側面「たづぬる方」、裏面「安政四丁巳年 十二月 御願済建之 西河岸町」と記載。江戸時代の「迷子告知板」です。

 

 「左面にいなくなった子の情報、右面に心当たりの子の情報を書いた紙を貼って知らせたとのこと。往来の多い場所に置き、湯島天神、浅草寺境内等に同様なものがあった」と説明板に記載。
 コースに戻り、進むと「駿河台下」に到着。ゴールの時間(平日は17時まで)に余裕があればコース沿いの「明治大学アカデミーコモン」地下2階にある「明治大学博物館」、「阿久悠記念館」(代表曲の視聴が出来ます)や「湯島聖堂」に寄り道して楽しんでください。
 リンクが出来る湘南ふじさわWAのHP「寅さん歩」121江戸・東京の祭―47(江戸らしい祭)、「寅さん歩」200東京の学食めぐり―8及び「寅さん歩」315東京の博物館めぐりー8(千代田区―2)をご参照ください。
 「神田明神」は「隋神門」(写真下左)から入り、「御社殿」(写真下右)にお参りして、「清水坂下」から湯島天神方面に向かいます。

 

 すぐ右側に「妻戀神社」があります。説明板には「その昔、日本武尊が東征の折、この地で倉稲魂神(稲荷神)を祀ったことが起源。また日本武尊が三浦半島から房総へ渡る時、大暴風雨に遭い、妃の弟橘姫が海に身を投げて海神を鎮め、一行を救ったことから妃を船魂神(海神)としてここに祀った」と記載。
 写真下左は妻戀(恋)神社、写真下右は境内右奥のお稲荷さんです。

 

 「湯島天神」は学問の神様 菅原道真公を祀る神社で正式名称は「湯島天満宮」です。受験生のお願いの絵馬が盛り沢山ぶらさがり道真公も大変ですね。

 

 梅の名所としても有名で、梅の木の下に石標「奇縁氷人石」(写真下右)があります。「一石橋」で説明した、江戸時代の「迷子知らせ石標」です。

 

 お参りしたら、右側にある「女坂」を下り(男坂でも良いです)、「春日通り」に出ます。目の前はゴールの「湯島ハイタウンA棟」ですが、右の横断歩道まで行き、渡ってください。
 早足で歩いてお昼にはゴールの天丼のお好きな方にはコースで「湯島天神」鳥居手前の左にある「天庄」のランチ天丼又は「湯島ハイタウンA棟」入口の右にある「喜代松」のランチ天丼(味噌汁ない分、お安い)をお奨めします。
 また、湯島ハイタウンA棟の後方に「旧岩崎邸庭園」(岩崎彌太郎の長男で三菱第三代社長の久彌の本邸で重要文化財)(写真下)があります。是非お立ち寄りください。



 

平野寅次郎 拝






 

 2020年9月7日から日本市民スポーツ連盟の事務所は湯島ハイタウンA棟に移転しました。寅次郎、新YRコースを歩きました。

『東京スカイツリーコース A-bコース 11km』
ステーション:湯島ハイタウンA棟208号   最寄駅 千代田線 湯島駅


 

 湯島ハイタウンA棟(写真下左はビル入口)に入り、右側の階段を2階に上がり事務所(写真下右)でYRの受付をしてスタートです。ビルを出て左折、御徒町駅方面に「春日通り」を進みます。

 

 左側に「アメ横」、右側に移るとレトロスポットの「佐竹商店街」、「三筋二丁目交差点」には「川柳発祥の地の碑」(写真下左)があります。柄井川柳がこの地で「万句合」の会を開きました。隅田川西岸にあった蔵前の米蔵の荷駄馬用の厩に因んだ名の「厩橋」(写真下右)を渡ります。

 

 「本所四丁目」を過ぎ、左にあるWCの先の「横川橋」手前の小道を下りると「大横川親水公園」です。しばらく歩いて「釣堀」の右側を上がると目の前の「東京スカイツリー」(写真下左)に圧倒されます。「業平橋1丁目」の信号を左折、「東武橋」方面に行くと、右側に「ソラマチ」と「東京スカイツリー」(写真下右)があります。

 

 道の左側を歩き「とうきょうスカイツリー駅」を右に見て、「小梅牛島通り」から「墨田公園」に向かいます。前ばかり見ていないで立ち止まり、後を振り返る(人生と同じです)と「東京スカイツリー」のビューポント(写真下左)。

 

 「墨田公園」は関東大震災からの東京復興事業の一環として計画・整備された公園で徳川水戸藩邸の庭園も残されています。園内にある本所の総鎮守の「牛嶋神社」(写真上右)には体だけでなく心も治すと信じられている「撫牛」(写真下左)が鎮座。でもどこを撫ぜれば心が治るのかは説明板には書いてありませんでした。

 

 「牛嶋神社」を出て右へ「言問橋」(写真上右)に上がる階段を上り、橋を渡ります。
 14kmコースは直進して先の「桜橋」を渡るので間違えないように。
「言問橋」は墨田公園の墨田区側と台東区側を結ぶ橋で、両岸の桜並木は5代将軍徳川吉宗の計らいで植えられたものです。橋を渡って台東区側から見る「東京スカイツリー」です(写真下左)。「言問通り」を直進、「浅草観音堂裏」の信号を左折します。コースは「浅草寺」と「浅草神社」の間から「仲見世」を抜けますが、今回は浅草寺境内の見落しやすい場所を中心に紹介します。

 

 「浅草寺観音堂」裏には写真上右の第12代市川団十郎の歌舞伎十八番「暫」の像、写真下左の「銭塚地蔵堂」(妻が庭で掘り当てた壺に入った寛永通宝を使わずに埋戻し、一家が繁栄したのでその上に地蔵尊を祀った家内繁栄のご利益)、「浅草寺観音堂」前には写真下右の「迷子しるべ石」(江戸時代の迷子の告知板)があります。

 

 「浅草神社」右後ろには写真下左の「被官稲荷社」(江戸火消1番組頭の新門辰五郎が妻女の病全快で伏見から祭神を勧請して祀ったら出世のご利益)、「仲見世」手前の左には写真下右の「久米平内堂」(人を斬る罪を犯してきたので自分の姿の石像を参道に埋め、上から多くの人に踏んでもらい反省した。「踏み」が「文」になり縁結びのご利益)があります。寅次郎のお気に入りは「久米平内」です。

 

 写真下左は新型コロナと熱中症のダブルパンチでひっそりとした2020年9月9日の「仲見世」です。写真下右は2020年4月に新調の「雷門大提灯」です。

 

 江戸三大祭の「三社祭」は湘南ふじさわWA 寅さん歩をご参照ください。コースは「雷門」を出て右折、「雷門一丁目」を左折、「寿四丁目」を右折、仏具店が並ぶ「浅草通り」に出ます。右側には「かっぱ道具街」入口(写真下左)が見えます。「稲荷町交差点」の左側に大きな赤い鳥居があり、奥は「下谷神社」(写真下右)です。門の右側に「寄席発祥の地」の碑がありました。「稲荷町交差点」の反対側の右側角にある「永昌寺」は「柔道発祥の地」です。

 

 「浅草通り」には多くのお食事処があります。寅次郎、稲荷町駅手前の中華飯店「天福楼」のランチ(780円)をいただきました。以前に訪問した上野駅近くの「台東区役所」の食堂もお奨めです。
 階段を上がり「上野駅」に出て「上野恩賜公園」に行く通路の「パンダ橋」を進むと正面に「花園稲荷神社」参道(写真下左)が見えます。コースは「五條天神社」の脇の坂を下りますが、「花園稲荷神社」参道から「五條天神社」(写真下右)に下りる道をお奨めします。

 

 「不忍池」から「弁天堂」に向かいます。参道入口左、柳の下に駅伝の発祥を記念した「駅伝の碑」(写真下左)がありますので見つけてください。「不忍池」はハスの花が咲くが頃が楽しみです。写真下右は「弁天堂」の裏側です。正面は多くの寄付提灯で社殿が隠れています。

 

 「不忍池」の中の桜並木(江戸時代は茶屋が立ち並んだとのこと)を通り、ゴールへ向かいます。桜の季節はお花見YRです。以前に撮った「上野恩賜公園」の桜(写真下左右)です。

 

 文京区、台東区、墨田区を歩き回り、江戸・東京の歴史やいろいろな顔を見ることが出来ました。見学ポイントを絞って何度も楽しめるYRコースです。
 早足で歩いてお昼にはゴールの方には湯島ハイタウンA棟入口の右にある「喜代松」のランチ天丼(1040円)をお奨めします。
 また、湯島ハイタウンA棟の後方には「旧岩崎邸庭園」(岩崎彌太郎の長男で三菱第三代社長の久彌の本邸で重要文化財)(写真下左)があります。是非お立ち寄りください。前方にある「湯島天満宮(湯島天神)」(写真下右)は別のYRコースで歩いてください 。

 

 リンクできる「湘南ふじさわWA」のHP ひろば にはYRコース沿いにある話題の場所の詳細が記載されていますので、ご参照ください。
 寅さん歩15・22・23 東京発祥之地めぐり、寅さん歩37・38健康ご利益めぐり、
 寅さん歩71・93 江戸・東京の祭、寅さん歩249 官公庁の食堂めぐり-11。


 

平野寅次郎 拝






 

 2020年9月7日から日本市民スポーツ連盟の事務所は湯島ハイタウンA棟に移転しました。新事務所がスタート・ゴールの新20kmコースです。都心5区をめぐる見所満載のYRコースです。ロングコースなので先を急ぐウォーカーの皆様のためにコース上の寺社や史跡の説明も添えました。今回、良い写真が撮影できなかった場所は以前の訪問時の写真も使用しています

『神楽坂―神宮外苑・国立競技場―外濠公園 20km』
ステーション:湯島ハイタウンA棟208号   最寄駅 千代田線 湯島駅


 

 「文京区」の湯島ハイタウンを出て右折して進むと、右側に「春日局像」(写真下左)、「本富士警察署」の先に「富士浅間神社」(写真下右)があります。

 

 「春日局」は三代将軍徳川家光の乳母として江戸城内で権威をふるい大奥を整備し、「春日」の町名の由来にもなった女傑です。奥の「麟洋院」にお墓があります。本郷には富士山と呼ばれた小丘があり、「富士浅間神社」が祀られました。「駒込富士神社」はここから勧請しました。「本富士」の町名の由来になりました。本郷三丁目交差点先、右側には「桜木神社(桜木天神)」(写真下左)があります。太田道灌が江戸城築城の際に城内に菅原道真を勧請、その後、本郷に移転しています。コースは「文京シビックセンター(文京区役所)」、「東京ドーム」、「小石川後楽園」(写真下右)の脇を通過します。

 

 「小石川後楽園」は水戸徳川家の江戸上屋敷跡で国の特別史跡及び特別名勝に指定。写真上右の白い屋根は「東京ドーム」です。コースは「新宿区」に入り筑土八幡町交差点を左折、すぐの右階段(写真下左)を上った先に「築土八幡神社」(写真下右)があります。800年代に近くに住む信仰心の厚い老人の夢に現れた八幡神のお告げで祀られたのが起源とのこと。

 

 神楽坂上交差点を左折、神楽坂通りを進みます。右側に「善国寺」(写真下左)があります。毘沙門天を祀り、旧本山は大本山池上本門寺で開基は徳川家康とのこと。「善国寺」前の小路を入るとこんな静かな風景(写真下右)があります。

 

 神楽坂下交差点を右折、外堀通りを進みます。右側の「東京理科大学」校舎前にはモニュメント「坊ちゃんの塔」があります。現地で確認ください。夏目漱石の小説“坊ちゃん”の主人公が東京理科大学の前身の「東京物理学校」を卒業した数学の教師に由来しているとのこと。市ヶ谷見附交差点先の右にある階段(写真下左)を上がると「市谷亀岡八幡宮」(写真上右)です。

 

 太田道灌が江戸城築城の際に西方の守護神に鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を祀り、当初は「亀岡八幡宮」と称されましたが、江戸時代に現在の名称になったそうです。靖国通り・外苑西通りを進み、「新宿御苑」の脇を通過すると「国立競技場」が見えて来ます。コースは「新宿区」から一部「渋谷区」にも入り、又「新宿区」に戻ります。仙寿院交差点を左折する手前右側には「ラーメンの店 ホープ軒」の黄色の建物があります。ラーメン好きな方にはお奨めです。「国立競技場」に沿って進むと、2019年9月オープンの「日本オリンピックミュージアム」(写真下左)があります。1階は無料、2階展示は有料です。ミュージアムの前には「五輪の輪」(写真下右)があり、その右には「国立競技場」が見えます。東京・札幌で使用したオリンピック聖火台も展示されています。

 

 「明治神宮球場」の先から「港区」に入り、左側に「近代ボウリング発祥の地」の碑があります。碑には「1952年(昭和27年)わが国初のテンピンボウリング手動式設備の東京ボウリングセンターがこの地に誕生」と記載。現地で確認ください。外苑前交差点を左折し、青山通りに入ります。1926年(大正15年)の創建された「神宮外苑」の「いちょう並木」(写真下左)は毎年賑わいます。コースは又「国立競技場」(写真下右)の脇に出て、右折します。

 

 明治天皇の生涯の事業を描いた絵画を展示の美術館「聖徳記念絵画館」(写真下左)前を進むと突き当り右側に「あるけあるけ」の碑(写真下右)があります。日本ウオーキング協会が1964年(昭和39年)10月17日、ここで第1回大会を開催したウォーキング運動発祥の記念碑です。

 

 権田原交差点を左折、「新宿区」と「港区」の境を歩きます。左側は「明治記念館」(結婚式場等の総合集宴会施設)、右側(「港区」)は紀州コ川家の上屋敷跡地にある「赤坂御用地」(皇室の御所や宮邸)、敷地の一部は国賓などを迎え、接遇する施設「迎賓館(赤坂離宮)」(写真下左)で、館内(写真下右)は一般公開(事前予約で有料)しています。コース左側に「学習院初等科」(皇族が学ぶ学習院の小学校)があり、ここは「新宿区」です。

 

 四谷見附交差点先の四谷見附北信号を右に渡り、「外濠公園」(ここは「千代田区」)の中を歩きます。園内にはトイレもあり、休憩場所に最適です。公園の出口には「国史跡江戸城外濠跡(市谷濠地区))の説明板があります。現地で確認ください。市谷見附交差点を横断し右折、JR市ヶ谷駅に向かいます。写真下左は「市ヶ谷橋」から見た現在の「市ヶ谷濠」です。JR市ヶ谷駅左手の「外濠公園」の堤を終点まで歩きます。桜の時期は見事 (写真下右) です。

 

 「外濠公園」の堤を下りると、左に江戸城外郭門のひとつの「牛込見附」の一部(写真下左)が残されています。前はJR飯田橋駅西口です。JR飯田橋駅東口に下り、歩道橋を上り、右の神田川沿いを歩きます。左側は「文京区」で後楽園球場の地は「東京ドームシテイ」(写真下右)に生まれ変わっています。

 

 水道橋交差点を直進、お茶の水坂の途中右に「お茶の水分水路」・「神田川上水懸桶(掛樋)跡」(写真下左)の碑があります。江戸時代、神田川に樋を架け、神田上水の水を神田・日本橋方面に給水していました。お茶の水交差点を左折、御茶ノ水便局を通過、前のアーチ橋(聖橋)手前の階段を上ります。すぐ左に「近代教育発祥の地」の説明板があります。現地で確認ください。「東京医科歯科大学」があり、道路の右側は江戸時代の学問・教育の場所「湯島聖堂」(写真下右)で、ここは「文京区」です。

 

 湯島聖堂前交差点を右折して江戸城の鬼門を守る総鎮守の「神田明神」(写真下左)(ここは「千代田区」)にお参りし、「文京区」に戻り、清水坂を上がると右側に「妻戀神社」があります。荒れる房総の海に身を投げて海神を鎮め、夫 日本武尊の東征を救った弟橘姫命と日本武尊を郷民が祀った神社で境内にある稲荷神社は関東総司稲荷神社です。いよいよゴール手前の菅原道真を祀るの「湯島天神」(写真下右)に到着です。お参りして男坂又は女坂を下り、春日通りを渡り、ゴールの湯島ハイタウンに戻ります。お疲れ様でした。

 

 コース上の小石川後楽園(No6、No9)、神楽坂(No11)、神田明神(No2、No13、No14)、湯島天神(No5、No8、No13、No14)については、掲載済のYR散歩(Noを参照)でも詳しく紹介していますので、ご覧ください。


 

平野寅次郎 拝






 

 2021年1月から新企画「文京の坂 113坂を登ろう!」がスタートです。これは東京都文京区にあるウォーキングステーション「さんぽみち総合研究所(株)」が2017年8月に作製したアプリを使って「文京の坂113坂」を歩き、ブロック毎に日本市民スポーツ連盟がYRとしてIVVの距離・回数を認定する「新企画」です。ブロックは@湯島、A水道橋、B本郷、C白山、D駒込、E大塚、F小石川、G小日向、H目白台に分かれています。9ブロックを踏破すると86kmになります。詳しくはHPをご覧ください。
 アプリを操作し、どのブロック、どの坂から歩きだしてもよい「いつでも、どこからでも」のYRコースです。ウォーキングステーションでの受付はありません。アプリの「地図画面」で現在地(青点)と周辺の坂が表示され、近づいたら「坂選択」をすると「詳細表示」で「坂の由来」、「坂の写真」、「開始地点までとあと、○m」が表示されます。「坂選択」した後でも「地図表示」の緑色「詳細表示」を押すと、開始地点の距離と現在地からの距離が確認できます。
 「開始地点まで、あと0m」になったら、緑色に変わった「開始」を押すと「計測中画面」になりスタートです。「終了地点」が来ると「ブルブルの音でお知らせ」がありますので、緑色の「終了」と「OK」を押すと、「スタンプ帳画面に済の赤印」が押され、「あなたの113坂の踏破数や順位の記録」が表示されます。坂の場所を知っていれば「坂選択」から「開始地点までの距離」を見て歩くことも出来ます。
 ブロック内の坂の済印が揃うとブロックの踏破です。「さんぽみち総合研究所」で200円を払うと相当のIVVがもらえます。
 「文京の坂113」のためにスマホデビューをした平野寅次郎、慣れないスマホ操作でしたが、開始地点まであと、○m、終了地点まであと、○mと表示され、数字が減るごとに、わくわく・ドキドキしました。スマホ初心者やウォーキング初心者でも楽しめます。今までウォーキングに関心を示さなかった妻も始めましたが、「運動になる。済の赤印がもらえるとうれしい。順位が出るのは励みになる」と、はまったようです。是非、坂の周辺の建物・史跡・風景を眺めて、「歩きスマホ」はやめて、安全なマイペースのYRウォ−クを楽しんでください。ほとんどの坂には文京区教育委員会の説明板があり、略原文を掲載します。
 遅ればせながら「平野寅次郎」(本名は平野武宏)とは、全国のウォーキング大会(2006年全国47都道府県ウォーキング大会を完歩)を歩いていた頃に妻の友人から[映画「男はつらいよ」の寅さんと同じだ]といわれ、「平野寅次郎」と命名され、ウォーキングの紀行文を書く際の「ペンネーム」としました。
 まずは@湯島ブロックの19坂から歩きます。距離は11kmで一気に歩きましたが、19坂あるので2回に分けてレポートします。最寄駅は開始地点の近くの代表例です。写真は以前の訪問時に撮影したものも使用しています。

『文京の坂113 @湯島ブロック−1』
 

 [1.相生坂(あいおいざか)] 延長303m、高低差8m 最寄駅 JR御茶ノ水駅聖橋口

 駅から左側を歩き「聖橋」を渡って左の階段を下ります。そこは「相生坂」ですが、開始地点は坂下なので左折します。開始地点は「史跡 湯島聖堂」(江戸幕府直轄の昌平坂学問所)(写真下左)前です。「聖堂」(ニコライ堂と湯島聖堂の二つの聖堂を結ぶ橋として名づけられた)をくぐり(写真下右)、終了地点は「東京医科歯科大学」前です。現在の「外堀通り」の一部に位置します。

 

 説明板には[神田川対岸の駿河台の「淡路坂」と並ぶので「相生坂」と呼ばれた。湯島聖堂の再建で道が入り組み、後年、「昌平坂」と呼ばれるようになった。「昌平」とは「湯島聖堂」に祀られている孔子の生誕地の「昌平郷」に因んで名づけられた。]と記載。説明板の坂名は(昌平坂)が併記されていました。
 

 [2.昌平坂(しょうへいざか)] 延長99m、高低差6m 最寄駅 JR御茶ノ水駅聖橋口

 開始地点は「湯島聖堂」前(「相生坂」の開始地点)です。すぐ左折し、「湯島聖堂」の脇を歩く「千代田区」と「文京区」の境界線上にある坂です。「昌平」の名は孔子が生まれた「魯国昌平郷」(現在の中国山東省曲阜県の東南)が由来です。説明板には[湯島聖堂と東京医科歯科大学一帯は、聖堂を中心に江戸時代の儒学の本山というべき「昌平坂学問所」の敷地であった。そこで学問所周辺の三つの坂をひとしく「昌平坂」と呼んだ。]と記載。
 写真下左は坂上の終了地点を臨み、写真下右は終了地点から坂下を振り返りました。右側は「湯島聖堂」の塀です。

 

 [3.湯島坂(ゆしまざか)] 延長268m、高低差10m 最寄駅 JR御茶ノ水駅聖橋口

 「昌平坂」は「湯島坂」に合流しますが、右折して坂下の開始地点に行き、また坂を上ります(写真下左)。左側は「湯島聖堂」の塀、右側は「神田神社(江戸の総鎮守の神田明神)」(写真下右)で、終了地点は「湯島聖堂前」交差点です。「湯島」とは江戸時代以前、海から見えるこの地があたかも島のように見えたことから呼ばれたとのこと。「湯島」にある坂なので、その名がついたようです。また、「神田明神」に因み「明神坂」の別名もあります。

 

 [4.樹木谷坂(じゅもくだにざか)] 延長92m、高低差5m 最寄駅 JR御茶ノ水駅聖橋口

 「湯島聖堂前」交差点を右折して、「神田神社」脇を下りて「蔵前橋通り」に出て左折、電柱の「湯島1-7」表示が開始地点(写真下左)です。左折し、「東京ガーデンパレス」の脇が終了地点で正面は「東京医科歯科大学附属病院」です。写真下右は終了地点を臨みます。

 

 説明板には[湯島1-7と10の間。徳川家康が江戸入府した当時は、この坂下一帯の谷は、樹木が繁茂していた。その樹木谷に通ずる坂というので、「樹木谷坂」の名が生まれた。「地獄谷坂」と呼ばれたのは、その音の訛りである。]と記載。
 

 [5.妻恋坂(つまこいざか)] 延長192m、高低差12m 最寄駅 JR御茶ノ水駅聖橋口

 「樹木谷坂」を下りて「蔵前橋通り」に戻ると、そこは「新妻恋坂」の途中です。「妻恋阪」交差点まで下り、少し左にある細い坂道が開始地点(写真下左)です。終了地点は若いカップルが入ったホテルに並ぶ「妻戀神社」(写真下右)脇です。「戀」という字は「糸しい、糸しいと言う心」と書き、気に入りました。

 

 説明板には[大超坂・大潮坂・大長坂・大帳坂と別名を多く持つ坂である。妻恋神社の前なる坂で「妻恋坂」と呼ばれるようになったのは、坂の南側にあった霊山寺(開山 大超和尚)が明暦の大火(1657年)後、浅草に移り、坂の北側に「妻恋神社(妻恋稲荷)」が旧湯島1丁目辺りから移ってきてからであろう。]と記載。「妻恋神社」はその昔、「日本武尊」が東征の折、この地へ来て稲荷神を祀ったことが起源で、また日本武尊は房総の海に身を投げ、海を鎮めた妃の「弟橘媛命」を祀ったとのこと。江戸時代には関東総司の稲荷社に位置づけられた。]と記載。
 

 [6.新妻恋坂(しんつまこいざか)] 延長530m、高低差17m 最寄駅 JR御茶ノ水駅聖橋口

 大正12年(1923年)の関東大震災後の都市計画により生まれた坂で「妻恋阪」と並行していることからついた名前です。「妻恋坂」より道の幅員も広く、道路の機能も高く、交通量も多い坂です。写真下左は坂の始まり付近で、写真下右は終了地点を臨みます。現在の「蔵前橋通り」の一部に位置します。

 

 [7.清水坂(しみずざか)] 延長121m、高低差10m 最寄駅 JR御茶ノ水駅聖橋口

 「新妻恋坂」の途中にある「清水坂下」交差点が開始地点(写真下左)で右へ上がります。写真下右は坂の終了地点から振り返りました。
 説明板には[湯島2丁目と1丁目と3丁目1の間。江戸時代、このあたりに、霊山寺がありましたが、明暦の大火で焼失、寺は浅草へ移転した。明治になり土地は清水精機株式会社の所有になり、町の人達が清水家の徳を称え「清水坂」と名づけたとのこと。]と記載。「清水坂下」交差点は「蔵前橋通り」にあり、左へ行けば「神田神社(神田明神)」や「湯島聖堂」です。

 

 [8.横見坂(よこみざか)] 延長117m、高低差8m 最寄駅 JR御茶ノ水駅聖橋口

 「清水坂下」交差点の先、右側が開始地点です。「新妻恋阪」(蔵前橋通り)を挟んで左側は「樹木谷坂」です。写真下左は右に上がる坂の入口、写真下右は終了地点から振り返りました。

 

 説明板には[「横根坂」とも呼ばれ、かって、この一帯は樹木谷と言われ、樹木が茂っていた。この谷から湯島台に上る坂の左手に富士山が眺められた。町の古老は西横に富士山がよく見え、この坂を登る時、富士を横見するところから、誰いうことなく「横見坂」と名づけられたという。ここには明治30年頃、島崎藤村が住み、ここから信州へ移った。作品の「春」にもこの辺りの町が書かれている。]と記載。現在は写真上のようにビルの谷間です。
 

 [9.立爪坂(たてづめざか)] 延長64m、高低差4m 最寄駅 JR御茶ノ水駅聖橋口

 「妻恋阪」の途中にある坂で、アプリの坂説明では「つま先を立てて上る坂という意味の「立爪坂」で、つま先が上がった状態になるほどの急な坂」とあり恐る恐る、開始地点(写真下左)へ行きましたが、短い階段と途中は平地でひと安心です。写真下右は途中の平地から終了地点を臨みます。

 

 これにて@湯島ブロックー1の19坂のうち9坂を踏破です。残りの10坂は@湯島ブロックー2をご覧ください。
 

 [スマホデビューの平野寅次郎が学んだ教訓]
 

・「地図画面」での現在地(青点)は優れものです。行きたい坂のすぐ近くまで「青点」を頼りに進み、坂下で「詳細表示」にします。手前に道がある場合に早く画面を変えてしまい、手前の道を曲がり、開始地点まで苦労しました。次の坂の位置も確認できます。坂上から次に行く場合もありますので。  

・画面表示の「あと、○mは」数字が減るのが基本です。増える場合は前後左右に動いてみて正しい方向(減る方向)を確認してください。身体の少しの動きで数字が変わる場合もあります。  

・「計測中画面」が途中で消えてしまった場合は開始地点から計測のやり直しですので、スマホの取り扱いには気をつけてください。  

・せっかく踏破しても緑色の「終了」と「OK」の両方を押さないと踏破の記録がされません。「坂一覧」には記録した坂は済が表示されますので確認をしてください。スマホの操作は立ち止まって安全を確保して行ってください。


 

平野寅次郎 拝






 

 アプリを使ったYR「文京の坂 113坂を登ろう!」です。@湯島ブロック19坂の残りの10坂をレポートします。アプリの操作については、「@湯島ブロックー1」をご覧ください。最寄駅は開始地点近くの代表例です。写真は以前の訪問時に撮影したものも使用しています。

『文京の坂113 @湯島ブロック−2』
 

 [10.三組坂(みくみざか)] 延長224m、高低差17m 最寄駅 千代田線湯島駅

 湯島ブロックー1でレポートした9.「立爪坂」の近くが開始地点です。写真下左は開始地点からの坂上で、写真下右は終了地点からの振り返りです。

 

 説明板には[元和2年(1616年)徳川家康が駿府で亡くなり、家康お付きの中間・小人・駕籠方の「三組」の者は江戸へと召し返され、当地に屋敷を賜った。駿府から帰ったので、この辺りを駿河町と呼んだが、その後、元禄9年(1696年)三組の御家人拝領の地である由来を大切にして、町名を「三組町」と改めた。この町内の坂なので「三組坂」と名づけられた。昭和40年(1965年)以降、湯島3丁目となっている。]と記載。
 

 [11.ガイ坂(がいざか)] 延長65m、高低差4m 最寄駅 千代田線湯島駅

 「三組坂」の開始地点に戻ると、そこが「ガイ坂」の「終了地点」です。坂下の開始地点(写真下左)の角は「日本薬科大学お茶ノ水キャンパス」の建物で、終了地点(写真下右)の左側にも「日本薬科大学お茶ノ水キャンパス」の建物があります。

 

 ガイ(芥)を捨てる場所にある坂なので、坂名も「ガイ坂」とのこと。江戸時代は簡単なゴミ捨て場を作り、ガイ(芥)を荷車で河岸まで運び、舟で埋め立て地へ捨てたとのことで、その費用は町内で担っていたそうです。
 

 [12.実盛坂(さねもりざか)] 延長27m、高低差11m 最寄駅 千代田線湯島駅

 「ガイ坂」の開始地点に戻り、進むと左の階段が「実盛坂」の終了地点(写真下左)です。階段上の開始地点からは、かなりの急阪(写真下右)です。

 

 説明板には[湯島3丁目20と21の間。実盛とは「長井斎藤別当実盛」のことで、長井庄(現在の埼玉県大里町妻沼町)を構え、平家方に味方した。寿永2年(1183年)源氏の木曾義仲と加賀の国篠原(現在の石川県加賀市)の合戦で勇ましく戦い、討たれた。この坂下の南側に実盛塚や首洗い井戸があったという伝説めいた話が江戸時代の書物にあり、坂の名がついた。]と記載。
 

 [13.中坂(なかざか)] 延長178m、高低差14m 最寄駅 千代田線湯島駅

 「実盛坂」の開始地点に戻り、左に進むと、「中坂」の開始地点(写真下左)です。写真下右は終了地点からの振り返りです。

 

 説明板には[湯島3-19と21の間。江戸時代に「妻恋阪」と「天神石坂」の中間に新しい坂ができると、「中坂」と名づけました。「仲坂」とも呼ばれます。]と記載。説明板の坂名には(仲坂)が併記されていました。
 

 [14.天神石坂(てんじんいしざか)] 延長20m、高低差8m 最寄駅 千代田線湯島駅

 学問の神様 菅原道真を祀る「湯島天満宮(湯島天神)」下の石段が開始地点(写真下左)です。手前右には「江戸名水 美髪・厄除の柳の井」(写真下右)があります。寅次郎、「もっと若い頃に来ていれば、ご利益があったのに!」と残念がりました。「柳の井」は写真右の左側の白い壁の前にあります。

 

 坂の説明板には[38段の石段坂。別名は「天神男坂」。すぐわきにある、緩やかな坂「女坂」に対して「男坂」という。江戸時代の書物には「湯島神社」天神参拝のための坂であったが、その後、本郷から上野広小路に抜ける通り道になったという。」と記載。説明板の坂名は(天神男坂)が併記されていました。
 

 [15.天神女坂(てんじんおんなざか)] 延長49m、高低差7m 最寄駅 千代田線湯島駅

 「天神石坂(男坂)」の終了地点は「天神女坂」の終了地点と同じです。左側には「講談高座発祥の地」の碑があります。「天神女坂」を下りた所が開始地点(写真下左)です。写真下右は終了地点から振り返りました。江戸時代に「男坂」より緩やかなので「女坂」と名付けられました。これは江戸時代の話、現代の男女の力関係ではいかがですかね?

 

 [16.天神夫婦坂(てんじんめおとざか)] 延長26m、高低差3m 最寄駅 千代田線湯島駅

 「湯島天満宮」の境内に入ると右側にあるのが「天神夫婦坂」の終了地点です。ここを下りて坂下の開始地点に行くか、「女坂」を下りて、「春日通り」に出るか、二つの行き方があります。写真下左は「春日通り」に面した開始地点、写真下右は終了地点からの振り返りです。「男坂」と「女坂」の中間にある傾斜なので「夫婦坂」と名づけられました。「湯島天満宮(湯島天神)」の本殿裏にあたります。「湯島天満宮(湯島天神)」は梅の名所で「湯島の白梅」で有名です。境内には「銅製の鳥居」や「奇縁氷人石」(江戸時代の迷子探しの伝言板)、「講談高座発祥の地」の碑等があります。富くじや講談が開催されて賑わいました。受験生たちの願いが多く吊るされていて「学問の神様」はお忙しいそうですが「文京の坂113」全踏破祈願もお願いして、次の坂へ向かいましょう。

 

 [17.切通坂(きりどおしざか)] 延長245m、高低差11m 最寄駅 千代田線湯島駅

 「天神夫婦坂」を下りて、左折して進むと、「春日通り」の湯島3丁目と4丁目の間が「切通坂」です。写真下左は開始地点、写真下右は終了地点からの振り返りです。

 

 説明板には「湯島の台地から、御徒町方面への交通の便を考え、新しく切り開いてできた坂なので、その名がある。初めは急な石ころ道だったが、明治37年(1904年)電車が開通して緩やかになった。本郷3丁目交差点近くの床屋の2階に間借りしていた石川啄木が朝日新聞社の夜勤の帰りに通った坂。」と記載。
 

 [18.無縁坂(むえんざか)] 延長177m、高低差8m 最寄駅 千代田線湯島駅

 「切通坂」の終了地点に着いたら、「湯島天満宮」の大鳥居の前の「春日通り」を横断、右折して下ります。「日本市民スポーツ連盟」の事務所がある「湯島ハイタウンA棟」の先を左折、三菱の創立者岩崎彌太郎の長男で三菱3代社長の久彌の本邸として造られた「旧岩崎邸庭園」(写真下右)先が開始地点です。 「旧岩崎邸庭園」は有料(一般400円、65歳以上200円)ですが、ジョサイア・コンドル設計の洋館内部が見学できます。ジョサイル・コンドルは日本政府の招聘で英国から来日、工部大学校造家学科(現在の東京大学工学部建築学科)の初代教師に就任、日本で初めての本格的な西洋建築教育を行いました。門下には辰野金吾、片山東熊など近代日本を代表する建築家が数多くいます。

 

 説明板には[「御府内備考」に称仰院前道より本郷筋への往来の坂で往古 坂上にあった「無縁寺(現在の講安寺)」に因み「無縁坂」と命名とのこと。森鴎外の作品「雁」の主人公 岡田青年の散歩道ということで、多くの人々に親しまれた。]と記載。更に進むと「東京大学本郷キャンパス」です。
 

 [19.傘谷坂(からかさだにざか)] 延長139m、高低差2m 最寄駅 JR御茶ノ水駅御茶ノ水口

 「東京大学龍岡門」から「春日通り」に出て、横断、左折して、「湯島四丁目」から「サッカー通り」を下ると「サッカーミュージアム」(写真下左)があります。ここが開始地点で、また来た坂を戻ると、「サッカー通り」の途中が「傘谷坂」です。写真下右は終了地点から振り返りです。傘づくりの職人が多く住む窪地で傘谷から坂の名がついたとのこと。

 

 これにて@湯島ブロック19坂を踏破しました。19坂踏破のIVV認定距離は11kmです。
 

 「湯島天神」や「神田明神」については「平野寅次郎のYR散歩」のNo13、No14をご覧ください。
 リンクの出来る「湘南ふじさわWA」のHPひろばの[寅さん歩」71及び92では「神田祭」、「寅さん歩」121では湯島聖堂の孔子祭、「寅さん歩」330では「サッカーミュージアム」が掲載されていますので、合わせてご覧ください。


 

平野寅次郎 拝






 

 アプリを使ったYR「文京の坂 113坂を登ろう!」です。A水道橋ブロックの8坂を歩きます。アプリの操作については、「@湯島ブロックー1」をご覧ください。最寄り駅は開始地点の近くの代表例です。写真は以前の訪問時に撮影したものも使用しています。

『文京の坂113 A水道橋ブロック 6km』
 

 [20.油坂(あぶらざか)] 延長85m、高低差4m 最寄駅 JR御茶ノ水駅お茶ノ水橋口

 「お茶の水坂」上の「順天堂大学病院」が開始地点(写真下左)、大学病院の渡り廊下をくぐって行く短い坂です。写真下右は終点地点付近から振り返りました。

 

 名前の起こりは明らかではないようです。また「揚げ場坂」ともいわれ、神田川の堀端に町内の物揚げおろしをする場所があり、そこに通じる坂を「揚げ場道坂」といい、後に「揚げ場坂」となったといわれます。「あげば」が「あぶら」に訛ったのとか。
 

 [21.富士見坂(ふじみざか)] 延長85m、高低差4m 最寄駅 JR御茶ノ水駅お茶ノ水橋口

 「油坂」開始地点から「水道橋駅方面」に下り、右側にある「水道歴史館」・「本郷給水所公苑」の入口(写真下左)が開始地点です。
 「水道歴史館」では江戸から現代までの水道の歴史が紹介されています。「本郷給水所公苑」は明治25年(1892年)東京市が給水場を建設、明治31年(1898年)配水池を完成、配水池の上部を文京区が和風庭園(武蔵野の雑木林をイメージ)と洋風庭園(バラ園を中心に)を造成して公開しています。写真下右は終了地点で前方の横断歩道の先が「本郷給水所公苑」です。

 

 坂名は富士山か見えた坂だから、名づけられたようです。
 

 [22.建部坂(たけべざか)] 延長92m、高低差4m 最寄駅 JR御茶ノ水駅お茶ノ水橋口

 「富士見坂」の開始地点から、さらに「外堀通り」を下り、右側にある「元町公園」の角が開始地点です。写真下左は坂の入口です。写真下右は坂上から振り返りました。右側の銀杏は「元町公園」内の木です。

 

 説明板には[本郷1丁目と2丁目の間。坂名は幕士 建部氏の邸地があったので呼ばれた。現在の「元町公園」は、建部氏の屋敷跡。屋敷は河岸通りまであり、河岸の方は崖になって藪が茂り、鶯の初音が聞こえたことから「初音の森」と呼ばれるようになった。初音の森近くの坂なので「初音坂」ともいわれた。]と記載。説明板の坂名には(初音坂)が併記されていました。
 

 [23.お茶ノ水坂(おちゃのみずざか)] 延長589m、高低差11m 最寄駅 JR水道橋駅西口

 開始地点の「水道橋交差点」からの長く・広い坂です。終了地点は「順天堂大学」前です。写真下は坂の上りで、写真下右は坂の右側を歩くと見つかる「神田上水懸樋(掛樋)跡の碑」です。江戸時代、神田川に木製の樋を架け、神田上水の水を通し、神田・日本橋に給水していました、この辺りに架けられ、明治34年(1901年)まで江戸・東京市民に飲み水を供給し続け、日本最古の都市水道として、大きな役割を果たしました。

 

 坂の上りの左側にある説明板には[水道橋から順天堂医院館の外堀通りの坂で、神田川の外堀工事は元和年間(1615〜1626年)に行われたが、それ以前に、ここにあった「高林寺」の境内で湧き水があり「お茶の水」として将軍に献上したことから地名になり、その上にある坂なので「お茶の水坂」と呼ばれた。]と記載。次の開始地点は坂下です。上りと下りは別の側を歩くと良いです。
 

 [24.忠弥坂(ちゅうやざか)] 延長154m、高低差15m 最寄駅 JR水道橋駅西口

 「お茶ノ水坂」を下りて、「水道橋橋」交差点を渡らずに右折、右側すぐの道が開始地点です。かなり急な坂で、湾曲しています。写真下左は上り、写真下右は下りです。説明板には[本郷1丁目3と5の間の坂。諸説がありますが、坂の上に丸橋忠弥の槍の道場があり、忠弥が慶安事件(由井正雪と共に幕府転覆を企てた)で捕えられた場所も近いので「忠弥坂」と呼ばれた。]と記載。
 終点地点は左側にある「桜蔭学園」脇です。

 

 [25.壱岐坂(いきざか)] 延長312m、高低差14m 最寄駅 JR水道橋駅西口

 「忠弥坂」を下りて「白山通り」に戻り、右折して「春日方面」へ進み、右にある「本郷1丁目20」住所表示の細い道が開始地点です。道なりに上がると、「新壱岐坂」と交差します。横断して、右折し、「東洋学園大学」手前の道(壱岐坂)を左折、「東洋学園大学5号館」付近が終了地点です。

 

 説明板には[「壱岐殿坂」ともいう。江戸時代からある古い坂である。近隣に屋敷があった武家の名前から坂名がつけられたとみられるが、江戸時代の書物には「彦坂壱岐守」の屋敷があったことにより名づけられたとか、「小笠原壱岐守下屋敷」があったことによって名づけられたとかあって、江戸時代においても諸説があった。この古い「壱岐坂」は、新しくできた広く大きな「新壱岐坂」に途中で分断される形となった。]と記載。
 

 [26.新壱岐坂(しんいきざか)] 延長338m、高低差15m 最寄駅 JR水道橋駅西口

 開始地点は「白山通り」と「春日通り」の交差点「壱岐坂下」(写真下左)で白い屋根は東京ドームです。広く、だらだらの坂です。終了地点は「本郷2丁目歩道橋」 (写真下右)です。

 

 説明板には[大正12年(1923年)関東大震災の復興計画によって新しくひらかれた昭和の坂。この坂の中ほどにある東洋学園大学のわきで、この坂と斜めに交差している細い坂道がある。「壱岐坂」という。壱岐坂の水道橋寄りに小笠原壱岐守の下屋敷があったので、この名がついたといわれる。江戸時代からあった古い坂である。ながい歴史のある壱岐(殿)坂の名をとって、この坂を“新壱岐坂“とした。現在は区の幹線道路としてひろく知られているが、もとになった「壱岐(殿)坂」の名は忘れられようとしている。]と記載。
 

 [27.新坂(しんざか)] 延長35m、高低差6m 最寄駅 JR水道橋駅西口

 坂を下り、「壱岐坂下」交差点を右に横断、すぐ右側にある階段の坂です。写真下左は開始地点、写真下右は終了地点から振り返りました。

 

 説明板には[区内には、新坂と呼ばれる坂が6つある、書物に「壱岐坂の北にありて小石川春日町に下るを新坂といふ」、「坂上北側には内藤外記という旗本の大きな屋敷があり、ゲキサカとある」、「外記坂(げきさか)」とも呼ばれたようだ。「新坂」というが江戸時代からある古い坂である。この坂一帯は、もと御弓町、その後、弓町と呼ばれ、慶長・元和の頃(1600年ごろ)御弓組の与力同心六組の屋敷がおかれ、的場で弓の稽古が行われた。明治の頃、石川啄木、斉藤緑雨、内藤鳴雪などの文人が住んだ。]と記載。説明板の坂名は(外記坂)が併記してありました。
 

 これにてA水道橋ブロックの8坂を踏破です。8坂踏破のIVV認定距離は6kmです。


 

平野寅次郎 拝






 

 アプリを使ったYR「文京の坂 113坂を登ろう!」です。B本郷ブロックを歩きます。7kmで一気に歩きましたが12坂ありますので、2回に分けてレポートします。アプリの操作については、「@湯島ブロックー1」をご覧ください。
 最寄り駅は開始地点の近くの代表例です。写真は以前の訪問時に撮影したものも使用しています。

『文京の坂113 B本郷ブロックー1』
 

 [28.東富坂(ひがしとみざか)] 延長250m、高低差15m 最寄駅 大江戸線/三田線 春日駅

 「春日通り」と「白山通り」が交差する「春日町」交差点が開始地点(写真下左)です。広く、交通量の多い坂で、写真下右は終了地点付近です。

 

 「春日町」交差点の反対側の坂が「富坂」なので「東富坂」と呼ばれています。「富坂」はF小石川ブロックで歩きます。明治41年(1908年)に造られた新しい道で「真砂坂」とも呼ばれています。これは明治2年(1869年)〜昭和40年(1965年)まで付近の町が「真砂町」であったことに由来します。
 

 [29.旧東富坂(きゅうひがしとみざか)] 延長144m、高低差13m 最寄駅 大江戸線/三田線 春日駅

 坂を下りて「春日町」交差点手前を左折、丸ノ内線のガードの下をくぐるとすぐ左側が開始地点(写真下左)です。左上は丸ノ内線です。写真下右は「東 富坂」と合流する終了地点です 。

 

 説明板には[むかし、文京区役所があるあたりの低地を二ケ谷といい、この谷をはさんで東西に二つの坂があった。東の坂は木が繁り、鳶がたくさん集まって来るので、「鳶坂」といい、いつの頃から「富坂」と呼ぶようになった。また二ケ谷を飛び越えて向き合っている坂であることから「飛び坂」ともいわれた。明治41年「本郷3丁目」から「伝通院」まで開通した路面電車の通り道として、現在の「東富坂(真砂坂)」が開かれるまでは区内通行の大切な道路のひとつであった。]と記載。「旧東富坂」の声が聞こえて来そうな説明板でした。
 

 [30.見送り坂(みおくりざか)] 延長62m、高低差1m 最寄駅 大江戸線/丸ノ内線 本郷三丁目駅

 「旧東富坂」終了地点から右折して「春日通り」を「本郷三丁目」交差点まで進みます。このように終了地点から坂を下りない場合がありますので、終了地点から歩きだす前に次の開始地点を確認してください。「本郷三丁目」交差点の「本郷通り」に坂があるとは知りませんでした。アプリの教えてくれた開始地点は写真下左、写真下右は約60m先の終了地点です。

 

 江戸追放の罪人をこの辺りから追い放したことからついた名のようです。「本郷もかねやすまでは江戸の内」の川柳を思いだしました。今でも「本郷三丁目」交差点に「かねやす」があり、川柳が書かれています。
 

 [31.見返り坂(みかえりざか)] 延長79m、高低差2m 最寄駅 大江戸線/丸ノ内線 本郷三丁目駅

 「見送り坂」があれば「見返り坂」ですね。追放された者が振り返ったので「見返り坂」と呼ばれました。写真下左は開始地点、写真下右は終了地点から振り返りました。

 

 [32.本妙寺(ほんみょうじざか)] 延長94m、高低差7m 最寄駅 大江戸線/丸ノ内線 本郷三丁目駅

 「本郷三丁目」交差点を右折、「春日」方面へ進み、「桜木神社」(太田道灌が江戸城内に創建、移って来た)を過ぎ、右側の道を入り、下ると開始地点(写真下左)です。終了地点は「男女平等センター」前(写真下右)です。

 

 説明板には[この坂は、本郷の台地から「菊坂」へ下る坂である。「菊坂」を挟んで真向いの台地には(現在の本郷5-16あたり)かって「本妙寺」という法華宗の寺があった。境内が広く大きな寺で、この寺に向かって下る坂であったことから「本妙寺坂」と呼ばれた。本妙寺は明暦の大火(振袖火事・明暦3年(1657年)の火元として有名である。明治13年(1880年)豊島区巣鴨5丁目に移転した。]と記載。
 

 [33.炭団坂(たどんざか)] 延長46m、高低差8m 最寄駅 大江戸線/丸ノ内線 本郷三丁目駅

 「本妙寺坂」を下り、[菊坂」に出て、左折して進み、左側に下りる小道に出て、住所表示「本郷4-32」を右に入ると、開始地点(写真下左)です。アプリの「現在地表示」の青点が大活躍です。写真下右は階段上から振り返りました。

 

 説明板には[本郷台地から菊坂の谷に下りる急な坂です。名の由来は「ここは炭団などを商売にするものが多かった」とか、切り立った「急な坂で転び落ちた者がいた」ということからつけられたといわれている。台地の北側の斜面を下る坂のためにじめじめしていた。今のように階段や手すりがないころは、特に雨上がりには炭団のように転び落ち泥だらけになってしまったことであろう。この坂上の右側の崖の上に、坪内逍遥が明治17年(1884年)〜明治20年(1887年)まで住み、「小説神髄」や「当世書生気質」を発表した。]と記載。
 

 これにてB本郷ブロックー1の6坂は踏破です。残りの6坂はB本郷ブロックー2をご覧ください。


 

平野寅次郎 拝






 

 アプリを使ったYR「文京の坂 113坂を登ろう!」です。B本郷ブロック12坂の残りの6坂を歩きます。アプリの操作については、「@湯島ブロックー1」をご覧ください。最寄り駅は開始地点の近くの代表例です。写真は以前の訪問時に撮影したものも使用しています。

『文京の坂113 B本郷ブロックー2』
 

 [34.梨木坂(なしのきざか)] 延長122m、高低差9m 最寄駅 大江戸線/丸ノ内線 本郷三丁目駅

 「炭団坂」から「菊坂」に戻り、左折して下ると、開始地点は右側にあります。写真下左は坂の入口、写真下右は坂の途中です。

 

 「説明板には[むかしは梨の大木があり、この坂の名とするとか、また江戸時代前期に歌学者が住み、梨本と称したとか、いっぽう、この周辺は菊の栽培が盛んで菊畑がひろがっていたが、この坂あたりから菊がなくなるので「菊なし坂」としたなどの諸説がある。戦前はこのあたりは古いたたずまいの学生下宿が数多くあった。]と記載。
 

 [35.鎧坂(あぶみざか)] 延長116m、高低差12m 最寄駅 大江戸線/丸ノ内線 本郷三丁目駅

 「菊坂」に並行した左側の道に出ると開始地点(写真下左)です。坂の途中には「言語学者金田一京助・春彦(長男)」の居住跡の説明板がありました。終了地点(写真下右)の左側の小道は「炭団坂上」に通ずる道と分かりました。

 

 説明板には[本郷台地から「菊坂」の狭い谷に向かって下り、先端が右にゆるく曲がっている坂である。名前の由来は「鐙の製作者の子孫が住んでいたからとか、その形が「鐙に似ている」ということから名づけられたなどといわれている。この坂の上の西側一帯は上州高崎藩主 大河内家 松平右京亮の中屋敷で、その跡地は右京山と呼ばれた。」と記載。
 

 [36.菊坂(きくざか)] 延長626m、高低差12m 最寄駅 大江戸線/丸ノ内線 本郷三丁目駅

 「菊坂」に戻り、下ると近くに住んでいた「樋口一葉」が苦しい家計のやりくりに通った「伊勢屋質店」(写真下左)が右側にあります。開始地点は更に下り、「菊坂下」交差点(写真下右)です。

 

 「菊坂」はこの辺りのメインの長い坂です。写真下左は坂途中、終了地点(写真下右)は「本郷通り」で「見返り坂」・「見送り坂」の辺りです。

 

 説明板には[本郷四丁目と5丁目の間。このあたりは菊畑があって菊を作る人が多く住んでいたので「菊坂」と唱えた。今は、「本郷通り」の文京センターからの西横から、旧田町、西片1丁目の台地の下までの長い坂を「菊坂」といっている。また樋口一葉が父の死後、母と妹の三人家族の長として、菊坂下あたりに住んだのは明治23年(1890年)です。]と記載。
 

 [37.胸突坂(むな(ね)つきざか)] 延長 117m、高低差12m 最寄駅 大江戸線/三田線 春日駅

 「菊坂下」交差点の手前にある急な坂です。写真下左は開始地点、写真下右は終了地点付近からの振り返りです。「胸突坂」は急な傾斜の坂を上る時の姿勢から名づけられたとのこと。本日一番の急坂でした。

 

 [38.新坂(しんざか)] 延長 72m、高低差11m 最寄駅 大江戸線/三田線 春日駅

 「菊坂下」交差点を右折、右側にある坂が開始地点(写真下左)です。 写真下右は終了地点付近からの振り返りです 。

 

 説明板には「区内にある新坂と呼ばれる6つの坂の一つ。江戸時代の書物に谷に下る、新坂というと書かれている。名前は新坂だが、江戸時代にひらかれた古い坂である。このあたりは、もと森川町と呼ばれ、金田一京助の世話で、石川啄木が、一時移り住んだ。二葉亭四迷、尾崎紅葉、徳田秋声などの文人が多く住んだ。この坂は文人の逍遥の道でもあったと思われる。」と記載。近くにある坂より新しいから「新坂」としたとのこと。
 

 [39.石坂(いしざか)] 延長200m、高低差14m 最寄駅 大江戸線/三田線 春日駅

 「菊坂下」交差点に戻り、右に渡り、左折すると右側が開始地点(写真下左)です。大きく曲がりくねった坂道(写真下右)です。

 

 説明板には「江戸時代から石坂と呼ばれ、この一帯は、備後福山藩(11万石)の中屋敷を幕府の御徒組、御先手組の屋敷であった。明治以降、東京大学が近い関係で多くの学者、文人が居住した。夏目漱石(小説家)、佐々木信綱(歌人・国学者)、和辻哲郎(倫理学者)も居住、西片町は学者町といわれた。」と記載。江戸時代になぜ「石坂」と呼ばれたのかは不明です。
 

 これにてB本郷ブロックの12坂を踏破です。12坂踏破のIVV認定距離は7kmです。


 

平野寅次郎 拝






 

 アプリを使ったYR「文京の坂 113坂を登ろう!」です。C白山ブロックを歩きます。距離は12kmで一気に歩きましたが、16坂ありますので2回に分けてレポートします。アプリの操作については、「@湯島ブロックー1」をご覧ください。最寄駅は開始地点近くの代表例です。写真は以前の訪問時に撮影したものも使用しています。

『文京の坂113 C白山ブロック−1』
 

 [40.新坂(しんざか)] 延長126m、高低差13m 最寄駅 大江戸線/三田線 春日駅

 駅から「白山通り」右側を「白山」方面に進むと、「樋口一葉の終焉の地」の碑があります。「菊坂」からこの地に移り、明治29年(1896年)24年の短い生涯を閉じました。その先を右に入ると開始地点(写真下左)、写真下右は下りです。

 

 説明板には[新撰東京名所図会に「町内 (旧駒込西片町)より西の方、小石川掃除町に下る坂あり、新坂といふ」とある。この坂上の台地にあった旧福山藩主の阿部屋敷へ通じる、新しく開かれた坂ということでこの名がつけられた。また福山藩にちなんで「福山坂」ともいわれた。「新坂」と呼ばれる坂は区内に6つある。坂上一帯は学者町といわれ、夏目漱石はじめ多くの文人が住んだ。西側崖下一帯が旧丸山福山町で樋口一葉の終焉の地です。]と記載。説明板の坂名は(福山阪)が併記されていました。
樋口一葉についてはリンクできる湘南ふじさわWAのHP「寅さん歩107江戸・東京の祭―36」をご覧ください。
 

 [41.曙坂(あけぼのざか)] 延長28m、高低差5m 最寄駅 大江戸線/三田線 春日駅

 開始地点に下りて、右折して進むと、次の開始地点(写真下左)をアプリの「現在地」の青点が教えてくれます。短いが急な階段坂です。(写真下右)

 

 説明板には[「江戸砂子」によれば、今の白山、東洋大学の北西は、里俗に鶏声ケ窪といわれるところであった。明治2年(1869年)の町ができて、鶏声暁にときを告げる所から、あけぼの(暁と同じ)を取り、町名にした。この坂の場所と、旧曙町、鶏声ケ窪とは少し離れているが、新鮮で、縁起の良い名称を坂名としたのであろう。この坂と西片と白山を結び、人びとの通学や生活に利用されてきた。昭和22年(1947年)には旧丸山福山町・曙会の尽力により石段に改修された。]と記載。
 

 [42.胸突坂(むな(ね)つきざか)] 延長71m、高低差7m 最寄駅 大江戸線/三田線 春日駅

 アプリの「現在地」青点を頼りに住宅街の入り組んだ道を進みます。写真下左は開始地点、写真下右は終了地点です。名前ほど急阪ではありませんでした。

 

 説明板には[西片2-15と白山1-24の間。「丸山新町と駒込西片町との界にある坂をいふ、坂道急峻なり、因って此名を得、左右石垣にて、苔滑か」(新撰東京名所図会)。台地の中腹から、本郷台地に上る坂、坂上から白山通りを隔てて、白山台を臨む。「胸突阪」とは急な坂の呼び名で区内に三か所ある。この坂のすぐ南の旧西片町一帯は、福山藩の中屋敷跡で「誠之館」と名づけた江戸の藩校があった所である。]と記載。説明板の坂名には胸突坂(峰突坂・新道坂)と併記されていました。
 

 [43.中坂(なかざか)] 延長57m、高低差8m 最寄駅 大江戸線/三田線 春日駅

 白山1丁目24と28の間にあり、住宅街の中にある坂です。「胸突坂」と次の「浄心寺坂」の間に並行してあるので「中坂」と呼ばれたそうです。
写真下左は開始地点、写真下右は上り途中です。

 

 [44.浄心坂(じょうしんじざか)] 延長179m、高低差10m 最寄駅 三田線 白山駅

 「旧白山通り白山下」交差点を右に入ると開始地点です(写真下左)すぐ左側にある「円乗寺」には「八百屋お七の墓」(写真下右)の墓石が3つあり、左側は近所の有志が270回忌の供養で建立。中央は寺の住職が供養のため建てた。右側は寛永年間に岩井半四郎(役者)がお七を演じて好評だったので建立。
「八百屋お七」は井原西鶴の「好色五人女」に書かれ、語られているが異説が多いとのこと。天和の大火(1682年)で「円乗寺」に避難し、寺の小姓と恋仲になり、また会いたい一心でつけ火をし、捕えられ、天和3年(1683年)数え16歳で火あぶりの刑に処せられたのは本当の話です。寅次郎、中学校時代に担任の先生から「八百屋お七の歌」(数え歌)を教わり、大学時代に部活の先輩から替え歌(成人向)の指導を受けて、持ち歌としました。お七の恋心を歌う長い歌ですが、呆けて来てもこのような歌詞は忘れないものですね。

 

 写真下左は坂途中から振り返り、写真下右は終了地点です。

 

 説明板には[「小石川指ケ谷町より白山前町を経て東の方、本郷駒込東片町へ登る坂あり、浄心寺坂といふ」(新撰東京名所図会)。また、坂下に「八百屋於七」の墓所がある「円乗寺」があることから「於七坂」の別名もある。」]と記載。坂上に「浄心寺」という寺があったことからついた坂名です。
リンク出来る湘南ふじさわWAのHPひろば「寅さん歩49 健康ご利益巡り 文京区―1」をご覧ください。
 

 [45.薬師坂(やくしざか)] 延長283m、高低差11m 最寄駅 三田線 白山駅

 「白山下」交差点(写真下左)が開始地点、「白山上」交差点が終了地点で、交通量が多い坂道です。写真下右は坂途中からの振り返りです。 説明板には[坂上の「妙清寺」に薬師堂があったので、「薬師坂]と名づけられた。また、坂下に「浄雲院心光寺」があったので、「浄雲坂」とも呼ばれた。また、近くに「白山神社」があり、旧町名が白山南町で「白山坂」ともいわれたなど、別名の多い坂の一つである。この「薬師堂」は特に眼病に霊感あらたであったようだ。]と記載。説明板の坂名は(  )の表示で上記の坂名が併記されていました。「白山神社」はあじさい寺、歯の神様の寺として有名です。

 

 [46.伊賀坂(いがざか)] 延長18m、高低差14m 最寄駅 三田線 白山駅

 写真下左は開始地点です。坂の入口右側はケーキ屋さんでした。写真下右は「指ケ谷小学校」前を曲がりくねって上がる忍者の坂道でした。

 

 説明板には「白山2丁目28−29.白山台地から白山通りに下る坂で、道幅は狭く、昔の儘の姿を思わせる。この坂は武家屋敷にちなむ坂名の一つである。伊賀者の同心衆の組屋敷があったとか、真田伊賀守屋敷があったという二つの説がある。東京名所図会では真田伊賀守説をとっている。伊賀者は甲賀者と共に、大名統制のための忍者としてよく知られている。」と記載。
 

 [47.蓮華寺坂(れんげじざか)] 延長207m、高低差11m 最寄駅 三田線 白山駅

 「伊賀坂」を下りて「白山通り」の左側を上ります。写真下左は開始地点で左側に「蓮華寺」があり、傍にあることから「蓮華寺坂」と呼ばれるようになりました。写真下右は最終地点で左側は「東洋大学京北中等学校・高等学校・京北学園白山高等学校」の正門です。

 

 「蓮華寺」は天正15年(1587年)創建の日蓮宗のお寺で武士の檀家が多く、「武士寺」と呼ばれました。写真下左は「白山通り」に面した正門、写真下右は「蓮華寺」で「蓮華寺坂」の右側を下ると、脇から入れます。

 

 これにてC白山ブロックの16坂のうち8坂を踏破です。残りの8坂はC白山ブロックー2をご覧ください 。


 

平野寅次郎 拝






 

 アプリを使ったYR「文京の坂 113坂を登ろう!」です。C白山ブロック16坂の残りの8坂を歩きます。アプリの操作については、「@湯島ブロックー1」をご覧ください。最寄駅は開始地点の近くの代表例です。写真は以前の訪問時に撮影したものも使用しています。

『文京の坂113 C白山ブロック−2』
 

 [48.逸見坂(へんみざか)] 延長82m、高低差7m 最寄駅 三田線 白山駅

 「白山通り」の左側を上ります。左側に開始地点(写真下左)があります。写真下右は終了地点付近から振り返りました。

 

 説明板には[白山4-32と34の間。「白山神社裏門の南、小石川御殿町と指ケ谷の間を南に下る坂あり。逸見坂といふ。旧幕士 逸見某の邸、坂陰にありしより、此の名に呼ぶなり」(東京名所図会)武家屋敷にちなむ坂名である。このあたり「旧白山御殿町」で「逸見坂」はその北はずれにあたる。町名の由来は、白山御殿(後の五代将軍になった舘林侯 綱吉の屋敷)からきている。御殿廃止後、幕府の薬園(現在の小石川植物園)となる。]と記載。
 

 [49.暗闇坂(くらやみざか)] 延長61m、高低差8m 最寄駅 三田線 白山駅

 「白山通り」を横断、左折して、「白山通り」を上ります。「東洋大学」脇を過ぎたら開始地点入口です。「東洋大学」の裏手にあたります。昔は樹木が茂った暗闇坂でその名がついたようですが、現在は住宅に挟まれた坂道です。

 

 [50.暗闇坂(くらやみざか)] 延長181m、高低差6m 最寄駅 千代田線 根津駅

 もう一つの「暗闇坂」へ向かいます。「旧白山通り」の「東洋大学正門」に出て、「白山上」まで行き、「本郷通り」を「東京大学」方面に進みます。このアプリを作製した「さんぽみち総合研究所」脇(向ヶ丘1丁目)を過ぎて「東京大学農学部」隣の交番のある交差点を渡り、左折、「言問通り」に入り、「東京大学」の塀が終わる所が「暗闇阪」の終了地点です。坂を下り、右側にある「東京大学弥生門」(写真下左)が開始地点で、また、「暗闇坂」を上ります(写真下右)。樹木が茂る薄暗い坂で、その名がついたようですが、現在は東大生が行きかい、坂下には弥生美術館、竹久夢二美術館があって人通りが絶えない坂道です。

 

 [51.弥生坂(やよいざか)] 延長165m、高低差9m 最寄駅 千代田線 根津駅

 「暗闇坂」の終了地点の「言問通り」を右折、下ります。「弥生坂」は「言問通り」の一部に位置します。開始地点は坂下の「不忍通り」と交差する地点で、ここから「弥生坂」を上ります。写真下左は坂の上り、終了地点の近く左側に「弥生式土器ゆかりの地」碑(写真下右)があります。

 

 坂の説明板には[弥生1丁目と2丁目の間。かって、この辺り一帯は「向ヶ岡弥生町」といわれた。江戸時代は御三家水戸藩屋敷、小笠原信濃守屋敷、加賀藩前田の屋敷であった。明治2年(1869年)これらの土地は明治政府に収公されて大学用地となった。明治5年(1872年)この周辺は町屋が開かれ、向ケ岡弥生町と名づけられた。その頃、新しい坂道がつけられ、町の名をとって「弥生阪」と呼ばれた。また、坂下に幕府鉄砲組の射撃場があったので「鉄砲坂」ともいわれたとのことです。]と記載。説明板の坂名は(鉄砲坂)が併記されていました。
 

 [52.異人坂(いじんざか)] 延長123m、高低差9m 最寄駅 千代田線 根津駅

 「弥生坂」を下りる時は左側を歩き、「不忍通り」との交差点手前が「異人坂」入口の開始地点です。写真下左は上り、写真下右は下り、かなりの急阪です。

 

 説明板には[弥生2-13北側。坂上の地に明治時代東京大学のお雇い外国人教師の官舎があった。ここに住む外国人は、この坂を通り、不忍池や上野公園を散策した。当時は、外国人が珍しいことも手伝って、誰いうことなく外国人が上り下りした坂なので、「異人坂」と呼ぶようになった。外国人の中には、有名なベルツ(ドイツ人)がいた。明治9年(1876年)ベルツは東京医学校の教師として来日し、日本の医学の発展に貢献した。ベルツは不忍池を愛し、日本の自然を愛した。「異人坂」を下りきった東側に、明治25年(1892年)「高林レンズ工場」が建てられた。今の2丁目13付近の地である。その経営者は朝倉松五郎で日本のレンズ工業の生みの親である。]と記載。
 

 [53.お化け階段(おばけかいだん)] 延長19m、高低差7m 最寄駅 千代田線 根津駅

 「異人坂」坂上から前に進むと右側に階段があります。下りた所が開始地点です。上りと下りの段数が異なるので「お化け階段」と呼ばれています。
 上りと下りの階段数を数えてください。写真下左は上り、写真右は下りで寅次郎、数が1段違いました。また、大学の裏側なので樹木が茂り薄暗く、お化けが出るような場所だったかも知れません 。

 

 [54.新坂(しんざか)] 延長292m、高低差15m 最寄駅 千代田線 根津駅

 「おばけ階段」を下りて、道なりに進むと開始地点の「根津神社」参道口の大鳥居の前(写真下左)です。説明板には[「根津1丁目21と28の間。本郷通りから、根津谷への便を考えて作られた新しい坂のため「新坂」と呼んだ。
 また、根津権現(根津神社の旧称)の表門に下る坂なので「権現坂」ともいわれました。森鴎外の小説「青年」(明治43年作)でこの坂を「S坂」と書かれており、旧制第一高等学校の生徒は「S坂」と呼んだとのことです。」と記載。
 説明板の坂名は(権現坂・S坂)が併記されていました。写真下左は開始地点、写真下右は上り始めから振り返りました。

 

 左手に「東京大学」を見て「青年」の散歩道の看板(写真下左)前が終了地点で、右側には教会があります。写真下右は終了地点から振り返りました。

 

 [55.根津裏門坂(ねづうらもんざか)] 延長322m、高低差14m 最寄駅 千代田線 根津駅

 「新坂」の開始地点に戻り、「根津神社」にお参りし、西門又は北門から出て右折、「不忍通り」との交差点が開始地点です。写真下左は開始地点付近、写真下右は坂の左側にある「根津神社」北口です。説明板には[根津神社の裏門を、根津谷から本郷通りに上る坂道である。根津神社(根津権現)の現在の社殿は宝永3年(1706年)五代将軍綱吉によって、世継ぎの綱豊(六代将軍家宣)の産土神として創建された。国の重要文化財である。坂上の日本医科大学の西横を右に曲がると夏目漱石の住んだ家(猫の家)があった。]と記載。

 

 写真下左は「根津神社」境内にある有名な「つつじ園」です。写真下右は終了手前地点で、右側の建物は「日本医科大学付属病院」です。

 

 これにてC白山ブロックの16坂を踏破です。16坂踏破のIVV認定距離は12kmです。


 

平野寅次郎 拝






 

 アプリを使ったYR「文京の坂 113坂を登ろう!」です。D駒込ブロックの6坂を歩きます。アプリの操作については、「@湯島ブロックー1」をご覧ください。最寄り駅は開始地点の近くの代表例です。写真は以前の訪問時に撮影したものも使用しています。

『文京の坂113 D駒込ブロック 7km』
 

 [56.団子坂(だんござか)] 延長192m、高低差13m 最寄駅 千代田線 千駄木駅

 開始地点は不忍通り「団子坂下」交差点です。写真下左は坂上り口でS字のかなり急な坂道です。車の通行も多いので歩く際は注意してください。
 坂右側にある説明板には[千駄木2丁目と3丁目の間の坂。潮見坂、七面坂の別名がある。団子坂の由来は、坂近くに団子屋があったといい、悪路のため転ぶと団子のようになるからともいわれた。又、七面堂が坂下にあったことから「七面坂」の名が生まれ、坂上から東京湾の入江が望見出来たので「潮見坂」ともいわれた。坂上には森鴎外、夏目漱石、高村光太郎が居住していた。森鴎外邸の跡地は「森鴎外記念館」(写真下右)となっている。]と記載。

 

 [57.大給坂(おぎゅうざか)] 延長128m、高低差10m 最寄駅 千代田線 千駄木駅

 「団子坂」を下り、左折、「不忍通り」を「千駄木3丁目」信号の先の「千駄木3-27」(電柱に表示)が開始地点です。左折して上る、かなりの急坂で、この辺りに大給家があったことからついた名前で根津神社から富士神社を通り、旧日光街道(現・本郷通り)に抜ける間道だったとのこと。写真下左は坂入口付近、写真下右は坂上から下を振り返りました。

 

 [58.狸坂(たぬきざか)] 延長151m、高低差13m 最寄駅 千代田線 千駄木駅

 「大給坂」を下りて、「不忍通り」を左に進み、「道灌山下」交差点の手前の道が開始地点です。左折して坂を上ります。説明板には[千駄木3丁目12と20の間の坂。昔は「千駄木山」といって雑木林が多く、坂上は「狸山」と呼ばれていた。その狸山の坂なので「狸坂」と名づけられた。坂下は根津の谷で谷戸川(現在は暗渠)が流れ、日暮里の台地と対していた。]と記載。写真下左は上り口、写真右は坂上から下を振り返りました。

 

 [59.動坂(どうざか)] 延長148m、高低差8m 最寄駅 JR 田端駅

 「狸坂」を下りて左折、「不忍通り」を進み、「動坂下」交差点が開始地点です。交差点を渡り、左折、坂の右側を上ります。説明板には[本駒込4と千駄木4の間の坂。元和年間(1615〜1624年)万行上人が伊勢の国赤目山で不動明王を授けられ衆生済度のため諸国を回り、この地に庵を設けた。その後、庵は三代将軍徳川家光より現在の本駒込1丁目に移された。現在の「南谷寺」で 江戸五色不動の「赤目不動」です。庵の跡地に「日限地蔵堂」が建てられ、「堂坂」と呼ばれた。また「不動坂」の略称でも呼ばれているうちに「ふ」という音が無くなったらしい。]と記載。説明板には動坂(同坂)と併記されていました。写真下左は坂の前方、写真下右は上り口の動坂交差点方面です。

 

 [60.稲荷坂(いなりざか)] 延長297m、高低差11m 最寄駅 JR 駒込駅

 「動坂」を下りて、左折、「不忍通り」を進み、「駒込稲荷坂下」信号が開始地点です。左折して坂の左側を歩きます(写真下左)。写真下右は坂の途中から振り返りました。

 

 説明板には[坂の名は、かってこの辺りにあった「宗十郎稲荷」に由来する。伝承では、宗十郎稲荷は「おこり(瘧、間欠熱の一種で多くはマラリアを指す)」にご利益があり、「おこり」の罹患者が平癒の願いをかけ、全治すると履いて来た草履を脱いで「宗十郎稲荷」の祠前に奉納したという。この坂道は「宗十郎稲荷」の杉林の中に出来た道であり、坂下の田端方面から駒込土物店へ野菜などを出荷するために百姓が毎朝急いで通った近道であったという。]と記載。
 

 [61.神明坂(しんめいざか)] 延長360m、高低差11m 最寄駅 JR 駒込駅

 「稲荷坂」を下りた「駒込稲荷坂下」信号が開始地点で、左折して「不忍通り」を進みます(写真下左)。「神明坂」は「不忍通り」の一部に位置し、近くにあった天祖神社(神明社)にあやかって付けられた地名「神明町」の名をとった坂で大正11年(1922年)に開設された比較的新しい坂道とのこと。写真下右は終点地点を振り返りました。

 

 終了地点の先は「本郷通り」と交差する「上富士」交差点です。右折すると都立庭園・特別名勝の「六義園」で、脇を過ぎるとJR駒込駅です。
 

 これにてD駒込ブロック6坂を踏破です。6坂踏破のIVV認定距離は7kmです。


 

平野寅次郎 拝






 

 アプリを使ったYR「文京の坂 113坂を登ろう!」です。E大塚ブロックを歩きます。ここは寅次郎の住まいの最寄駅JR大塚駅から歩いて行けるエリアです。アプリの操作については、「@湯島ブロックー1」をご覧ください。
 最寄り駅は開始地点の近くの代表例です。写真は以前の訪問時に撮影したものも使用しています。

『文京の坂113 E大塚ブロック 12km』
 

 [62.網干坂(あみほしざか)] 延長265m、高低差14m 最寄駅 丸ノ内線 茗荷谷駅

 駅から「湯立坂」を下り、「千川通り」を横断、直進した所にある「簸川神社」と「小石川植物園・東京大学総合研究所小石川分館」の間が開始地点(写真下左)です。右の赤い建物は「東京大学総合研究所小石川分館」です。やや急な坂で終了地点は「小石川植物園」の塀が終わる地点で写真下右は坂上から振り返りました。左側の塀の中は「小石川植物園」です。

 

 説明板には[白山3丁目と千石2丁目の間の坂。白山台地から千川の流れる谷に下る坂道。小石川台地へ上がる「湯立坂」に向かいあっている。むかし、坂下の谷は入り江で舟の出入りがあり、漁師がいて網を干したのであろう。 明治の末頃までは千川沿いの一帯は「氷川たんぼ」といわれた水田地帯であった。その後、住宅や工場が増え、大雨のたびに洪水となり、昭和9年に「千川」は暗渠になった。なお、「千川」は古くは「小石川」と言われたが、いつの頃か「千川」と呼ばれるようになった。]と記載 。
 

 [63.氷川坂(ひかわざか)] 延長214m、高低差12m 最寄駅 丸ノ内線 茗荷谷駅

 「網干坂」を下り、「簸川神社」(氷川神社から改名)を右に行くと、開始地点で細くやや急な坂(写真下左)です。終点地点から少し下り、左に入ると「簸川神社本殿」(写真下右)に出ます。お参りして階段を下りると「網干坂」の開始地点に出ます。説明板には「氷川神社(現在の呼称は簸川神社に接した坂ということで、この名がついた。簸川神社の創建は古く、第5代考昭天皇の頃と伝えられ、源義家も奥州平定の祈願をしたといわれ、小石川・巣鴨の総社として江戸の名所だった。もとは現在の小石川植物園の地にあったが、白山御殿造営のため元禄12年(1699年)この地に移った。]と記載。説明板の坂名は(簸川坂)が併記されていました。小石川植物園の正式名は東京大学大学院理学系研究科附属植物園で江戸時代は幕府の薬草園として「赤ひげ先生」がいた養生所がありました。また青木昆陽が甘藷の試作をした所です。

 

 [64.湯立坂(ゆたてざか)] 延長450m、高低差17m 最寄駅 丸ノ内線 茗荷谷駅

 「仙川通り」に戻り、前にある「窪町東公園」脇が開始地点です。坂の右側には「教育の森公園」(旧東京教育大学の跡地)、「占春園」(松平家の下屋敷庭園)、「筑波大大学院」、左側に「旧磯野家」(実業家の銅御殿)があります。 写真下左は坂の途中で右の建物は筑波大学院の校舎です。終了地点は「春日通り」との合流地点(写真下右)で丸ノ内線茗荷谷駅はすぐ近くです。 説明板には「この坂下は千川があり、氷川神社(今の簸川神社)に渡ることが出来ないので神社の氏子は川の手前で湯花を捧げたので、この名がついた。」と記載。縄張り争いがあって対岸の氷川神社に行けないので、この坂でお湯を沸かし(湯立をし)お茶を飲んだとの説もあるようです 。

 

 [65.宮坂(みやさか)] 延長298m、高低差13m 最寄駅 丸ノ内線 新大塚駅

 「千川通り」に戻り、左折して進みます。開始地点は「千川通り」から左に入った「南大塚1-2付近」(写真下左)で坂の左側は豊島区で区境にある坂です。名前の由来は明治期 有栖川宮熾仁親王が21年にわたり、この辺りにあった屋敷の風趣を好んで住んだことから呼ばれました。昭和49年に作られた新しい坂で、写真下右は坂の途中地点です。終了地点は突き当りの道と交差する所です。

 

 [66.砂利場坂(じゃりばざか)] 延長296m、高低差14m 最寄駅 丸ノ内線 新大塚駅

 「仙川通り」に戻り、左折して進み、「千川通り」から少し入った「氷川下町児童公園」脇が開始地点(写真下左)です。「護国寺」の造営の時に砂利が置かれた場所から、ついた名とのこと。住宅地の中を上がる、やや急な坂です。

 

 [67.猫又坂(ねこまたざか)] 延長281m、高低差13m 最寄駅 丸ノ内線 茗荷谷駅

 「千川通り」に戻り、左折して進み、「不忍通り」と交差する「千石3丁目」交差点が開始地点です。交差点を横断しての坂の右側(写真下左)を上がります。上り始めると右側に「猫又橋の親柱」(写真下右)があります。終了地点は坂を上がった「千石1丁目15」辺りで、「不忍通り」の一部に位置する坂道です。

 

 説明板によると[不忍通りは千川谷に下る(氷川下交差点)長く広い坂である。現在の通りは大正11年(1922)頃開通したが、昔の坂は、東側の崖のふちを通り、千川にかかる「猫又橋」につながっていた。この今はない「猫又橋」にちなむ坂である。むかし、この辺りに狸がいて、夜な夜な赤手拭をかぶって踊るという話があった。ある時、若い僧が、食事に招かれての帰り、夕暮れどき、すすきの茂る中を、白い獣が追ってくるので、狸かと、あわてて逃げて千川にはまった。そこから、「狸橋」、「猫貍橋(ねこまたばし)」、「猫又橋」と呼ばれるようになった。「猫貍」とは妖怪の一種である。]と記載。
 

 [68.白鷺坂(しらさぎざか)] 延長537m、高低差17m 最寄駅 丸ノ内線 茗荷谷駅

 「千石三丁目」交差点まで戻ると、開始地点です。終了地点は「春日通り」と交差する「大塚3丁目」交差点(写真下左)です。坂の右側の大塚小学校石垣にある説明板には「この辺り一帯はかって伊達宇和島藩主の下屋敷であった。大塚小学校地は池を中心とした伊達屋敷の庭園部に当り、明治時代を迎え、荒廃し白鷺の集巣地となったとのこと。この白鷺に魅せられたアララギの歌人が通いつめ短歌を作ったといわれる。明治末期の道路整備で出来た坂名は白鷺に因んで呼ばれた。」と記載。写真下右は坂の途中から開始地点を振り返りました。

 

 [69.富士見坂(ふじみざか)] 延長425m、高低差11m 最寄駅 有楽町線 護国寺駅

 「白鷺坂」の終了地点から直進の坂は「富士見坂」ですが、開始地点は坂下の「護国寺前」(写真下左)」です。「護国寺」は5代将軍徳川綱吉が生母桂昌院の願いで建立した桂昌院の祈願所(後にコ川家の祈願所)です。写真下右は坂の途中から振り返りました。

 

 坂の左側を歩くと「護国寺惣門」や皇族(天皇・皇后を除く)の墓所「豊島岡墓地」があります。説明板には「大塚3丁目と5丁目の間の坂。坂上から良く富士山が見えたのでこの名がある。坂上の標高28.9mは区内の幹線道路では最高地点となっている。昔はもっと狭く急な坂であったが大正13年(1924年)市電の開通で整備され坂は緩やかに、道幅は広くなった。」と記載。終了地点は「春日通り」と交差する「大塚3丁目」交差点です。
 

 [70.開運坂(かいうんざか)] 延長141m、高低差10m 最寄駅 丸ノ内線 新大塚駅

 「富士見坂」を下り、右折し、「坂下通り」を進み、「開運坂下」が開始地点(写真下左)で左折して坂を上ります。坂の説明板には「大塚5丁目と6丁目の間の坂。坂名は講道館の創始者の嘉納治五郎によって名づけられたとされる。かっては坂上北側に講道館の道場があり、開運坂道場と呼ばれた。坂の突き当りには嘉納治五郎邸もあった。講道館とは柔道の道場で、柔道の研究教授とその普及発展を図る教育機関として発展、全国から多くの柔道家が集まり研鑽が積まれた。また大正期にはここで女子の柔道指導が本格的に開始された。開運坂道場は小石川の下富士坂道場から建物を移築、明治12年(1879年)に開始、昭和8年(1933年)に水道橋に移転した。」と記載。写真下右は終了地点から下を振り返りました。坂名の由来は良くわかりませんが、「運を開く吉兆を意味する、めでたい名を付けたものだろう」とのようです。

 

 これにてE大塚ブロック9坂を踏破です。9坂踏破のIVV認定距離は12kmです。


 

平野寅次郎 拝






 

 アプリを使ったYR「文京の坂 113坂を登ろう!」です。F小石川ブロックを歩きます。距離は11kmなので一気に歩きましたが、11坂ありますので2回に分けてレポートします。アプリの操作については、「@湯島ブロックー1」をご覧ください。最寄駅は開始地点近くの代表例です。写真は以前の訪問時に撮影したものも使用しています。

『F小石川ブロック−1』
 

 [71.富坂(とみさか)] 延長534m、高低差17m 最寄駅 大江戸線/三田線 春日駅

 「白山通り」と「春日通り」が交差する「春日町」交差点が開始地点です。文京シビックセンター脇の「富坂下」から上り(写真下左)、「富坂上」(写真下右)が終了地点です。「春日通り」の一部に位置する交通量の多い坂道です。

 

 説明板には[春日1丁目と小石川2丁目の間。「とび坂は小石川水戸宰相光圀郷のお屋敷のうしろ、えさし町より春日御殿町へ下る坂、元は此処に鳶が多くいたので、女童の、手に持たる肴をも舞い下りてとる故とび坂と云」と書かれている(紫一本)。鳶が多くいたので、「鳶坂」、転じて「富坂」となった。又、春日町交差点の谷(二ケ谷)をはさんで、東西に坂がまたがって飛んでいるため「飛坂」ともいわれた。そして、伝通院の方を「西富坂」、本郷の方を「東富坂」ともいう。都内に多くある坂名の一つである。]と記載。
 

 [72.牛坂(うしざか)] 延長99m、高低差13m 最寄駅 大江戸線/三田線 春日駅

 「富坂上」を左に入ると「北野神社(牛天神)」脇に出ます。そこは終了地点なので、坂を下ると開始地点です。写真下左は上り(右側が北野神社)、写真下右は途中からの振り返りです。

 

 説明板には[北野神社(牛天神)の北側の坂で、古くは潮見坂・蠣殻坂(かきがらざか)・鮫干坂(さめほしざか)など海に関連する坂名でも呼ばれていた。中世は、今の大曲辺りまで入江であったと考えられる。「牛坂」とは、牛天神の境内に「牛石」と呼ばれる大石があり、それが坂名の由来といわれる。「牛石」はもとは「牛坂」下にあった。「江戸志」には、源頼朝の東国経営のとき、小石川の入江に舟をとめ、老松につないで、なぎを待つ。その間、夢に菅神(菅原道真)が、牛に乗り衣冠を正して現われ、ふしぎなお告げをした。夢さめると牛に似た石があった。「牛石」がこれである。]と記載。写真下左は「北野神社」、写真下右は「牛石」です。境内には「貧乏神」を祀っていたが、江戸の頃、この近くに住む貧乏旗本の窮状を救ってからは、「福の神」として庶民の信仰を集めるようになったという伝説が残っている「太田神社」があります。お参りください。

 

 [73.安藤坂(あんどうざか)] 延長304m、高低差16m 最寄駅 大江戸線/三田線 春日駅

 「牛坂」の終了地点から「北野神社」にお参りして、石段を下ると「牛坂」下に行けます。目の前が「安藤坂」です。開始地点(写真下左)まで下ります。終了地点は「春日通り」の「護国寺前」交差点です。写真下右は終了地点を臨みます。広い幅の交通量が多い坂道です。

 

 説明板には[この坂は伝通院前から神田川に下る坂である。江戸時代から幅の広い坂道であった。傾斜は急であったが、1909年(明治12年)に路面電車(市電)を通すに当たり、ゆるやかにされた。坂の西側に安藤飛騨守の上屋敷があったことに因んで、戦前は「安藤殿坂」、戦後になって「安藤坂」と呼ばれるようになった。古くは坂下のあたりは入り江で、漁をする人が坂上に網を干したことから、また江戸時代に御鷹掛の組屋敷があって鳥網を干したことから「網干坂」とも呼ばれた。]と記載。
 

 [74.堀坂(ほりさか)] 延長126m、高低差12m 最寄駅 大江戸線/三田線 春日駅

 今回は坂を下らずに「安藤坂」の終了地点から、右折して「富坂下」交差点まで戻り、左折します。「こんにゃく閻魔」で有名な「源覚寺」の手前を左に入ると開始地点です。説明板には[堀坂は中富坂町の西より東の方、即ち餌差町に下る坂をいふ、もと其の北側に堀内蔵助(2300石)の邸ありしに因れり。今坂の中途に“ほりさか”と仮字にてしるしたる石標あり。此坂は従来「宮内坂」又は「源三郎坂」と唱へたるものにて、「堀坂」いへるは基後の称なりといふ](新撰東京江戸図絵)。この場所の北側に旗本 堀家の分家利直(後に利尚、通称 宮内)の屋敷があったことから、この坂は別名「宮内坂」と名づけられた。また、当地の名主鎌田源三の名から「源三坂」ともいわれた。「堀坂」という名称は、文政(1818〜30)の頃、堀家が坂の修復をして「ほりさか」と刻んだ石標を建てたことからいわれるようになった。坂下に”こんにゃく閻魔”の伝説で名高い「源覚寺」がある。]と記載。説明板には坂名には(宮内坂・源三坂)が併記されています。写真下左は開始地点、写真下右は坂下を振り返ります。

 

 [75.六角坂(ろっかくざか)] 延長146m、高低差10m 最寄駅 大江戸線/三田線 春日駅

 「堀坂」を下りて左折して進むと、開始地点(写真下左)です。写真下右は坂の途中の曲がりです。

 

 説明板には[「六角坂は上餌差(かみえさし)町より伝通院の表門に出る坂成り。古くは高家 六角氏の屋敷の前なる坂故にかくいへり」とある。餌差町は慶長年間に鷹狩りの餌になる小鳥を刺しそろえることを司る「御餌差衆」の屋敷がおかれた所である。]と記載。
 

 これにてF小石川ブロックの11坂のうち5坂を踏破です。残りの6坂はF小石川ブロックー2をご覧ください。


 

平野寅次郎 拝






 

 アプリを使ったYR「文京の坂 113坂を登ろう!」です。F小石川ブロック11坂の残りの6坂をレポートします。アプリの操作については、「@湯島ブロックー1」をご覧ください。最寄駅は開始地点近くの代表例です。写真は以前の訪問時に撮影したものも使用しています。

『F小石川ブロック−2』
 

 [76.善光寺坂(ぜんこうじざか)] 延長276m、高低差16m 最寄駅 大江戸線/三田線 春日駅

 「六角坂」を下りて、すぐ左の道が開始地点(写真下左)です。写真下右は坂途中にある「善光寺」です。

 

 説明板には[小石川2丁目と3丁目の間。坂の途中に「善光寺」があるので、寺の名をとって坂名にした。「善光寺」は慶長7年(1602年)の創建と伝えられ、「伝通院」(徳川家の菩提寺)の塔頭で、「縁受院」と称した。明治17年(1884年)「善光寺」と改称し、信州の善光寺の分院となった。したがって明治時代の新しい坂名である。坂上の歩道の真ん中に椋(むく)の老木がある。古来、この木は坂の北側にある「稲荷」に祀られている「澤蔵司(たくぞうす)」の魂が宿るといわれている。なお、坂上の「慈眼院」の境内には礫川や小石川の地名に因る松尾芭蕉の句碑が建立されている。”一しぐれ 礫や降りて 小石川”はせを(芭蕉)。 また、この界隈には幸田露伴、徳田秋声島木赤彦、古泉千樫らの文人・歌人が住み活躍した。]と記載。写真下左は「慈眼院」、写真下右は「椋の大木」です。

 

 写真下左は終了地点で、右奥に見えるのが「伝通院」、写真下右は「伝通院」の山門です。

 

 リンクできる湘南ふじさわWAのHPひろば「寅さん歩48 健康ご利益めぐり 文京区−1」をご覧ください。
 

 [77.三百坂(さんびゃくざか)] 延長181m、高低差7m 最寄駅 丸ノ内線 茗荷谷駅

 「伝通院」からはアプリの現在地の青点を頼りに進み、住宅街の細い道をくねくね行くと、「三百坂」の坂上に出ました。開始地点は坂下(写真下左)で、終了地点は坂上の「学芸大学附属の学校」の北門(写真下右)前です。

 

 説明板には[「江戸志」によると松平播磨守の屋敷から少し離れた所にある坂である。松平家では、新しく召し抱えた「徒の者」を屋敷のしきたりで、早くしかも正確に、役に立つ者かどうかをためすために、この坂を利用したという。主君が登城のとき、玄関で目見得させ後、衣服を改め、この坂で徒の列に加わらせた。もし坂を過ぎるまでに追いつけなかったときは、遅刻の罰として三百文を出させた。このことから、家人達は「三貊(さんみゃく)坂」を「三百坂」と唱え、世人もこの坂名を通称とした。]と記載。昔の文人は「三貊坂」と書いていたそうです。案内板の坂名には(三貊坂)が併記されていました。
 

 [78.御殿坂(ごてんざか)] 延長185m、高低差14m 最寄駅 丸ノ内線 茗荷谷駅

 「三百坂」の開始地点に戻り、「小石川植物園」を目指しました。写真下左が開始地点で左側が「小石川植物園」です。写真下右坂は途中からの振り返りです。

 

 説明板には[戸崎町から白山の方にのぼる坂なり、この坂の上に白山御殿あり故にこの坂の名に遺れり、むかしは大坂といひしや]、「享保の頃は、この坂の向ふに富士峰能く見えし故に富士見坂ともいえ」とあり(江戸志)。「大坂」・「富士見坂」の別名があります。「白山御殿」は五代将軍徳川綱吉が将軍就任以前、館林侯時代の屋敷で、もとの「白山神社」の跡であったので「白山御殿」といわれ、また地名を取り「小石川御殿」といわれた。綱吉の将軍就任後、御殿跡は「幕府の薬園」となった、享保7年(1722年)園内に“赤ひげ”で有名な「小石川養生所」が設けられた、青木昆陽が甘藷の試作をした。明治に入り東京大学の植物園になった。]と記載。
 「小石川植物園」は四季の花が楽しめますが、桜(写真下左2019年4月1日撮影)やカエデの紅葉(写真下右2014年11月30日撮影)は特に見事です。また、日本庭園や大温室があります。

 

 「小石川植物園」については「平野寅次郎のYR散歩」No6をご覧ください。
 

 [79.吹上坂(ふきあげざか)] 延長459m、高低差19m 最寄駅 丸ノ内線 茗荷谷駅

 「小石川植物園」の前の小道から「千川通り」に出て右折、「播磨坂下」へ行くと二本ある坂の左側が「吹上坂」の開始地点(写真下左)です。写真下右は「春日通り」と合流する終了地点(写真下右)です。広く・長い坂です。

 

 説明板には[このあたりをかって吹上村といった。この地名から名づけられたと思われる。「吹上坂」は松平播磨守の屋敷の坂をいへり(改選江戸志)。なお、別名「禿(かむろ)坂」で禿は河童に通じ、都内6カ所にあるが、いずれもかっては近くに古池や川などがあって寂しい所とされている地域の坂名である。
 この坂も「善仁寺」から「宗慶寺・極楽水」のそばへくだり、坂下は「播磨たんぼ」といわれた水田であり、しかも「小石川」が流れていた。この水田や川は鷺の群がるよき場所であり、大正時代でもそのおもかげを止めていた。]と記載。坂の途中(写真下左の茶色の建物)には「宗慶寺」(写真下右)があり、徳川家康側室の茶阿局(ちゃあのつぼね)の墓碑がありました。

 

 [80.播磨坂(はりまざか)] 延長452m、高低差18m 最寄駅 丸ノ内線 茗荷谷駅

 長い坂を下り、戻ると、「播磨坂」の開始地点(写真下左)です。桜の名所で写真下右は2019年4月1日撮影です。終了地点は「春日通り」との合流地点です。

 

 説明板には[播磨坂は戦災復興事業に於いて付近一帯の土地区画整理によって都市計画道路環状3号線の一部として造られた。坂名は江戸時代に松平播磨守の上屋敷があったことに由来する。千川(小石川)が流れる低地一帯は「播磨田んぼ」が広がっていた。現在は坂の中央に遊歩道が整備され、お花見が楽しめる。]と記載。
 

 [81.団平坂(だんぺいざか)] 延長144m、高低差8m 最寄駅 丸ノ内線 茗荷谷駅

 「播磨坂」の上から左側を下り、坂の途中で左折すると開始地点(写真下左)です。写真下右は終了地点で右側は「竹早公園」です。

 

 説明板には「団平という米つき商売をする人が住んでいたので、その名が付いた。何らかで名の知れた人だったであろう。庶民の名が付いた坂は珍しい。 この坂の一つ東側の道の途中(小石川5-11-7)に薄幸の詩人「石川啄木の終焉の地」がある。北海道の放浪生活を後、上京し、文京区を移りかわって、4カ所目。明治45年(1912年)4月13日26歳の若さで短い一生を終えた。」と記載。
 

 これにてF小石川ブロック11坂を踏破しました。11坂踏破のIVV認定距離は11kmです。


 

平野寅次郎 拝






 

 アプリを使ったYR「文京の坂 113坂を登ろう!」です。G小日向ブロックを歩きます。距離は8kmですが、16坂あるので2回に分けてレポートします。アプリの操作については、「@湯島ブロックー1」をご覧ください。最寄駅は開始地点近くの代表例です。写真は以前の訪問時に撮影したものも使用しています。

『G小日向ブロック−1』
 

 [82.金剛寺坂(こんごうじざか)] 延長139m、高低差16m 最寄駅 大江戸線/三田線 春日駅

 「春日通り」から「安藤坂」を下り、「巻石通り」を「江戸川橋」方面に向かうと、右側の「住所表示春日2-4」が開始地点(写真下左)で、写真下右は坂の途中です。

 

 説明板には[春日2-4と5の間。江戸時代この坂の西側、「金富小学校」寄りに「金剛寺」という禅寺があった。この寺の脇にある坂道なので、この名がついた。小石川台地から、「神田上水」が流れていた「水道通り」(巻石通り)に下る坂の一つである。この坂の東寄り(現・春日2-20-25あたり)で明治12年に生まれ、少年時代をすごした永井荷風は、当時の「黒田小学校」(現在の旧第五中学校のある所、昭和20年廃校)に、この坂を通ってかよっていた。荷風は昭和16年ひさしぶりに、この坂を訪れ、むかしを懐かしんでいる様子を日記に記している。]と記載。
 

 [83.新坂(しんざか)] 延長215m、高低差17m 最寄駅 大江戸線/三田線 春日駅

 「金剛阪」の開始地点に戻り、右折して進むと、右側にある「金富小学校」脇が開始地点(写真下左)です。左側は「国際仏教学大学院大学」で、徳川最後の将軍「徳川慶喜の終焉の地」です。終了地点近くの下は地下鉄丸ノ内線が地上を走っています。写真下右は坂途中から振り返りました。

 

 説明板には[春日2-7-8の間。仔細は分からないが、江戸時代の正徳(1711年〜16年)に開けた坂で当時としては新しい坂が名のおこり。別名「今井坂」の名のおこりは坂の上の蜂谷孫十郎殿屋敷の内に兼平桜(今井四郎兼平の名にちなむ)と名づけた大木があった。これにより「今井坂」と呼ぶようになった。この坂の上西側一帯は現在、「国際仏教学大学院大学」になっている。ここは徳川最後の将軍、慶喜が明治34年(1901年)以後に住んだところである。慶喜は自分が生まれた、小石川水戸屋敷に近い、この地を愛した。慶喜はここで、専ら趣味の生活を送り、大正2年(1913年)に没した(享年76歳)。現在、その面影を残す物は、入り口に繁る大公孫樹(おおいちょう)のみである。]と記載。説明板の坂名は「今井坂(新坂)」と書かれていた。
 

 [84.荒木坂(あらきざか)] 延長73m、高低差8m 最寄駅 有楽町線 江戸川橋駅

 「新坂」の開始地点に戻り、右折、さらに進むと開始地点(写真上左)です。写真上右は坂の途中から振り返りました。

 

 説明板には[小日向1丁目と4の間。称名寺の東横を、「小日向台地に上がる坂である。坂の上に荒木志摩守殿屋敷があったが今はない」(江戸砂子)。この坂下、小日向台地のすそを江戸で最初に造られた「神田上水」が通っていたことから、地域の人々は、上水に沿った通りを“水道通り”とか“巻石通り”と呼んでいる。「神田上水」は、井の頭池を源流とし、目白台下「大洗堰」(大滝橋付近)で水位を上げ、これを開渠で水を導き、「水戸屋敷」(後楽園)へ入れた。そこからは暗渠で神田、日本橋方面へ配水した。明治11年頃、水質を保つため、開渠に石蓋をかけた。その石蓋を“巻石蓋”と呼んだ。その後、神田上水は鉄管に変わり、飲料水として使用は明治34年1901年までで、以後は水戸屋敷跡に設けられた兵器工場(陸軍砲兵工廠)の工業用水として使用された。]と記載。荒木志摩守殿屋敷があったため「荒木坂」と呼ばれた。
 

 [85.庚申坂(こうしんざか)] 延長51m、高低差11m 最寄駅 丸ノ内線 茗荷谷駅

 「荒木坂」の終了地点に戻り、右折して、地下鉄丸ノ内線下のトンネル(写真下左)をくぐった先が開始地点です。地下鉄丸ノ内線はここでも地上を走ります。前の階段(写真下右)が「庚申坂」で、階段を上がると「春日通り」に合流です。

 

 説明板には[「小日向第六天町の北、小石川同心町の界を東より西へ下る坂 あり・・略」。この坂を「切支丹坂」というのは誤りなり。本名“庚申坂”昔、坂下に庚申の碑あり・・」(東京名所図会) 庚申信仰は庚申の日(60日毎)人が眠ると三戸の虫が人の体から出て天に上り天帝にその人の罪を告げるというところから、人々は一晩中夜明かしをした。この信仰は中国から伝わり、江戸時代に盛んになった。したがって「切支丹坂」はこの坂の地下鉄丸ノ内線下のトンネルの向側の坂のことである。「・・両側の藪の間を上る坂あり・・これが真の「切支丹坂」なり。(東京名所図会)]と記載。
 

 [86.切支丹坂(きりしたんざか)] 延長162m、高低差11m 最寄駅 丸ノ内線 茗荷谷駅

 「庚申坂」開始地点が「切支丹坂」の開始地点(写真下左)で、地下照丸ノ内線下のトンネルをくぐり、坂を上ります。終了地点を右折すると、「切支丹屋敷跡」の碑(写真下右)があります。

 

 説明板には「キリシタン屋敷は正保3年(1646年」に宗門改役 井上筑後守政重下屋敷に建てられた、転びバテレンの収容所です。江戸幕府はキリスト教を禁止し、多くのキリシタンを処刑していましたが、島原の乱をへて、転ばせたバテランを収容し閉じ込める施設として新しく造ったものです。牢屋と長屋があり、この中では一応無事な生活が許されていました。幕府がバテレンの知識を吸収する場にも利用されていました。最後の潜入バテレンとなるシドッティ(シドッチ)もここに収容され新井白石の尋問を受けています。シドッチ後は収監者もなく、享保9年(1724年)に焼失し、以降は再建されず、寛政4年(1792年)に屋敷は廃止されました。」と記載。切支丹屋敷があったことから呼ばれた坂です。
 

 [87.藤坂(ふじざか)] 延長78m、高低差11m 最寄駅 丸ノ内線 茗荷谷駅

 「切支丹坂」の開始地点に戻り、左折し、進むと右側が開始地点です。 写真下左は開始地点付近、写真下右は終了地点で、正面は「春日通り」です 。

 

 説明板には[藤坂は箪笥町から茗荷谷へ下る坂。「藤寺」のかたわらにあり、「藤坂」といわれた。「藤寺」とは坂下の曹洞宗伝明寺。又、江戸名所絵図では「三大将軍家光が鷹狩りに御成りの時に道筋のこの寺に立ち寄り、庭一面の藤を見て藤寺なりと上意があった」と伝える。昔はこの坂から富士山が望めたので「富士坂」、ここは清水が湧き、一帯は低湿地で、禿(かむろ)(河童のこと)がいたので「禿坂」ともいわれた。]と記載。
 

 [88.釈迦坂(しゃかざか)] 延長85m、高低差5m 最寄駅 丸ノ内線 茗荷谷駅

 「藤坂」の開始地点に戻り、右折し、進むと、開始地点です(写真下左)。 左は地上を走る地下鉄丸ノ内線です。写真下右は坂途中です 。

 

 説明板には[小日向4-1徳雲寺裏。「春日通り」から「徳雲寺」の脇を茗荷谷に下る坂である「徳雲寺」に釈迦の石像があってこれを見て坂名としたとのこと。「徳雲寺」は臨済宗円覚寺派の寺で寛永7年(1630年)に開山された。境内には大木の椎の木があり、元禄年間に五代将軍綱吉が、このあたりに御成の時、「椎木寺」なりと台命があった。そこで、この寺を「椎木寺」と呼ぶようになった。椎の木は火災で焼けしまったが、根株から芽が出て大木に成長したが、明治時代に、枯れてしまった。「徳雲寺」境内には「六角堂」があり「弁財天」が祀られ、近年、「小石川七福神」の寺になっている。]と記載。
 

 [89.蛙坂(かえるざか)] 延長66m、高低差8m 最寄駅 丸ノ内線 茗荷谷駅

 「釈迦坂」の開始地点に戻り、左折して「藤寺」開始地点まで行くと、右側の「稲荷」脇が開始地点(写真下左)です。坂の右側には「貞静学園短期大学」があります。写真下右は坂途中の振り返りです。

 

 坂名の由来は坂の東一帯はひどい湿地帯で蛙が池に集まった、又向かいの馬場六之門抱屋敷内に古池があり、ここにも蛙がいた。ある時、坂の中ほどで左右の蛙が合戦をしたからとのこと。
 

 これにてG小日向ブロックの16坂のうち8坂を踏破です。残りの8坂はG小日向ブロック-2をご覧ください。


 

平野寅次郎 拝






 

 アプリを使ったYR「文京の坂 113坂を登ろう!」です。G小日向ブロック16坂の残りの8坂をレポートします。アプリの操作については、「@湯島ブロック-1」をご覧ください。最寄駅は開始地点近くの代表例です。写真は以前の訪問時に撮影したものも使用しています。

『G小日向ブロック−2』
 

 [90.茗荷坂(みょうがざか)] 延長215m、高低差18m 最寄駅 丸ノ内線 茗荷谷駅

 「蛙坂」の開始地点に戻り、左に進むと、開始地点(写真下左)です。正面は「拓殖大学」で、右の坂を上ります。写真下右は坂の途中からの振り返りです。

 

 説明板には[「茗荷谷より小日向へのぼる坂なり云々」(改撰江戸志)。これによると「拓殖大学」正門前から南西へ上る坂をさすことになる。今日では地下鉄茗荷谷駅方面に上る坂をもいっている。「茗荷谷」をはさんでの坂のことであるので両者とも共通して理解できる。茗荷谷の地名については「昔、このところへ多く茗荷を作りし故の、名なり云々」とある。自然景観と生活環境にちなんだ坂名の一つといえよう。]と記載。
 

 [91.薬罐坂(やかんざか)] 延長127m、高低差9m 最寄駅 有楽町線 江戸川橋駅

 「巻石通り」に戻り、左に進みます。「小日向1-6」の住所表示が開始地点です。写真下右の左側の「生西寺」を過ぎたあたりが終了地点です。野狐のことを薬罐といったそうで、この辺りは狐が出そうな寂しい坂からそうした名が付いたとのことです。

 

 [92.横町坂(よこちょうざか)] 延長111m、高低差9m 最寄駅 有楽町線 江戸川橋駅

 「薬罐坂」を下る途中を右折した辺りが開始地点で写真下左は坂途中から開始地点を振り返りました。写真下右は終了地点です。横町にあるのでこの名が付いたとのこと。

 

 [93.服部坂(はっとりざか)] 延長105m、高低差11m 最寄駅 有楽町線 江戸川橋駅

 「横町坂」の終了地点は「服部阪」の途中なので坂を下り、開始地点(写真下左)へ行きます。右側には「江戸川橋体育館」があります。写真下右の右側の道は「横町坂」の終了地点です。正面が終了地点で、手前左側には「小日向神社」があります。

 

 説明板には[小日向1-7と2-16の間。坂の上には江戸時代、服部権太夫の屋敷があり、それで「服部坂」と呼ばれた。服部氏屋敷跡には、明治2年(1869年)に「小日向神社」が移された。永井荷風は作品に「ここは眺望のよい所と・・」と書いている。坂下にある「旧文京区立第五中学校」はもと「黒田小学校」といい、永井荷風も通学した学校である。戦災で廃校となった。]と記載。
 

 [94.大日坂(だいにちざか)] 延長231m、高低差20m 最寄駅 有楽町線 江戸川橋駅

 「服部坂」を下り、「巻石通り」に出て右折、進むと開始地点(写真下左)です。
 少し上ると右側に坂の名になった「大日堂」(写真下右)があります。

 

 説明板には[「大日堂」とは寛文年間(1661年〜73年)に創建された天台宗寛王山妙足院の大日堂のことである。坂名はこれに由来するが、別名「八幡坂」については現在小日向神社に合祀されている田中八幡神社があったことによる。この一帯は寺町の感のする所である。]と記載。写真下左は坂の途中、写真下右は終了地点です。

 

 [95.鷺坂(さぎざか)] 延長68m、高低差7m 最寄駅 有楽町線 江戸川橋駅

 「大日坂」を下り、「巻石通り」に出て右折、進むと「小日向2-19」の住所表示が開始地点(写真下左)です。正面に石標と説明板があります。左に曲がり上ります。写真下右は終了地点からの振り返りです。

 

 説明板には[この坂上には、徳川幕府の老中職をつとめた旧関宿藩主 久世大和守の下屋敷のあった所である。そのため地元の人は「久世山」と呼んでいまもなじんでいる。この久世山も大正以降は住宅地になり、堀口大学)詩人・仏文学者]やその父で外交官の堀口九万一も居住した。堀口大学や、近くに住んでいた詩人の三好達治、佐藤春夫らによって山城国の久世の鷺坂と結びつけた「鷺坂」という坂名が自然な響きをもって世人に受け入れられてきた。足元の石碑は、久世山会が昭和7年7月に建てたもので、文学愛好者の発案なる「昭和の坂名」として異色な坂名といえる。]と記載。
 

 [96.八幡坂(はちまんざか)] 延長90m、高低差17m 最寄駅 有楽町線 江戸川橋駅

 「鷺坂」を下り、「音羽通り」に出て右折、「今宮神社」の脇が開始地点(写真下左)。かなり急な石段の坂です。写真下右は終了地点からの振り返りです。

 

 説明板には[「八幡坂は小日向3丁目より屈折して、今宮神社の傍に下る坂をいふ。安政4年(1857年)の切絵図にも八幡坂とあり。」と東京名所絵図にある。明治時代のはじめまで、現在の今宮神社の地に田中八幡神社があったので、「八幡坂」と呼ばれた。坂上の高台一帯は「久世山」といわれ、かつて下総関宿藩主 久世氏の屋敷があった所である。]と記載。
 

 [97.鼠坂(ねずみざか)] 延長120m、高低差19m 最寄駅 有楽町線 江戸川橋駅

 「八幡阪」を下り、音羽通りを右折、音羽1丁目のバス停辺りが開始地点(写真下左)で階段の坂です。写真下右は終了地点からの振り返りです。

 

 説明板には[音羽1丁目10と13の間。音羽の谷から小日向台地へ上る急坂である。鼠坂の名の由来について「御府内備考」には「鼠坂は音羽5丁目より新屋敷ヘのぼる坂なり、至てほそき坂なれば鼠穴などいふ地名の類にてかくいふなるべし」とある。森鴎外は小説「鼠坂」でこの坂を「鼠でなくては上がり降りが出来ないと云ふ意味で附けた名ださうだ」と描写している。また、“氷見坂”とも呼ばれていたという。この坂上からは、音羽谷を高速道路に沿って流れていた、弦巻川の水流が眺められたからである。]と記載。
 

 これにてG小日向ブロック16坂を踏破しました。16坂踏破のIVV認定距離は8kmです。


 

平野寅次郎 拝






 

 アプリを使ったYR「文京の坂 113坂を登ろう!」です。H目白台ブロックを歩きます。距離は12kmで一気に歩きましたが、16坂あるので2回に分けてレポートします。アプリの操作については、「@湯島ブロックー1」をご覧ください。最寄駅は開始地点近くの代表例です。写真は以前の訪問時に撮影したものも使用しています。

『H目白台ブロック-1』
 

 [98.目白坂(めじろざか)] 延長440m、高低差24m 最寄駅 有楽町線 江戸川橋駅

 駅から「江戸川公園」に向かい、神田川を渡り、「音羽通り」の最初の左の坂が開始地点(写真下左)です。長い坂で、右側に寺や神社が並んでいます。

 

 左側にある「関口小学校」の先が終了地点(写真下左)、その先の左側には「ホテル椿山荘東京」(写真下右)があります。

 

 説明板には[西方清戸(清瀬市内)から練馬経由で江戸川橋北詰に抜ける道筋を「清戸道」といった。主として農作物を運ぶ清戸道は目白台地の背を通り、このあたりから音羽谷の底地へ急傾斜で下るようになる。この坂の南面に、元和4年(1618年)大和長谷寺の能化秀算僧正再興による「新長谷寺」があり本尊を「目白不動尊」と称した。そもそも三代将軍家光が特に「目白」の号を授けたことに由来とある。坂名はそれによって名付けられた。かっては江戸時代「時の鐘」の寺として「寛永寺」の鐘とともに、庶民に親しまれた。寺も明治とともに衰微し、「目白不動尊」は豊島区の「金乗院」にまつられている。]と記載。
 

 [99.目白新坂(めじろしんざか)] 延長440m、高低差21m 最寄駅 有楽町線 江戸川橋駅

 「目白坂」を下り、開始地点に向かいますが、上る時と反対側を歩いて違った景色を見てください。「目白坂下」を左折すると、開始地点(写真下左)です。「目白通り」の一部に位置し、バスも通り、交通量が多く広く長い坂道です。写真は車が来ない時を待って撮影しています。

 

 写真下左は坂の途中、写真下右は終了地点で、左側から来る「目白坂」と合流します。明治時代に開削された新坂で、「目白坂」のバイパスになった坂です。

 

 [100.鉄砲坂(てっぽうざか)] 延長135m、高低差17m 最寄駅 有楽町線 江戸川橋駅

 「巳白新坂」を下り、「音羽通り」に戻り、左折します。これからは「音羽通り」の左側にある坂を歩きます。開始地点は「音羽通り」起点が多いですが、0mにならない場合は一本左側に入った道まで行ってください。開始地点はアプリが指定しますので。写真下左は開始地点、狭い坂道(写真下右)入口でした。

 

 説明板には[関口3丁目と目白台3丁目の境。この坂は音羽の谷と目白台を結ぶ坂である。坂下の東京音楽大学学生寮のあたりは、江戸時代には崖を利用して鉄砲の射撃練習をした的場(角場・大筒角場ともいわれた)であった。その近くの坂ということで「鉄砲坂」とよばれるようになった。」と記載。
 

 [101.三丁目坂(さんちょうめざか)] 延長222m、高低差19m 最寄駅 有楽町線 江戸川橋駅

 「鉄砲坂」を下りて「音羽通り」に戻り左折、進むと、左側の「大塚警察署」の手前が開始地点で坂を上ります。写真下右は終了地点からの振り返りです。

 

 旧音羽三丁目から西の方目白台に上る坂とのことで「三丁目坂」と呼ばれた。坂下の首都高速道路の下はかって「弦巻川」が流れていたとのことです。
 

 [102.鳥尾坂(とりおざか)] 延長120m、高低差18m 最寄駅 有楽町線 江戸川橋駅

 「三丁目坂」を下りたら、「音羽通り」の1本手前の道を右折して首都高速道路沿いに「関口台公園」先まで進むと開始地点で、上は首都高速道路です。写真下右の右側の緑地は「関口台公園」です。

 

 写真下左は坂の途中、写真右は終了地点で、右は「独協学園中学校・高等学校」、その先の白い塔は「東京カテドラル関口教会」です。

 

 説明板には[関口3-9と11の間。この坂は直線的なかなり広い坂道である。坂上には「独協学園」、「東京カテドラル聖マリア大聖堂」がある。明治になって旧関口町192番地に鳥尾小弥太(陸軍軍人、貴族院議員、子爵)が住んでいた。西側の「鉄砲坂」は人力車にしても自動車にしても急坂すぎたので、鳥尾家は私財を投じて坂道を開いた。地元の人々は鳥尾家に感謝して「鳥尾坂」と名づけ、坂下の左わきに坂名を刻んだ石柱を建てた。」と記載。
 

 [103.七丁目坂(ななちょうめざか)] 延長145m、高低差21m 最寄駅 有楽町線 江戸川橋駅

 「鳥尾坂」を下りて、右折、首都高速道路沿いに進み、「関口3-1」の住居表示が開始地点(写真下左)です。写真下右を上りきると終了地点です。旧音羽七丁目と八丁目の間を通る坂なので「七丁目坂」と名づけられたとのこと。

 

 [104.胸突坂(むねつきざか)] 延長109m、高低差20m 最寄駅 都電荒川線 早稲田駅

 「七丁目坂」を下りる途中から右折して、「目白通り」(目白新坂)に出て、坂の左側を上がります。「ホテル椿山荘東京」の前を通過し、「講談社野間記念館」の角を左折、「永青文庫」前から下ると開始地点(写真下左)で、坂の右側は「芭蕉庵」です。写真下右は坂途中からの振り返りです。都電荒川線早稲田駅から来る場合は神田川・関口庵を目指します。

 

 坂を下り開始地点に行く時、急坂を駆け上がってきたお嬢さんに思わず「頑張れ!」と声を掛けたやさしい寅次郎でした。終了地点の「永青文庫」は肥後熊本の大名 細川家が約700年の間に蒐集した歴史資料や文化財、美術品の博物館で一般公開しています。説明板には[関口2-11と目白台1-1の間。目白通りから蕉雨園(もと田中光顕旧邸)と永青文庫(旧細川下屋敷跡)の間を神田川の駒塚橋に下る急な坂である。坂下の西には水神社(神田上水の守護神)があるので、別名「水神坂」ともいわれる。東は「関口芭蕉庵」である。坂が険しく、自分の胸を突くようにしなければ上がれないことから、急な坂には江戸の人がよくつけた名前である。ぬかるんだ雨の日や凍りついた冬の日に上り下りした往時の人々の苦労がしのばれる。]と記載。写真下左は「神田上水」の改修工事に参画した松尾芭蕉が住んだといわれる場所に建てた「芭蕉庵」、写真下右は「胸突坂」坂下前の「神田川桜並木」で見事です。左奥の建物が「ホテル椿山荘東京」です。

 

 [105.幽霊坂(ゆうれいざか)] 延長259m、高低差20m 最寄駅 都電荒川線 早稲田駅

 「胸突坂」の開始地点に戻り、右折し、右側の塀沿いに歩き、肥後細川藩主細川越中守の下屋敷跡の「肥後細川庭園」を右折して進むと開始地点(写真下左)で、右側は「肥後細川庭園」の塀、左側は「目白台運動公園」です。写真下右は終了地点手前で、右側は実業家 前川喜作が設立した男子学生寮「和敬塾」です。

 

 まだ一部は「幽霊坂」の名を思わせる、木の覆い繁る細い坂です。終了地点は「目白通り」との合流地点です。近くには「故田中角栄首相邸(目白御殿)」や「日本女子大学」があります。
 

 これにてH目白台ブロック8坂を踏破しました。残りの8坂はH目白台ブロック-2をご覧ください。


 

平野寅次郎 拝






 

 アプリを使ったYR「文京の坂 113坂を登ろう!」です。H目白台ブロック16坂の残り8坂をレポートします。アプリの操作については、「@湯島ブロックー1」をご覧ください。最寄駅は開始地点近くの代表例です。写真は以前の訪問時に撮影したものも使用しています。

『H目白台ブロック−2』
 

 [106.豊坂(とよさか)] 延長256m、高低差20m 最寄駅 都電荒川線 早稲田駅

 「幽霊坂」を下り、右折して進みます。右側に「稲荷」(写真下左)が見えますが、この道ではなく、次の道が開始地点(写真下右)です。

 

 坂は大きく曲がり(写真下左)、終了地点は「目白通り」との合流地点(写真下右)で、正面右は「日本女子大学」です。

 

 説明板には[目白大1丁目7と9の間。坂の名は坂下に「豊川稲荷」があることから名づけられた。江戸期この一帯は、大岡主膳の下屋敷で、明治になって開発された坂である。坂を下ると神田川にかかる「豊橋」があり、坂を上ると「日本女子大学」前に出る。坂下の神田川は井之頭池に源を発し、途中、善福寺川、妙正寺川を合わせて、水量を増し,区の南辺を経て、隅田川に注いでいる。江戸時代、今の「大滝橋」のあたりに「大洗堰」を築いて分水し、小日向台地の下を素掘りで通し、江戸市民の飲料水とした。これが「神田上水」である。」と記載。
 

 [107.小布施坂(おぶせざか)] 延長273m、高低差20m 最寄駅 都電荒川線 早稲田駅

 「豊坂」を下り、開始地点に戻り、右折して進みます。「豊川浴泉」(写真下左)が開始地点で脇の道を行きます。終了地点(写真下右)は「目白通り」との合流地点です。

 

 説明板には「江戸時代 鳥羽藩主 稲垣摂津守の下屋敷と、その西にあった岩槻藩主 大岡主膳勝正の下屋敷の野良道を、宝暦11年(1761年)に新道として開いた。その道がこの坂である。坂の名は、明治時代に株式の仲買人で財をなした小布施新三郎という人の屋敷がこのあたりに一帯にあったので、この人の名がとられた。古い坂であるが、その名は明治のものである。」と記載。
 

 [108.日無坂(ひなしざか)] 延長232m、高低差18m 最寄駅 都電荒川線 早稲田駅

 「小布施坂」を下り、開始地点に戻り、右折すると、「目白台1-13」の住所表示が開始地点(写真下左)です。写真下右は坂の途中で、豊島区と区境の坂です。

 

 途中からは階段に変わります。写真下右は終了地点からの振り返りです。狭い上に樹木に覆われて日の光もまばらだったことから名がついたようです。

 

 [109.幽霊坂(ゆうれいざか)] 延長126m、高低差4m 最寄駅 都電荒川線 鬼子母神前駅

 先ほど同じ名前の坂を歩いて来ました。今回は終了地点から前に進みます。「目白通り」に出て「不忍通り」との合流点流点から「不忍通り」の右側を歩きます。ここは「清戸坂」途中で「清戸坂」の説明板近くの右側の道が開始地点(写真下左)です。写真下右は坂の途中で平坦な坂です。

 

 かっては坂の西側に「本住寺」があり、その墓地が竹垣の間から見えたため、この名が付いたとのこと。坂の近くは江戸時代には旗本屋敷で、明治34年(1901年)「日本女子大学校」(現在の日本女子大学)が設立されました。
 

 [110.薬罐坂(やかんざか)] 延長228m、高低差7m 最寄駅 都電荒川線 鬼子母神前駅

 「幽霊坂」の開始地点に戻り、右折し、下ります。「目白第3-1」の住所表示が開始地点です。2本の道がありますが、右の広い道です。途中左側には明治後期から昭和戦前に建てられた和洋折衷の「村川家住宅」(西洋史学者村川氏宅)が文化財として残されています。

 

 説明板には[目白台2丁目と3丁目の境。江戸時代、坂の東側は松平出羽守の広い下屋敷であったが、維新後、上地され国の所有となった。現在の筑波大付属小学校一帯にあたる。また、西側には広い矢場があった。当時は大名屋敷と矢場に挟まれた淋しい所であった。「やかん坂」のやかんとは、野狂とも射干とも書く。犬や狐のことをいう。野犬や狐の出るような淋しい坂道であったのであろう。また、薬罐のような化物が転がり出た、とのうわさから、「薬罐坂」と呼んだ。別名の「夜寒坂」の起こりは、この地が「夜さむの里道」と、風雅な呼び方もされていたことによる。この坂を挟んで、東西に大町花月(評論家・随筆家)と窪田空穂(歌人・国文学者)が住んでいた。]と記載。説明板の坂名は(夜寒坂)が併記されていました。
 

 [111.清戸坂(きよとざか)] 延長645m、高低差12m 最寄駅 有楽町線 護国寺駅

 「不忍通り」に戻り、右折して進むと、首都高速道路手前が開始地点(写真下左)で、広く長い坂を上ります。終了地点は「目白通り」との合流地点(写真下右)です。

 

 説明板には[目白台2-9と2-10。延宝4年(1616年)御三家 尾張コ川家の御鷹場が、中清戸(現在の清瀬市)に造られた。将軍もしばしば出かけて鷹狩りを行った。これが現在の「目白通り」である。「首都高速道路(5号線)護国寺出入口」(護国寺側)から「目白通り」に向かっての広い坂の道は昔から“清戸道に登る坂”ということで「清戸坂」といわれた。江戸時代、この坂の北側一帯は、雑司ヶ谷村の畑(現在の雑司ヶ谷墓地)で坂の道に沿って雑司ヶ谷清土村百姓町があった。明治10年代から雑司ヶ谷の北側は牧場と牛舎が建ち、平田牧場といった。牛乳を売る小売店があり、人々が休憩をした。旗竿には「官許の牛の乳」とかな名とローマ字で書かれていたという。]と記載。説明板の坂名は(清土坂)が併記されていました。
 

 [112.小篠坂(こざさざか)] 延長 199m、高低差7m 最寄駅 有楽町線 護国寺駅

 「清戸坂」の左側を下りて交差点を横断、「護国寺」の墓地に沿った道が開始地点(写真下左)です。写真下右は終了地点近くです。

 

 説明板には[豊島区との境を接する坂である。この坂道は、江戸のころ、護国寺の北西に隣りあってあった。“幕府の御鷹部屋御用屋敷”から、坂下の「木浄寺」(豊島区雑司が谷)に下る道として新しく開かれた。往時は笹が生い繁っていたことから、この名がついたものであろう。坂下一帯は、文京の区域も含めて、住所表示改正まで、雑司ヶ谷町と呼ばれていた。]と記載。説明板の坂名は(小笹坂)が併記されていました。
 

 [113.希望の坂(きぼうのざか)] 延長66m、高低差8m 最寄駅 有楽町線 護国寺駅

 「小篠坂」の開始地点に戻り、左に少し進むと、開始地点(写真左)です。 最後の113坂目にふさわしい名前です。希望に向かって上りました。左側は「護国寺」の墓地、正面の終了地点は「区立青柳小学校」・「区立青柳幼稚園」でした。この坂の名は青柳小学校の皆さんから募集、坂道は子どもたちが楽しく学べる通学路であり、希望に満ちた子どもたちの将来を願って「希望の坂」としたとのことです 。

 

 これにてH目白台ブロックの16坂を踏破です。IVV距離認定は12kmです。
 文京113坂も全踏破(合計距離86km)です。お疲れ様でした。
 アプリの記録帖の「完登証」を押すと「完全登坂証」が出てきます。


 

 [“文京の坂113”を歩いた平野寅次郎の感想]
 

・文京区には何と名のついた坂が多いことを思い知りました。むかしの方々、毎日の生活で上り下りされる今の方々の足腰は鍛えられますね。  

・このアプリの基本は坂下から上り、次の坂へはいったん坂を下りで向かいます。たまにはそのまま前に進む場合もありました。どこから歩いても良いのですが、坂の番号は次に行きやすい設計で付けられているようですので、番号順にまわりました。多分、距離もこのコースで設計されていると思います。  

・スマホを持ちながら、坂を上ったり、下りたり、迷ったりしていると、「どうしましたか?」、「どこへ行きたいのですか?」と、多くのご親切な方々に声を掛けていただきました。お騒がせをいたしました。  

・スマホデビューの寅次郎でしたが、アプリの現在地(青点)に助けられて何とか113坂を踏破(完登)することが出来ました。  

・文京区教育委員会の坂の説明板は大変勉強になりました。記載内容は往時の人々の気持ちがよく表れているので、出来るだけ原文を記載しました。特に坂の名前の由来がいろいろあり面白かったです。  

・一番苦労したのは開始地点に来ているのに「あと0m」にならず、行ったり来たりしたことです。  

・1ブロックは一気に歩ける距離ですが、分けて歩く時のために開始地点近くの代表例の最寄駅(バスを除く)を書きました。でも、かなり離れている場所があります。  

・「コロナ禍」にあっては「密にならないアプリを使ったYRは新しい歩き方」として、もっと広まって欲しいと思いました。


 

平野寅次郎 拝






 

 今回は寅次郎が70年間過ごした神奈川県のYRコースを紹介します。日本の文明開化の先駆けとなった「みなと よこはま」のYRコースです。このYRコースを歩いた時期は2020年1月中旬です。2月初旬にクルーズ船「ダイヤモンドプリンセス号」が横浜港に到着。船内に新型コロナウイルス感染者が確認されて、大騒ぎになりました。

『よこはま みなとみらい 10kmコース』
ステーション:スポーツオーソリティ MARK ISみなとみらい店   最寄駅 みなとみらい線 みなとみらい駅 B2F

 

 YRはいつでも歩けるコースですが、コース上の見所の状況を事前に確認して出かけると楽しさは増大します。今回のコースは横浜港大さん橋の豪華客船の入港予定をネットでチェックすると良いです。みなとみらい駅はB3Fです。改札を出てMARK IS入口からB2Fへ上がるとスポーツオーソリティの売り場があります。CASHERでYRの受付を行い、地図(19kmと一緒)をもらって1Fから出ます。正面は「横浜美術館」で左折して進むと「帆船日本丸」(写真下左)が係留されています。全国の商船学校の練習船として54年間の任務を終え、1985年(昭和60年)から旧横浜船渠第一号ドッグに現役のまま保存されている国の重要文化財です。船内の見学(有料)も出来ます。写真下右は現役時の写真、今でも帆をはる訓練が行われるとのこと。

 

 「横浜ランドマークタワー」を左手に見て、写真下左の「汽車道」(旧横浜駅と新港埠頭を結ぶ臨海線の廃線を利用した道)を歩き、「赤レンガ倉庫」(写真下右)へ向かいます。1911年(明治44年)建築の歴史的煉瓦造りの倉庫で、中は雑貨や飲食のお店になっています。前の広場では各種イベントが開催され、冬にはスケートリンク場が出来て賑わう場所です。

 

 赤レンガ倉庫の手前左端に「海上保安資料館横浜館」(写真下左)があり、2001年(平成13年)12月九州南西海域で発生した不審船事件で沈没、引き揚げられた北朝鮮の工作船が展示されています。コースから外れますが、必見の価値があります。休館は月曜日(祝日の場合は翌日)入場無料です。

 

 「開港の道・山手臨港線プロムナード」(写真上右)を進むと、右手には「横浜三塔」が見えます。昔は入港時の目印になっており、外国人船員達によりトランプに例えた愛称で呼ばれたとのこと。見える順番は写真下の左から「横浜税関」(クイーン)(写真下左)、「横浜市開港記念会館」(ジャック)(写真下中))、「神奈川県庁本庁舎」(キング))です。以前は三塔ともプロムナードから見られましたが、県庁の渡り廊下が出来てジャックが隠れてしまい、プロムナードを下りて撮影しました。

 

 プロムナードの左手は「横浜港大さん橋」、運が良ければ写真下左の光景です。

 

 東京竹芝を夜出港の東海汽船大型客船の一部は横浜港に寄港します。写真上右は寅次郎が伊豆大島に行った時に船上から撮影した横浜港の夜景です。  プロムナードを歩き終わると、IR(カジノを含む統合型リゾート施設)の候補地の「山下公園」です。童謡「赤い靴をはいてた女の子」像(写真下左)の先に1930年(昭和5年)建造、北太平洋航路を長く航海した現存する唯一の貨客船「氷川丸」(写真下右)が1961年(昭和36年)から係留されています。国の重要文化財で船内見学(有料)も出来ます。休館は月曜日(祝日の場合は翌日)です。

 

 コースは「港の見える丘公園」から、横浜ベイブリッジを眺め(写真下左)、「石川町駅」方面へ下り、ステーションへ戻ります。「中華街」(写真下右)はコースから外れますが、ご自由にお立ち寄りください。見所、立ち寄り先が満載のYRコースです。

 

 皆さんも、地元の MY YRコースの紹介をIVV JAPAN(JVA)にお送りください。


 

平野寅次郎 拝






 

 2021年1月からスタートしたアプリウォーク「文京113坂」、9ブロックのコラムは終了しましたが、ウォーキングステーションのさんぽみち総合研究所に「文京の坂めぐりコース」を見つけ歩いてみましたのでご案内します。

『文京の坂めぐりコース 8km』
ステーション:さんぽみち総合研究所 最寄駅 南北線 東大前駅2番出口

 

 スタートして最初の信号「日本医大前」を右折、「新坂」に向かいます。[「青年」の散歩道]の看板(写真下左)の角を左折します。左側は教会です。

 

 説明板によると文京区1丁目と28の間で本郷通りから、根津谷への便を考えて作られた新しい坂のため「新坂」と呼びました。また、根津権現(根津神社の旧称)の表門に下る坂なので「権現坂」とも言われました。森鴎外の小説“青年”(明治43年作)でこの坂を「S坂」と書かれており、旧制第一高等学校の生徒は「S坂」と呼んだとのことです。

 

 不忍通りに出て、根津1丁目交差点を右折すると「弥生坂」です。説明板によると弥生1丁目と二丁目の間で、かって、この辺り一帯は「向ヶ岡弥生町」と言われました。江戸時代は水戸藩や加賀藩の屋敷があり、明治時代に入り大学用地となり、新しい坂道を「弥生阪」と呼びました。また、坂下に幕府鉄砲組の射撃場があったので「鉄砲坂」とも言われたとのことです。

 

 「弥生式土器発掘ゆかりの地の碑」(写真上右)を過ぎたら、左折、緩やかな「暗闇阪」(写真下左)を下ります。名前の由来は昼間でも暗く鬱蒼と樹木が茂り狭い坂道を覆いかぶせたことから言われます。都内には数か所同名の坂があります。右側は東京大学です。道なりに進み、旧岩崎邸庭園の三叉路を右折すると「無縁坂」(写真下右)です。

 

 「無縁坂」の説明板には「御府内備考」に称仰院前道より本郷筋への往来の坂で往古 坂上に無縁寺があり、そう呼んだとのこと。森鴎外の作品「雁」の主人公岡田青年の散歩道ということで、多くの人々に親しまれたとのこと。坂を上りきり、東京大学のレンガ塀に沿って進み、龍岡門から春日通りに出て左折「湯島天神の大鳥居」(写真下左)をくぐって「清水坂」(写真右)を下ります。

 

 「清水坂」は湯島1丁目と3丁目1の間で、江戸時代に霊山寺がありましたが、明暦の大火で焼失、寺は浅草移転しています。明治になり土地は清水精機株式会社の所有になり、町の人達が清水家の徳を称え「清水坂」と名付けたとのこと。本郷通りに出て湯島聖堂の塀に沿って右折すると「昌平坂」(写真下左)です。坂の下まで下りて右折すると「相生坂」(写真下右)です。

 

 「昌平坂」は右側の湯島聖堂との間で千代田区と文京区境界線上にある坂です。昌平の名は孔子が生まれた魯国昌平郷(現在の中国山東省曲阜県の東南)が由来です。
 「相生坂」は神田川対岸の駿河台の「淡路坂」と並ぶので「相生坂」と呼ばれたとのこと。湯島聖堂の再建で道が入り組み、後年、「昌平坂」と呼ばれるようになったそうだ。
 聖橋をくぐり、水道橋方面に進み、順天堂大学を過ぎたあたりからは「お茶の水坂」(写真下左)です。水道橋交差点を右折、すぐ右折すると急な上りの「忠弥坂」(写真下右)です。

 

 説明板には「お茶の水坂」は水道橋から順天堂医院館の外堀通りで、神田川の外堀工事は元和年間(1615〜1626年)に行われたが、それ以前に、ここにあった高林寺の境内で湧き水があり「お茶の水」として将軍に献上したことから地名になり、その上にある坂なので「お茶の水坂」と呼ばれたと記載。
 「忠弥坂」は諸説ありますが本郷1丁目3と5の間で、坂の上に丸橋忠弥の槍の道場があり、慶安事件(由井正雪と共に幕府転覆を企てた)で捕えられた場所も近いので「忠弥坂」と呼ばれたとのこと。
 東洋学園大学の右脇から真砂坂上交差点に出て、文京ふるさと歴史館の先が階段の「炭団坂」(写真下左)です。下りて細い道を左折、正面が急阪の「胸突坂」(写真下右)です。

 

 「炭団坂」は本郷台地から菊坂の谷に下りる急な坂です。名の由来は「ここは炭団などを商売にするものが多かった」とか[切り立った急な坂で転び落ちたものがいた]ということから付けられたと言われます。昔は今の階段はないので雨上がりに転んだら炭団のように泥だらけになったことでしょう。
 「胸突坂」は急な傾斜の坂を上る時の姿勢から名付けられています。文京区内には同名の坂があります。最後に本日一番の急坂でした。
 コースは本郷通りに戻り、東京大学正門、農正門を右側に見ながらウォーキングステーションの「さんぽみち総合研究所」へ戻ります。
 今回歩いた12の本郷の坂は2021年1月からスタートの文京区113坂アプリでは4ブロックに分かれています。
 坂の途中には文京区教育委員会の説明板がありますので注意して見てください。説明板のない坂もあります。


 

平野寅次郎 拝






 

 2020年9月7日から日本市民スポーツ連盟の事務所は湯島ハイタウンA棟に移転関係でYRもコース変更になりました。従来のさんぽみち連絡 東大コースと小石川植物園コースを合わせた新6kmコースです。ゴールは従来と同じでさんぽみち総合研究所です。
 ※現在は、コロナの関係で東大の構内には入れません。

『さんぽみち連絡コース 6km』
ステーション:湯島ハイタウンA棟208号   最寄駅 千代田線 湯島駅

 

 湯島ハイタウンA棟(写真下左は入口)に入り、右側の階段を2階に上がり事務所(写真下右)でYRの受付をしてスタートです。ビルを出て右折、春日通りを進みます。

 

 坂を上り、右側に「春日局像」と「麟祥院」の山門(写真下左)が見えます。第3代将軍徳川家光の乳母、大奥で権力を誇った「春日局のお墓」があります。「黄泉から天下のご政道を見守りたい」との遺言で四方から穴が貫通した珍しいお墓(写真下右)です。

 

 本富士警察署前信号を右折、「龍岡門」から「東京大学」の構内に入ります。構内は見所一杯です。寄り道してご紹介します。「赤門」を入った受付に置いてある「本郷地区キャンパス ガイドマップ」が役に立ちます。大学の事情で構内に入れない時は「本郷三丁目」交差点を右折、大学の脇を進みます。

 

 写真上左は「赤門」、正式名称は旧加賀屋敷御守殿門。1827年(文政10年)建立の重要文化財です。写真上右は「正門」で赤門の先にあります。1912年(明治45年)竣工の登録有形文化財、浜尾総長の創意により青年の意気溌剌たる雄大な気概を表現しています。

 

 写真上左は「三四郎池」、正式名称は旧加賀藩屋敷の「育徳園心字池」です。夏目漱石の小説「三四郎」以来、この名で親しまれています。
 写真上右は「安田講堂」、安田善次郎氏の寄付により1925年(大正14年)に竣工。現在は式典、公開講座、五月祭などに使用されています。登録有形文化財です。構内には食堂、レストランが多くあります。寅次郎のお好みは安田講堂脇を下りる中央食堂(学食)の「赤門ラーメン」(写真下左)453円です。見かけは辛そうですが、食べてみると程よい辛さです。学食は11時〜ですが11時30分〜13時30分は学生・教職員優先です。
 学食の1Fは生協購買部で日用品の他、東大の名入の学用品、クッキー、饅頭、チョコレート、赤門ラーメンなどが盛り沢山並び、学校訪問の父兄や高校生のお客さんが多いです。校章になっている「銀杏」も東大の名物で、写真下右は構内の銀杏並木です。

 

 湘南ふじさわWA HP寅さん歩196「東京の学食めぐり−5」を参照ください。リンク集からご覧いただけます。
 歩道橋を渡り、弥生キャンパス(農学部)の「農正門」(写真下左)近くには「上野博士と忠犬ハチ公」の銅像(写真下右。ハチ公没後80年の2015年(平成27年)3月除幕)があります。東大農学部教授の上野博士はハチ公の飼い主で、1925年(大正14年)東大構内で急死されました。ハチ公は自らが死ぬまで10年間朝夕、上野博士の自宅(松濤)から渋谷駅に通い、博士の帰りを待っていました。

 

 農学部正門を出て左に行き、交番のある交差点の坂を右折して下ります。道の左を歩いて進み、白山通りも横断すると正面に「こんにゃくゑんま」の石柱が立つ「源覚寺」です。寛永元年創建の浄土宗の名刹。老婆の眼病平癒の願いに閻魔大王が自分の眼を老婆に与え、お礼に老婆は大好物の“こんにゃく”を奉納し続けた由来から、「こんにゃく閻魔」として長く親しまれ、今もお参りに“こんにゃく”をお供えする人が多いです。地獄の蓋が開くお盆(東京では7月15日)には参詣者に“こんにゃく”がふるまわれます。お寺の話ではお供えされた“こんにゃく”ではなく新たに入手の“こんにゃく”を使うとのことです。
 説明板には「木造閻魔王坐像の右眼は黄色く濁っている。高さ100.1m、ヒノキ材の寄木造りで、彩色を施し、玉眼が嵌入してある。優れたできばえを示し、運慶派の流れをくむ鎌倉時代の作と思われる。銘文によると寛永12年(1672)に仏師竹内浄正が修理している。彫刻美術品として優れているとともに、文京区所在の仏像の中で、古い作製年代に属するものとして貴重な文化財である。(一部略)」と記載。写真下右は閻魔像が奥にあるので、左手前に写真を置き、参詣者はその前に“こんにゃく”をお供えしています。

 

 境内には歯痛緩和の「塩地蔵」(寛永元年の開山以前よりこの地にあり、お身体に塩を盛ってお参りして身体健康を祈願)や小石川七福神の「毘沙門天」が祀られています。写真下左は「塩地蔵」、右は「毘沙門天堂」です。

 

 湘南ふじさわWAのHP寅さん歩48 健康ご利益めぐりー10(文京区−1)、49 健康ご利益めぐり-11(文京区―2)、寅さん歩99 江戸・東京の祭―28(江戸らしい祭−12)、寅さん歩120 お江戸の閻魔大王―2を参照ください。
 「こんにゃくえんま商店街」の右側の道を道なりに進み、コインパーキングのある信号(小石川植物園方面)を右に入り進むと、「小石川植物園」入口です。小石川植物園の正式名称は「東京大学大学院理学系研究科 附属植物園」です。この地は「白山御殿」(小石川御殿)と呼ばれ、三代将軍徳川家光の四男徳松(後の五代将軍綱吉)が住んでいました。兄の四代将軍家綱の死に伴い、御殿は廃止し、幕府の「小石川薬草園」となり、あかひげ先生のいた小石川養生所、青木昆陽が甘藷の試作、大奥女中のへちま水も作られたとのこと。明治になり国の薬園、「東京帝国大学の植物園」となり、植物学の研究・教育実習施設となりました。 約48000坪の広大な敷地に多くの植物が楽しめますが、特に春のソメイヨシノ(2015年4月2日撮影)は見事です。精子発見のイチョウ、ニュートンのりんごの木、メンデルの葡萄の木、薬園保存園、公開温室など見所一杯です。

 

 小石川植物園の右の坂を上り、白山通り「白山下」を横断します。右側に行く小石川税務署方面の道を少し行くと「八百屋お七」の墓がある「圓乗寺」です。
 写真下左が「八百屋お七墓」、右が「八百屋於七之墓」(初代岩井半四郎 建立百十二回忌供養塔)です。せっかくの機会なので立ち寄りお参りください。

 

 コースに戻り、旧白山通りの坂を上ります。「白山上」で右に行き、「向丘二丁目」交差点を右折して右の歩道を進み、「向ケ丘二丁目」信号前がゴールの「さんぽみち総合研究所」の建物(写真下)です。通り過ぎないようにご注意ください。



 

平野寅次郎 拝








 

 コロナ禍や体調のリハビリで、しばらくお休みしていたYR散歩の再開です。
今回は靖国通りで見つけた神田小川町の「MIZUNO TOKYO」のYRコースを歩きます。最寄り駅は代表例と出口です。

『[水のめぐりBコース 皇居内堀一周] 10km 500選 東京13−01』
ステーション:MIZUNO TOKYO 千代田区神田小川町3-1 最寄駅:都営地下鉄 新宿線 小川町駅B5出口

 

 日本市民スポーツ連盟(IVV-JAPAN)のHP全国のウォーキングステーションからコースを印刷すると日比谷公園〜皇居外堀〜神田川を巡るAコース15kmもありましたが、皇居周辺の秋を期待してBコースを選びました。
 コース地図にはMIZUNO TOKYO(写真下左)の店営業時間は11時〜20時、YRは9時30分〜18時で11時までは受付ボックスにて受付と記載されていました。9時30分に到着すると受付ボックスの場所が分からず、スタートしました。ゴールで確認すると受付ボックスは店のビルの裏側に置いてあったとのことです。駿河台下交差点を渡り、すぐ左側の神田すずらん通り(写真下右)を入り、突き当たった白山通りを左折して進むと一ツ橋地区です。

 

 一ツ橋地区の白山通り左右には多くの「発祥の地」のモニュメントがありますので、注意しながら歩いて下さい。
 左側の学士会館の手前角には「日本野球発祥の地の碑」(写真下左)、学士会館の入口右には「東京大学発祥の地の碑」(写真下右)があります。説明板もありますのでご覧ください。

 

 学士会館の右角には京都同志社の創立者「新島襄先生 生誕記念の碑」、右の一ツ橋交差点(写真下右)を渡り、白山通りの右側を歩きます。

 

 右側の如水会館の手前に「東京外国語学校(現在の東京外国語大学)発祥の地の碑」(写真下左)があります。突き当たると内堀通りの平川門交差点で平川門(写真下右)を左に見ながら竹橋方面に進みます。皇居東御苑(無料)には平川門からも入れます。

 

 コースは北の丸公園に入ります。園内の紅葉・黄葉を楽しんでください。
 休日は多くの人が訪れますが、訪問時の平日は幼稚園児・保育園児のみでした。

 

 科学技術館(写真下左)、武道館もあります。田安門(写真下右)を)出て靖国神社へ向かいます。

 

 訪問時(2021年12月13日)の靖国神社の多くの銀杏は盛りを過ぎていましたので、写真下左の202年12月7日撮影で境内から大鳥居を振り返った写真を見てください。靖国神社境内には桜の標準木(写真下右)があり毎年、東京のソメイヨシノの開花を発表しています。

 

 靖国神社にお参りしたら、南門から出て、千鳥ヶ淵緑道を歩きます。
 千鳥ヶ淵とは旧江戸城の内濠の一部で名の由来はV字型の千鳥に似ているからといわれています。桜並木は昭和30年代からヨメイヨシノを植栽したものが現在に至っています。写真下左は2018年3月30日撮影の千鳥ヶ淵の桜です。
 桜の季節にもう一度来て満開の桜の下を歩いてください。でも今は静かなウォーキングが楽しめます。写真下右は千鳥ヶ淵緑道から内堀通りに出て左折、右側にある英国大使館です。

 

 近くには写真下のような紅葉・黄葉があります。

 

 左手に皇居・お濠、右側には国立劇場を見ながら進みます。

 

 三宅坂から国会議事堂方面に右折すると左側に憲政記念館があり、無料で見学できます。日本の議会政治に関する展示施設でレストランもあります。 国会議事堂を右手に見て警視庁、桜田門方面に向かいます。

 

 写真下左は外桜田門、写真下右が桜田門です。

 

 大名になった気分で門をくぐり皇居前広場を進みます。写真下左は二重橋、広場の出口の松の根元には元気になる薬(?)が注入されていました。

 

 皇居前広場から大手門前を通過し、気象庁前交差点を右折して靖国通りに戻ります。大手門からも皇居東行苑へ入ることが出来ます。気象庁は2020年11月港区虎ノ門へ移転しています。
 靖国通りの右角に「ご縁たい焼き」屋を見つけ、甘党の寅次郎、早速買いました。

 

 店の前に椅子もあります。昼時なので女性客が多かったです。中身タップリの美味しいたい焼でした。

 

 ゴールは店の6階です。受付ボックスが分からなかったと言ったら受付票に記載してOKでした。桜の季節にもう一度歩きたいコースです。見所もいっぱいで丁寧にみると1日かかるコースです。皇居東御苑に入る場合は休園日(月曜日・金曜日)に注意です。また昼休みや休日は皇居の周りを走るランナーが多くなりますので、これも注意です。 このHPからリンクできる湘南ふじさわウオーキング協会(FWA)のHPひろば「寅さん歩314 東京の博物館めぐりー7 千代田区―1、寅さん歩316 東京の博物館めぐりー9 千代田区―3、寅さん歩382 東京の主要道路 起点〜終点 白山通りー1には文中の博物館や発祥の地が掲載されていますので、ご覧ください。


 

平野寅次郎 拝








 

 新型コロナ感染拡大「まん延防止等重点措置」が2022年3月21日で解除されました。3回目のワクチン接種を済ませた寅次郎、YR散歩の再開です。
 3月27日東京のソメイヨシノの満開が発表(平年より4日早く、昨年より5日遅い)されましたので、YRコースに石神井川沿いの桜並木がある東京都北区赤羽の「靴のマルノ」に出かけました。最寄り駅は代表例と出口です。

『[歴史探訪コース] 10km』
ステーション:靴のマルノ 北区赤羽2-4-10 最寄駅:JR埼京線 赤羽駅北改札口 東口

 

 東口から赤羽東本通りを渡り、赤羽スズラン通り商店街の「靴のマルノ」(写真下左)からスタートです。コースは赤羽駅北改札口西口に戻り、南口から静勝寺に向かいますが、地元商店街の弁天講の要望で静勝寺の辨財天を勧請したという「亀ケ池辨財天」(写真下右)に立ち寄りました。

 

 コースに戻り、高台にある静勝寺一帯は「稲付城」と呼ばれた城があり戦国時代 太田道灌が築いたと伝わっています。城は小田原北条氏のものになり、関東に入った徳川家康により廃城されました。太田道灌の死後、道灌を弔う堂が建立され、堂は現在の曹洞宗の寺院「静勝寺」(写真下左)になりました。

 

 静勝寺を下りてコースを外れましたが、そのおかげで「普門院」(写真下左)を見ることが出来ました。コースは普門院の上の道を通過するようです。普門院は創建不明の真言宗智山派の寺院で山門は石門の上に楼閣様式の独特の形でお伽話の浦島太郎の竜宮城の門をイメージしているそうです。境内にはブッダガヤの寺院を模した「納骨堂」(写真下右)がありました。

 

 コースに戻り、武蔵野台地の崖地を活かした「清水坂公園」(写真下左)に向かいます。園内には「自然ふれあい情報館」(写真下右)があります。リンクできる湘南ふじさわWA(以下FWA)のHP 寅さん歩349 東京の博物館めぐりー36 北区ー2をご覧ください。

 

 公園の上から環七通りを横断、「富士見銀座」に向かい、「十条銀座」手前を右折して帝京大学病院入り口交差点を直進、「帝京大学板橋キャンパス」に向かいます。帝京大学の学食はFWAのHP寅さん歩202 東京の学食めぐりー10をご覧ください。
 突き当りは桜満開の石神井川いこいの水辺です。石神井川は小平市の小金井カントリー倶楽部敷地内の湧水を水源に西東京市、練馬区、板橋区、北区を経て隅田川に合流しています。コースは帝京大学附属病院前(写真下左)から北区王子駅近くの「音無親水公園」まで石神井川に沿って歩きます。北区一帯では石神井川を「音無川」と呼び、江戸時代から親しまれています。桜三昧ウォークです。



 

 埼京線のガードをくぐると板橋区から北区へ入ります。

 

 この辺りから学校名や地名に「もみじ」の名が出てきます。秋には紅葉の名所だそうです・写真下左は「音無もみじ緑地」の辺りで「松橋弁財天洞窟跡」で江戸時代の名所だったとの説明板がありました。上に上がると「金剛寺」(写真下右)があり、「紅葉寺」と呼ばれ、鎌倉に向かう源頼朝布陣伝承地との説明板がありました。

 

 「音無親水公園」(写真下左右)に到着です。コースは上にある「王子神社」に向かいます。

 

 写真下左は「王子神社」で令和4年に700年を迎える東京十社です。
 写真下右は境内にある「関神社」で「髪の祖神」が祀られています。

 

 王子神社の説明板には「1322年。(元亨2年)この地域を支配していた豊島氏が紀州熊野三社 王子大神を勧請、王子の地名にもなり代々の領主や将軍から崇敬されました」と記載。FWAのHP寅さん歩 79熊手市、101槍祭の王子神社のお祭りおよび寅さん歩68には関神社の紹介が記載されています。
 次は「王子稲荷神社」に向かいます。写真下左は山門、写真下右は社殿です。関東稲荷の総社で毎年大晦日には狐に仮装した「狐の行列」が再現されます。
 FWAのHP 寅さん歩113では王子稲荷神社の凧祭りと「王子の狐」の話が紹介されています。

 

 次は「名主の滝公園」に向かいます。写真下左は入り口、写真下右は園内の残された滝です。安政年間(1854年〜1860年)王子村の名主 畑野孫八が自邸に開いたのが始まりで、名の由来にもなっています。明治の中頃、堀内徳三郎の所有になり庭園として整備されましたが戦災で焼失、1960年(昭和35年)11月から東京都により再公開されました。

 

 コースはJR線の十条跨線橋を渡り、桜田通りを進み。環七通りを横断して赤羽のYRステーションに向かいます。YRステーションで思いがけない出会いがありました。
 10年前まで寅次郎の住んでいた神奈川県藤沢市在住の旧友 榊原克世さんとの出会いです。小学校のクラス会で私のウォーキングの話に興味を持った旧友は今やIVV認定大会2デーマーチ・3デーマーチ100大会以上参加表彰を受けた全国トップレベルのウォーカーになっていました。広い東京で、数あるYRステーションでYRでの思いがけない再会に感動した寅次郎でした。


 

平野寅次郎 拝








 

 東京・隅田川以東の唯一のウォーキング ステーションのうたい文句を知った寅次郎、江戸川区小岩のDBW 東京・江戸川のYRに出かけました。

『[東コース(江戸川周遊コース)] 12km』
ステーション:DBW東京・江戸川 住所:江戸川区南小岩7-38-11 最寄駅:JR総武線 小岩駅南口

 

 DBW東京・江戸川はウォーキングの大先輩 中野貞三さんが個人で運営されているウォーキング ステーションでした。中野さんは1994年(平成6年)職場や同じビルの会社の方にウォーキングを奨励し、D・Bウォーキング クラブを立ち上げ、全国のウォーキング大会で知り合った歩友も含め、現在も活動しているそうです。 DBWの意味を中野さんに尋ねると「男性はダイナミック ボディー、女性はドリーム ビューティ ウォーキングです」と笑いながら答えられました。大和銀行(ダイワ バンク)のご出身なのでDBの由来が分かったような気がしました。
 YR実施日は月・水・金(含む祝日)、第1〜第3土曜日・日曜日です。受付は午前9時〜午後2時ですが、受付時間前から歩きたいウォーカーの気持ちを配慮された受付方法には感心しました。2回目以降の受付は受付時間前から外に出ている机の上にある受付箱の用紙に時間と名前を書いてスタート、机が出ていない早朝・休日の受付は専用ボックスがあり、スタートできます。
 コースは東・西・南・北があり、それぞれにショートコースもあります。江戸川を歩こうと東コースを選びました。江戸川は映画「男はつらいよ」の寅さんの生まれ故郷の柴又を流れています。全国のウォーキング大会を歩きまわっていた時に妻の友人から映画の寅さんと同じだと付けられた名が「平野寅次郎」で、以来ペンネームにしています。写真下左はステーション(中野さんご自宅)で左の箱は早朝受付箱です。さあ、善養寺(写真下右)に向け、出発です。

 

 IVV JAPAN(JVA)HPのステーション一覧でのJR小岩駅からステーションまでの道案内は丁寧でした。コース案内も地図に書かれた通り歩くと最初の目的地の「善養寺」に到着出来ました。善養寺は室町時代の1527年(大永7年)に創建の真言宗豊山派の寺院で不動明王が祀られています。正面の「不動門」の手前には江戸川に流れ着いた天明の浅間山噴火犠牲者の供養碑がありました。境内には国指定の天然記念物「影向の松」(ようごうのまつ)(写真下左右)があります。推定樹齢は600年超で樹高は8m、根周り4,5m、地上2mの位置に四方に枝が伸び、東西に31m、南北に28mに及びます。1950年(昭和56年)、四国の阿野松と日本一を競い、当時の大相撲立行司 木村庄之助によって東西の横綱に引き分けられました。

 

 左奥の本堂前には江戸時代から「撫で仏」として親しまれ信仰された「お賓頭盧様」(おびんずるさま)(写真下左)の木像がありました。以前は手で撫でましたが、コロナの感染予防で紙が置いてあり「紙で頭を撫でれば頭がよくなる。鼻を撫でれば美人になる。手を撫でれば器用になる。」などのご利益が書かれていました。寅次郎、すべてを撫でていました。

 

 右奥には室町時代の不動明王(小岩不動尊)が祀られている「不動堂」(写真上右)、枝垂れ桜の先には「仁王門」(写真下左)があります。仁王門の裏(写真下右)にはご当地出身の第44代横綱 栃錦の像(右)と横綱(左)が飾られていました。JR総武線の小岩駅にも横綱 栃錦の土俵入りの像があり、小岩が生んだヒーローです、前述の「影向の松」の日本一争いでも立行司 木村庄之助の引き分け判定を支持したそうです。

 

 仁王門の表(写真下左)を出て左に行き、土手を上がると「江戸川」(写真下右)で江戸川が東京都と千葉県の境で川の向こうは千葉県市川市です。



 

 土手の右下の道は「篠崎街道」、土手の道は幅が広く、車も来ず、歩きやすいです。右手に浅間神社(写真下左)が見えます。毎年7月1日に開催される日本最大規模の「巾幟祭」(のぼりまつり)が有名で幟が立つ大祭は隔年です。

 

 リンクできる湘南のふじさわWA HPの寅さん歩127 江戸・東京に祭―5(江戸らしい祭―22)をご覧ください。写真上右は「江戸川大橋」で京葉通りが通っています。8kmのショートコースはここで折り返しです。江戸川大橋をくぐり又土手に上がり「江戸川水門」(写真下右)を渡ります。この辺りはまだ桜が満開でした。江戸川水門は江戸川放水路と旧江戸川の分岐点にあり旧江戸川の流水を調整するために昭和11年着工、同18年完成で今も現役です。

 

 江戸川水門を渡り、今度は「行徳橋」(写真下左)を渡ると、千葉県市川市に入り、千葉県側の江戸川土手を歩きます。写真下右は江戸川大橋(京葉道路)をくぐり、振り返りました。

 

 川向こうの東京都(写真下左)を眺めながら歩きます。土手の道は東京都側より少し狭いですが、ゆったりと歩けます、土手下は桜並木(写真下右)です。この桜並木は次に向かう「市川橋」手前1kmまで続いていました。東京の桜の満開は3月27日と発表されましたが、千葉県の桜は4月6日でも健在でした。

 

 写真下左は土手下の桜並木の終わりの地点です。今度は土手に緑の並木(写真下右)が並んでいました。よく見ると河津桜で花は散っていました。市民がオーナーになり記念樹として植えたもので、それぞれの木にオーナーのお名前と記念理由が書かれた立札がありました。

 

 更に土手を進むとJR総武線の「鉄橋」(写真下左)の手前に「さくら堤公園」(写真下右)があり、ここでも満開の桜が見られました。

 

 鉄橋をくぐり、「市川橋」(写真下左)を渡り、東京都に戻ります。左折して「千葉街道」を直進して小岩郵便局前交差点まで行くとゴールのステーションはすぐです。江戸川に架かる橋を楽しみながら、2022年最後のお花見ができたYRでした。

 

 ゴールしてステーションで中野さんとお話が出来ました。2022年1月で米寿を迎えられたそうです。全国を歩き、IVV認定2デー・3デー100大会以上達成の第一号とのことです。湘南ふじさわWAの例会にも参加されたそうで、話の中には足の速い佐藤さんご夫妻やIVV認定2デー・3デー100大会以上を達成し、今は各地のYRを歩き回っている榊原さん(寅次郎の小学校・中学校の同級生)の名前が出ていました。平野寅次郎を名乗り、「YR散歩」を書かせていただきますと言うと、「うちのYRにも平野寅次郎が来た!」と喜んでおられました。後日、参考までにとD・Bウォーキング クラブ25周年の資料や全国のウォーキング大会の足跡の資料をお送りくださいました。
 寅次郎、DB(ダイナミック ボディー)を目指し、また歩きに来ます。


 

平野寅次郎 拝






 

 前回、東京・隅田川以東の唯一のウォーキング ステーションの江戸川区小岩のDBW 東京・江戸川のYR 東コース(江戸川周遊コース)を歩いた寅次郎、DB(ダイナミック ボディー)を目指して、今回は南コースを歩きました。

『[南コース(新中川健康の道)] 12km』
ステーション:DBW東京・江戸川 住所:江戸川区南小岩7-38-11 最寄駅:JR総武線 小岩駅南口

 

 DBW東京・江戸川はウォーキングの大先輩 中野貞三さんが個人で運営されているウォーキング ステーション(写真下左)です。
 YR実施日は月・水・金(含む祝日)、第1〜第3土曜日・日曜日です。受付は午前9時〜午後2時ですが、早朝・休日の受付専用ボックスで受付を済ませてスタートです。

 

 ステーションを撮影した寅次郎、その位置で「前の道を左へ進む」で左へ進んでしまい、次の「下小岩親水緑道標識」(写真右上)が見つからず、コース間違いに気づき、ステーションに戻り、反対側へスタートのやり直しをした、あわてものの寅次郎でした。

 江戸川区は区内最初の親水緑道として「下小岩親水緑道」を整備しました。農村地帯だったこの一帯の下水道の整備で不要になった水路跡を利用し、水とのふれあい大切にする願いを込めた緑とせせらぎの外観を再現した楽しい散歩道です。メートル(m)単位で距離が表示された誰でもが歩ける「健康の道」でした。 訪問した5月初旬はつつじがきれいに咲いていました。下の写真をご覧ください。



 

 写真上右の正面の土手を上がると「新中川」(写真下左)です。新中川は中川の洪水対策として葛飾区高砂から中川を分岐させて人工的に作った「中川放水路」と知りました。1963年(昭和38年)3月に完成し、1965年(昭和40年)新中川と改称しました。土手を進むと最初の橋「小岩大橋」(写真下右)で「千葉街道」と交差します。千葉街道は、江戸時代は元佐倉街道と呼ばれ、房総の諸大名の参勤交代路であると同時に江戸中期以降は、庶民の往来で賑わいました。また本道は将軍の鷹狩りの道として交通の便を優先させ、村落や耕地を無視して造ったため、今も直線道路としてその名残をとどめています。

 

 YRコースは折り返しの「瑞穂大橋」の間に14の橋があります。小岩大橋は土手に信号があり、横断できましたが、ほとんどの橋は手前で河川敷に降り、橋の下をくぐり、まだ土手に上がります。次の「松本橋」は老朽化で架け替え工事中でした。次は「鹿本橋」「鹿骨新橋」(写真下左)で、鹿が付く橋です。土手の左は「鹿骨」(しかぼね)という地名で、奈良時代(8世紀)奈良の春日大社創建に際し、常陸の鹿島神社から分霊される時に多くの神鹿を引き連れておよそ1年かけて奈良に行ったと伝わり、鹿が死んだため、この地に葬ったことから地名の由来となったとのこと。鹿骨新橋の名は公募で選ばれたそうです。



 

 次は「大杉橋」(写真上右)です。1996年(平成6年)に架け替えられました。杉をモチーフに視認性の高い形態でシンボル性と開放感を演出しています。沿川流域や遠方から塔や斜長ケーブルが目立つ優雅なハーブ橋です。
 土手を進むと船舶係留場所(写真下左)があり、モーターボートが多いです。

 

 写真上右は次の「一之江橋」で上の道は「京葉道路」です。
 ショートコース7kmは一之江橋で下に降りず、橋を右折して対岸に渡ります。
 次の橋は「新椿橋」・「首都高速7号線」・「南椿橋」(写真下左)が連なってありました。土手の端には新中川に架かる橋の名が書かれた案内標(写真下右)がありました。橋の下を歩くため橋の名が分からなかった寅次郎には橋名と現在地が表示されていて大変役に立ちました。

 

 次の「春江橋」・「涼風橋」を過ぎると、「明和橋」(写真下左右)です。
 平成4年の架け替えに当り、「ゆとりと賑わい」をテーマに町並みに映える風格ある橋として整備しました。橋名のとおり、「人々が明るく和やかに集える橋」として地域の交通はもとより、コミュニティの場としても広く利用されています。ここには信号があり土手の横断できました。

 

 次の橋は「瑞江大橋」(写真下左)、「新今井大橋」(写真下右)です。

 

 屋形船(写真下左)が係留されていました、その先には「今井水門」(写真下右)があります。

 

 今井水門は内扉7門を持ち、江戸川区を高潮や津波の被害から守る水門の一つで1963年(昭和38年)完成しました。2012年(平成24年)台風18号での異常潮位を堰き止めています。

 

 コースは新中川の最下流に位置する「瑞穂大橋」を渡り、対岸を歩いて引き返します。新中川は瑞穂大橋で旧江戸川(江戸川から分岐)と合流します。
 帰り道は違った角度から橋を眺め直しながら歩きました。途中のトイレは土手から降りますが、「トイレ〇〇m」の看板があります。短い距離の利用をお勧めします。
 コースを歩いて江戸川区が新中川の整備に当り、「水とみどりのネットワーク」づくりの一環として「水辺と橋の織りなすコミュニティ回廊」の形成を目指している姿が理解できました。また、明和橋と瑞江大橋の間を四角く回ると380mあり、これを30分で歩く「健康の道」との説明看板もあります。運動は積極的な健康法とする「健康文化都市 江戸川」の姿も見えました。

 橋桁の前後に橋名が書かれていて橋の説明版がもっとあると更に良いと思いました。でも家に戻り、橋を調べる学習が出来ました。


 

平野寅次郎 拝






 

 東京・隅田川以東の唯一のウォーキング ステーションの江戸川区小岩のDBW 東京・江戸川のYRの東コース(江戸川周遊コース)と南コース(新中川健康の道)を歩いた寅次郎、更なるDB(ダイナミック ボディー)を目指して、今回は北コース(柴又七福神巡り)を歩きました。柴又は映画「男はつらいよ」の寅さんの生まれ故郷です。“平野寅次郎”は全国を歩いた映画の寅さんのように全国のウォーキング大会を歩き回っていると妻の友人に付けられ、ペンネームにしました。七福神巡りはお正月のイメージがありますが、コース内に小岩菖蒲園があるので、この季節を選びました。

『[北コース(柴又七福神巡り)] 13km』
ステーション:DBW東京・江戸川 住所:江戸川区南小岩7-38-11 最寄駅:JR総武線 小岩駅南口

 

 DBW東京・江戸川はウォーキングの大先輩 中野貞三さんが個人で運営しているウォーキング ステーション(写真下左)です。YR実施日は月・水・金(含む祝日)、第1〜第3土曜日・日曜日です。受付は午前9時〜午後2時ですが、早朝・休日の受付専用ボックスで受付を済ませてスタートできます。コースの歩き方は地図に細かく記載されています。
 まずは1370年(応安元年)創建の日蓮宗の寺 宣要寺(写真下右)です。

 

 山門を入ると左側に第25代、第26代、第27代の木村庄之助の揮毫した「忍」、「努力」、「志」の銘板(写真下左で右から第25代の順です)があります。第44代横綱 栃錦の出生地が南小岩なので、そんなご縁なのかと推察しました。JR小岩駅でも名横綱 栃錦の土俵入り姿の像が出迎えてくれました。その先の本堂前には枝を横に長く伸ばした「瑞鳳の松」(写真下右)があります。

 

 本堂(写真下左)脇の鐘楼の手前には永井荷風の句碑に「青竹の しのび返しや 春の雪」、「日の当たる 窓の障子や 福寿草」の2句がありました。小説家 永井荷風は戦後、江戸川向こうの千葉県市川市に住んでいました。

 

 上小岩親水緑道(写真下左・右)を歩きます。江戸川区の健康の道です。途中でいくつかの道路を横断しますが、水路に沿って進んでください。

 

 創建は不祥ですが旧小岩田村の総鎮守の八幡宮(写真下左)です。鳥居を入った右に北原白秋の歌碑(写真下右)「いつしかに 夏のあわれと なりにけり 乾草小屋の 桃色の月」があります。詩人 北原白秋は大正時代に北小岩に1年程住みました。



 

 親水さくら街道(写真下左)を歩きます。さくらは桜と思いましたが、佐倉道との標識がありました。葛飾区に入り、いよいよ柴又七福神を巡ります。1507年(応永14年)創建の真言宗豊山派の寺 恵比寿様の医王寺(写真下右)です。

 

 山門(写真下左)と本堂(写真下右)で山門左にある説明板には奇病(眼の病)退散祈願で建てられたとありました。

 

 更に進むと、これから行く帝釈天 題経寺の墓地があり、入口に浅間山噴火川流溺死者供養の碑(写真下左)がありました。1783年(天明5年)浅間山の大噴火で、この地まで川を流れて来た溺死者を柴又村の人々が供養のため建てたものです。
 その先が1624年(嘉永元年)創建の真言宗豊山派の寺 大黒天の宝生院(写真下右)です。

 

 北総鉄道の新柴又駅に到着です。ショートコース(7km)は新柴又駅から高架下をくぐり、柴又街道を南に戻ります。ロングコースは高架下手前の右の小道(突き当りのように見えますが通行可)を入り、高架下の道を直進します。鎌倉公園、京成線車両基地、高砂北公園(写真下左)、天祖神社を通過します。寅次郎、天祖神社で夏越の茅の輪くぐり(写真下右)で厄払いをしました。

 

 京成線ガードをくぐると1469年(文明元年)創建の真言宗豊山派の寺 寿老人の観蔵寺(写真下左右)です。

 

 金町公園に向かって歩きます。途中にいくつかの寺がありますが、七福神ではありません。金町公園を過ぎて、正面は京成金町線と金町浄水場前で右にあるのが真言宗豊山派の寺 布袋尊の良観寺(写真下左)です。創建は不祥ですが江戸時代初期とのことです。写真下右の“お願い布袋尊”は「大きなお腹に両手を当て、自分の達成したいことを一心に念じ、時計回りに3度お腹を撫でると新しい力がもらえる」と説明がありました。寅次郎「こんなお腹にならないように」とお願いをして説明板を読み直すと「強い力を授かった後は自分の強い意志での努力です」と書かれていました。

 

 柴又街道に出て、京成金町線柴又駅へ。駅前には寅さんと妹さくらの銅像があります。映画「男はつらいよ」は1969年(昭和44年)第一作、2019年(令和元年)50周年記念の特別編 第50作が作られた長く愛される名作映画です。
 1996年(平成8年)寅さん役の渥美清さんが亡くなり、1999年(平成11年)寅さん像(柴又から旅に出る寅さんが見送りの妹さくらの方を振り返る姿)が設置されました。いつまでも一人ではかわいそうだと2017年(平成29年)見送る妹さくら像が加わりました。久しぶりに訪れた駅前広場は建物がせり出て、少し狭くなっていました。

 

 帝釈天参道(写真下左)から806年(大同元年)創建の真言宗豊山派の寺 弁財天の真勝院(写真下右)へ向かいます。柴又界隈では最も古い寺です。

 

 山門を入ると右側に「五智如来の石像」(写真下左)があります。五智とは大日如来の五つの智のことで、正面が本堂(写真下右)です。

 

 帝釈天参道に戻り、仲見世通りを歩きます。写真下右は映画「男はつらいよ」で寅さんの実家になった団子屋さんです。お団子が好きな方はここで柴又名物 草団子をどうぞ。「男はつらいよ」ロケの写真が壁に貼られています。

 

 仲見世通りの正面は1629年(寛永6年)創建の日蓮宗の寺 毘沙門天の帝釈天 題経寺です。二天門(写真下左)と帝釈堂(写真下右)で、お正月や庚申の日は大賑わいです。境内は寅さんの幼少時代の遊び場でした。

 

 境内には「男はつらいよ」の歌の口上で寅さんが産湯を使った御神水(写真下左)、帝釈堂内には彫刻ギャラリー(写真下右)があります。

 

 詳しくはIVV−JAPANのHP 国内のリンク(リンク集)にある湘南ふじさわウオーキング協会のHPひろばの寅さん歩53 健康ご利益めぐりー15 葛飾区と寅さん歩130 東京にこんなところー4(帝釈天彫刻ギャラリー)をご覧ください。
 最後の七福神は福禄寿の萬福寺(写真下左右)です。この地から人骨が多数出て地元の人々の要望で1928年(昭和3年)に建てられた曹洞宗の寺です。

 

 寅さん記念館(写真下左右)は寅さんのファンには必見の場所です。
 開館時間は9時〜17時。休館日は第3火曜日(休日の場合は直後の平日)、12月第3火・水・木曜日)。入園料は大人500円、65歳以上400円、小・中学生300円です。

 

 いろいろな姿の寅さんと会えます。

 

 館内には山田洋次ミュージアム(写真下左右)も併設されています。

 

 寅さん記念館の裏は江戸川の土手です。写真下左は柴又公園で左奥は“矢切の渡し”があります。寅さんは矢切の渡しを舟で柴又に帰ってきますので、向こうから寅さんが歩いてくるような気分でした。

 

 コースは写真下右の北総鉄道のガード(写真下右)をくぐり、江戸川土手を南下します。北総鉄道は江戸川を渡り(写真下左)千葉県市川方面へ行きます。

 

 江戸川河川敷にある小岩菖蒲園です。今年は“ひょう”の被害を受けたとのことです。係の人が傷んだ花をつんでいました。


 

 土手から下りて左折、京成線江戸川駅前を進みます。右側に伊予田村の鎮守の北野神社(写真下左)、左側に御番所町跡の説明板(写真下右の左角)があります。佐倉道(左折する道)と元佐倉道(右へ直進する旧千葉街道)が合流する要衝に江戸幕府は小岩関所を設置、小岩と対岸の市川を結ぶ渡しを取り締まりました。

 

 コースは蔵前通り(写真下左)を横断、千葉街道、柴又街道を直進して小岩郵便局先を右折、V字の道の左側の道を道なりに進み、左折するとゴールです。

 

 1933年(昭和8年)に始まったという柴又七福神巡りや江戸川区・葛飾区の史跡や名所、そして街道を学んだYRでした。次回は残った西コース(親水公園巡り)歩きます。


 

平野寅次郎 拝






 

 東京・隅田川以東の唯一のウォーキング ステーションの江戸川区小岩のDBW 東京・江戸川のYRの東コース(江戸川周遊コース)、南コース(新中川健康の道)、北コース(柴又七福神巡り)を歩いた寅次郎、残った西コース(14km)を歩くつもりで出かけましたが、6月から新コース(10km)が開設されたと聞きました。本日の雨予報の天候も考えて今回は短い新コースを選びました。このように自由にコースを変えることが出来るのもYRの良いところです。

『[新中川北コース(葛西城址コース)] 10km』
ステーション:DBW東京・江戸川 住所:江戸川区南小岩7-38-11 最寄駅:JR総武線 小岩駅南口

 

 DBW東京・江戸川はウォーキングの大先輩 中野貞三さんが個人で運営しているウォーキング ステーション(写真下左)です。YR実施日は月・水・金(含む祝日)、第1〜第3土曜日・日曜日です。受付は午前9時〜午後2時ですが、早朝・休日の受付専用ボックスで受付を済ませてスタートできます。コースの歩き方は地図に細かく記載されています。
 まずは新中川に架かる上一色橋(写真下右)を目指しました。

 

 新中川の右側の土手を北へ進みますが、土手の護岸耐震工事を行っているため、一部区間は土手の下の道を迂回します。1938年(昭和13年)は、曲がりくねって流れる中川の所々で堤防が壊れ、多くの家が水浸しになりました。そこで、大雨などで中川の水があふれないように中川放水路(現在の新中川)がつくられました。工事は戦争で一時中断しましたが、1963年(昭和38年)に完成しました。東日本大震災を踏まえ、将来にわたり最大級の地震発生した場合の浸水被害を防ぐことのできる堤防づくりを進めるため、東京都は度護岸の耐震工事を行っていますとのお知らせ板がありました。
 土手の下を歩くことで、新しい発見もあります。写真下左右は天祖神社で説明板には「旧上一色村の鎮守で元は神明社と称していました。創建年代は不詳ですが、この神社では昔、盛大な裸祭りが行われていました。江戸に疫病が流行した時に、病気退散のため始めたといわれています」と記載。

 

 葛飾区に入ります。土手に戻り、新中川を左に見ながら土手を進みます。写真下左は上一色橋で蔵前橋通りを横断します。写真下右は奥戸新橋で奥戸街道を横断します。

 

 時には河川敷に降りて橋の下をくぐり、また土手に戻ります(写真下左)。左側に中川との分岐点(写真下右)が見えてきます。手前が新中川、右が中川です。

 

 高砂橋(写真下左右)を左折して渡ります。右折すれば京成高砂駅方面です。



 

 渡り切った所の信号を右折して中川の左側を歩きます(写真下左)。前方の鉄橋は京成本線です。しばらく行き前方左の慈恵医大葛飾医療センターの手前を下ります(写真下右)。

 

 環七通りに突き当たり右折すると葛西城址です。右環七通りを挟んで右側が葛西城址公園で左が御殿山公園です。葛西城跡は環七通りによって分断されています。写真下左右は御殿山公園です。葛西城址公園には遊具がありました。

 

 説明板によると「葛西城は、中川の沖積微高地上に築かれた平城である。沖積地に存在しているため、地表で確認できる遺構は認められない。築城者と築城の年代は不明だが、1538年(天文7年)2月には小田原城主 北条氏綱によって葛西城が落城されたという記録があり、この後、葛西城は北条氏の一支城となり、幾多の争乱の舞台となった北条の滅亡後、葛西城は徳川氏の支配下に入り、葛西城の跡は、将軍の鷹狩りの際の休憩・宿舎(青戸御殿)として利用されていた。この葛西城が再び注目されるようになったのは、1972年(昭和47年)環七通り建設に伴う発掘調査で、その結果、主郭を区画している大規模な堀、溝、井戸跡等が検出され、陶磁器、木製品等が出土し、中世の城郭の存在が明らかになった。戦国の騒乱を語る上で欠かすことのできない城郭である」と記載。1998年(平成10年)東京都指定史跡に指定。
 コースは環七通りを戻り青砥橋(写真下左)を渡り折り返します。写真下右は青砥橋から見た中川と新中川の分岐点で右へ新中川が流れます。

 

 青砥橋(写真下左)を右の階段で下りて中川沿いに行くと中川放水路通水記念公園(写真下右)があります。

 

 写真下は中川放水路通水記念碑、写真下右は公園から見る中川・新中川です。

 

 帰り道は新中川の右側を歩きます。違った角度からの橋を楽しみます。

 

 上一色中橋(写真下左)に戻り、土手沿いに歩き辰巳新橋(写真下右)との中間の三叉路を左折するとゴールです。

 

 葛西城址は昔の面影が少ないのが残念ですが、新中川誕生について学べたYRコースでした。


 

平野寅次郎 拝






 

 東京・隅田川以東の唯一のウォーキング ステーションの江戸川区小岩のDBW 東京・江戸川のYR東コース(江戸川周遊コース)、南コース(新中川健康の道)、北コース(柴又七福神巡り)、新中川北コース(葛西城址コース)を歩いた寅次郎、更なるDB(ダイナミック ボディー)を目指して、残った西コース(親水公園巡り)を歩きました。

『[西コース(親水公園巡り)] 14km』
ステーション:DBW東京・江戸川 住所:江戸川区南小岩7-38-11 最寄駅:JR総武線 小岩駅南口

 

 今回もJR小岩駅改札前で地元出身の第44代横綱 栃錦のお出迎え(写真下左)、人がいてなかなか写真が撮れませんでしたが、今回は大成功でした。
 DBW東京・江戸川はウォーキングの大先輩 中野貞三さんが個人で運営しているウォーキング ステーション(写真下右)です。YR実施日は月・水・金(含む祝日)、第1〜第3土曜日・日曜日です。受付は午前9時〜午後2時 ですが、早朝・休日の受付専用ボックスで受付を済ませてスタートできます。
 コースの歩き方は地図に細かく記載されています。

 

 まずは新中川に架かる辰巳新橋(写真下左右)を目指してスタートです。

 

 辰巳新橋は新中川開削工事に伴い、1951年(昭和31年)架橋。現在の橋は1993年(平成5年)架け替えられています。橋の上から見た総武線鉄橋のある新中川上流(写真下右)と小岩大橋方面の新中川下流(写真下右)です。

 

 辰巳新橋を渡り、環状七号線をくぐり、道なりに進むと「小松川境川親水公園」入口(写真下左右)に到着です。小松川は上小松村(現在の新小岩付近)から流出した自然河川で東小松村と西小松川村の境を流れていたので「小松川境川」と呼ばれました。江戸時代には農業用水はもとより肥料(肥船)や農作物を江戸に運ぶ海運の役割を果たしていました。戦後、流域の都市化に伴い家庭排水が流れ込み水質が悪化、その後の下水道の整備で不用になった水路に江戸川区は清流を再生させた親水公園を誕生させました。小松川境川親水公園は古川親水公園に次いで1982年(昭和57年)に造られた水に親しむことを主目的とした約4kmの江戸川区の健康の道です。

 

 また桜の名所で桜の時期には水路の上にかぶさった桜の木の枝(写真下左)が楽しみです。写真下右のような光景が続き、歩く疲れが癒されます。



 

 石のオブジェ(写真下左)や水に親しんだ後のシャワーも独特のもの(写真下右)です。上からシャワー3本、中間に水道蛇口が数本ありました。

 

 途中には江戸川区総合文化センター(写真下左)があります。親水公園の「水と庭園ゾーン」に隣接した文化・芸術施設で1963年(昭和53年)歌舞伎のこけら落としで開館しました。写真下右は文化センター前の水路です。

 

 親水公園はいったん八蔵橋交差点(写真下左)で外に出ます。ショートコース7kmは左折して14号線(千葉街道)を経てゴールします。ロングコースは右折して再び小松川境川親水公園(写真下右)に入ります。水路は道路の下を流れていました。

 

 右側は「グリーンパレス」(区民センター)(写真下左)です。寅次郎、3Fの郷土資料館を訪れたことがあります。リンク出来る湘南ふじさわWAのHP ひろば 寅さん歩356 東京の博物館めぐりー43 江戸川区―1をご覧ください。

 

 写真上右はグリーンセンター先の広場です。水路の左側上の道に「水神様」(写真下左)が祀られてあり、寅次郎、お参りしました。

 

 水鳥もゆったりと楽しんでいました(写真上右・写真下左)。水路は首都高速の下(写真下右)をくぐります。

 

 水路の右側に「仲台院」(写真下左右)があります。室町時代に開山の浄土宗の寺院です。ここは江戸時代に8代将軍徳川吉宗の鷹狩りの際、たびたびお膳所として使われ、ここでの食の際、吉宗は出された青菜の名を問い、まだ名がないと知ると地元で採れた青菜として「小松菜」と命名したと伝えられています。門扉には徳川の葵の御紋がついていました。

 

 写真下左はこの辺りのシャワーで前のものと材質は違いますが上からシャワー、中間は水道蛇口の構成で背の高さに分けて3基ありました。小松川境川親水公園は中川の土手で終点です。写真下は終点から来た道を振り返りました。

 

 左へ行くと「善照寺」(写真下左右)で室町時代開山の真言宗豊山派の寺院です。1699年(元禄12年)初代横綱 明石志賀之助の引退相撲が行われ、これがきっかけで以後、草相撲が行われたことから「相撲寺」と呼ばれたそうです。
 寺の境内には山門脇の扉から入れました。

 

 更に進み船橋街道を渡ると、「一之江境川親水公園」の途中に到着です。
 一之江境川は東一之江村と西一之江村との境を流れることで名が付き、用水又は海運として利用されましたが、小松川境川と同様に水質悪化で役割を終え 住宅街の近くを流れ、魚や水生生物が住む清流として順次開園し、1996年(平成8年)一之江境川親水公園が完成しています。写真下右は今井街道前で水路は下を流れています。

 

 写真上右の入口の下に「清流よ 永遠なれ」の碑(写真下左)がありました。

 

 右脇には「八幡宮」がありました。江戸時代後期に一之江境川のほとりに祀られた村の「八幡さま」で小さな祠を1974年(昭和49年)地元の人々により境内が整備されたとのことです。

 

 見事な柳の木(写真下)や住居が迫っている一之江境川親水公園は小松川境川親水公園と趣が違いました。木々ではセミの大合唱でした。

 

 左側に「一之江抹香亭」(いちのえ まっこうてい)(写真下左右)がありました。抹香屋 田澤家は東一之江の旧家で江戸時代から抹香屋の屋号で抹香づくりをしていました。

 

 写真下左は庭にある「抹香屋のタブ」でタブの葉を抹香の原料にしていました。樹齢750年と記載されていましたが、いつ立てた表札かは不明でした。外に出ると左側に「水神宮」(写真下右)がありました。

 

 前は環状七号線、上は首都高速道路で、交差点には一之江境川親水公園の案内(写真下右)がありました。

 

 交差点を渡り首都高速道路の北側に沿って歩いて、新中川の新椿橋(写真下左右)を渡ります。朝、渡った新中川を見ると懐かしい気分でした。

 

 もうすぐゴールかと思いましたが、まだまだでした。京葉道路と柴又街道の交差点(写真下左右)を左折、柴又街道をひたすら北上します。水路も緑もなく、今まで歩いてきた道とは異なった環境でした。

 

 千葉街道との交差点(写真下左右)を左折すると、小岩郵便局が見えてきてゴールはもうすぐです。

 

 江戸川区の二つの親水公園をつなぐ水と緑のYRコースです。特に小松川境川親水公園はたっぷり歩いた感がありました。コース上には水路以外の見所があり、単調にならずに歩けるYRコースです。コース案内には次のポイントが記載されてありますが、すぐに出てこないので不安な気持ちになりますが、コース案内を信じて歩くことの大切さを学びました。これにてDBWのYRの5コースを完歩しました。
 親水公園内にある案内板が古くなり、読めない状態があったのが残念でした。


 

平野寅次郎 拝






 

 HPのウォーキング ステーション(全国一覧表)を見ていたら、ゴールが神楽坂の第三玉の湯という面白そうな東京都のYRコースがあり、歩きました。

『[第三玉の湯連絡コース] 6km』
ステーション:さんぽみち総合研究所 住所:文京区向丘1-13-1 KRDビル1階 最寄駅:東京メトロ南北線 東大前駅2番出口

 

 写真下左はさんぽみち総合研究所が入居しているKRDビルです。ゴールが第三玉の湯なので受付表記入だけてスタートします。地図の他に丁寧に書かれたコース説明があり、道に迷う心配はありません。最初の訪問地は「白山神社」(写真下右)です。945年(天歴2年)加賀国白山比盗_社から勧請、現在の文京区本郷一丁目に創建。二代将軍徳川秀忠の命で現在の小石川植物園に移りましたが、1665年(明暦元年)その地に館林藩主 徳川綱吉(後の五代将軍)の屋敷を建てるため、現在地に移されました。綱吉とその母桂昌院の崇敬を受け、以降、徳川将軍家から信仰されました。歯の神様でもあります。

 

 写真下は社殿、境内のあじさいは有名で文京区の三大祭「文京あじさい祭」が開催されます。写真下右はあじさい祭の会場で社殿の右後ろにあります。

 

 白山神社やあじさい祭については、このHPからリンクできる湘南ふじさわウオーキング協会(FWA)のHPひろば「寅さん歩49 健康ご利益めぐり文京区―2 、寅さん歩96 江戸・東京の祭―25をご覧ください。
 「白山通り」の左側を進み、コナカ前にある「樋口一葉終焉の地の碑」(写真下左)を見て、次の信号を右折、前の「柳町仲通り」(写真下右)を進みます。樋口一葉終焉の碑は地図には記載されていませんので、ご注意ください。

 

 次の訪問地は「源覚寺のこんにゃく閻魔」(写真下左)です。1624年(寛永元年)創建の浄土宗の寺院で、鎌倉時代運慶派の仏師の作と推定の閻魔像は右側の眼が濁っています。これは眼病を患った信心深い老婆に与えたとの伝説があります。老婆は感謝のしるしとして好物のこんにゃくを供え続けたそうです。現在でも閻魔様の前はこんにゃくの山です。1月と7月の例大祭にはこんにゃくが振舞われます。写真下右は隣にある地蔵像の身体に塩をなすり、身体祈願をする「塩地蔵」です。歯やイボ取りにご利益があるとのことです。

 

 「春日通り」と交差する「富坂下交差点」の角に写真下左の文京シビックセンター(文京区役所)、写真下右は正面に見える東京ドーム(ビックエッグ)です。東京ドームの前は東京メトロ丸ノ内線 後楽園駅です。YRコースは富坂下交差点を渡り、右折して「富坂」を上ります。坂の途中の左側は中央大学理工学部があり、時間帯によっては大勢の学生達と一緒に歩きます。



 

 冨坂(写真下左)は「平野寅次郎のYR散歩No26 文京の坂113 小石川ブロックー1」をご覧ください。次の訪問地の「牛天神北野神社」は案内表示(写真下右)があり左折します。

 

 写真下左は牛天神北野神社の社殿です。縁起によると源頼朝東征の折、当地の石に腰掛け休憩していた時に、夢の中に牛に乗った菅原道真が現れて、二つの夢が叶えられるとのお告げがありました。翌年、長男頼家の誕生・平家を西国に追うことが出来たので、源頼朝は社殿を祀ったとのことです。写真下右は源頼朝が腰かけたといわれる石です。

 

 社殿隣の「太田神社」(写真下左)が気に入りました。説明板によると芸能の神・福の神ですが、もともとは貧乏神が祀られていました。
 江戸の頃、この近くに住む貧乏旗本の窮状を救ってからは福の神として庶民の信仰を集めるようになったとの伝説が残っています。合祀の高木神社は五穀豊穣の神 第六社が近くの小日向一丁目から道路拡張に伴い、移ってきたものとのこと。参拝後は社殿左の階段を下ります。YRコースは神社裏から入りましたが、こちらからが本来の参道です。

 

 次の訪問地は「小石川後楽園」です。1629年(寛永6年)水戸徳川家の祖である徳川頼房が、その中屋敷(後の上屋敷)として造ったもので、二代藩主の水戸光圀(水戸の黄門様)の代に完成した庭園です。回遊式築山泉水庭園は国の特別史跡・特別名勝になっています。写真下左は西門です。梅・ハナショウブ・桜・紅葉など四季の花が楽しめます。寅次郎は紅葉(写真下右)がお気に入りです。「平野寅次郎YR散歩No6 小石川後楽園」をご覧ください。

 

 入園料は一般300円、65歳以上150円、小学生以下及び都内在住・在学の中学生は無料です。開園時間は9時〜17時、休館日は年末年始(12月29日〜1月 1日)です。今回は入園せずに小石川後楽園沿いの「後楽緑道」(写真下左)を歩きます。途中には「小石川後楽園展示場」(写真下右)があり、無料で小石川後楽園の資料が見られました 。

 

 後楽緑道の出口(写真下左)には東門(写真下右)があります。閉門中でしたので、開門されたのを見るのは初めてです。後楽緑道の通行は7時〜20時、おすすめの散歩道です。

 

 「外堀通り」に出て、神田川に架かる「小石川橋」(写真下左)を渡ります。写真下右は小石川川橋から飯田橋方面を見ました。

 

 「飯田橋駅東口交差点」で「目白通り」を渡り、次の訪問地「牛込見附跡」(写真下左右)に向かいます。牛込見附は江戸城外郭門のひとつで田安門を起点とする上州道の出入口の交通拠点でした。外堀が完成した1636年(寛永13年)阿波徳島藩主 蜂須賀忠英(松平阿波守)により石垣が建築されました。 石垣の大部分は1903年(明治35年)に撤去されています。残された石垣は江戸城外堀跡の見附の中でも最もよく、当時の面影を残しているそうです。右側はJR飯田橋駅西口です。

 

 「神楽坂通り」を下り、「神楽坂下交差点」で「外堀通り」を横断して、「神楽坂」を上ります。坂の名の由来はここで神楽を奏したとか、神楽が聞こえて来たとか、神楽に因んだ諸説があります。坂のすぐ右側に「不二家」があり、「ペコちゃん焼」日本でここだけ!のうたい文句につられてミルキークリーム(210円)と東京蜂蜜バターあん(290円)をお土産に買った寅次郎でした。
 1969年(昭和44年)販売開始の名菓で、家では温めると、よりおいしくいただけます。

 

 次の訪問地は坂の上にある「善國寺」(写真下左)です。善國寺は1595年(文禄4年)創建の日蓮宗の寺院で「神楽坂の毘沙門様」と慕われました。毘沙門天は多聞天と称し、四天王のひとつで寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に世に現れる北方の守護神とのこと。本堂左右には狛犬に代わり「虎石像」(写真下右)です。寅次郎、お賽銭をはずまなかったことを反省しました。

 

 「神楽坂下交差点」を渡り、右角の安養寺前を下ると、ゴールの第三玉の湯(写真下左)到着です。営業時間の15時30分前の到着でしたので、写真下右は以前に訪問した時のものです。「平野寅次郎YR散歩 No11 第三玉の湯コース」をご覧ください。

 

 今回のYRコースの大部分は以前に歩きましたが、寺社・史跡・交差する幹線道路などゆっくりと見直しが出来、また多くの健康ご利益もいただきました。
 何回も歩き直すことが出来るYRの良さがよく分かりました。


 

平野寅次郎 拝






 

 東京都北区赤羽の「靴のマルノ」のYRコースを歩きました。

『[水辺の道コース] 10km』
ステーション:靴のマルノ 住所:北区赤羽2-4-10 最寄駅:JR埼京線 赤羽駅北改札口 東口

 

 東口から赤羽東本通りを渡り、赤羽スズラン通り商店街の「靴のマルノ」(写真下左)からスタート、地図最初のポイントの「西蓮寺」を目指します。岩淵中学校交差点を直進、次の分岐で左の志茂平和通りから北本通りに出て、横断して進むと、電柱に西蓮寺の案内表示がありました。最初に見つけた建物(写真下右)は西蓮寺の「志茂福聚観音堂」でした。

 

 西蓮寺はその左奥にありました。写真下左が山門、写真下右が本堂です。

 

 西蓮寺は鎌倉時代の弘安年間(1218〜1288年)創建の真言宗のお寺です。ご本尊の木像阿弥陀如来坐像や板碑(石で作られた供養塔)は北区の有形文化財との説明板がありました。
 次のポイント「熊野神社」は西蓮寺を開山した淳慶が鎌倉時代末期の1312年(正和元年)に熊野三社権現の分霊を招き創建、西蓮寺が別当寺になったとのことです。写真下は熊野神社入口、写真下右は本殿です。毎年2月には総代ら射手が鬼という字の的を射る行事があり、歩射の後、参拝者に白酒(今は甘酒)が振舞われる白酒祭が行われるそうです。

 

 新河岸川の「新志茂橋」(写真下左)を渡ると右手に見える建物が「荒川知水資料館」です。新志茂橋の名の由来は1980年(昭和55年)の竣工ですが、耐震工事後の新しい橋名を公募、2013年(平成25年)小学4年生の作品の新志茂橋(新河岸川の「新」と新しいという意味を込めて)に決定したとの案内板が橋中央部(写真下右)にありました。

 

 荒川知水資料館(写真下左)はリンクできる湘南ふじさわWAのHPひろば寅さん歩161 東京にこんなところ−13及び寅さん歩349 東京の博物館―36 北区―2をご覧ください。写真下右は「旧岩淵水門」(赤水門)の説明板です。
 手前の川が新河岸川、上が荒川、右下が隅田川です。
 昔、荒川下流部は現在の隅田川の部分を流れていて川幅も狭く、堤防も低かったので、たびたび洪水被害を受けていました。そのため1910年〜1930年(明治44年〜昭和5年)にかけて新しく河口までの約22kmの区間に人工的に掘られた川(放水路)を造り、洪水をこの幅の広い放水路(現在の荒川)から流すことにしました。



 

 現在の荒川と隅田川の分かれる部分に1916年〜1924年(大正5年〜大正13年)に造られたのが、写真下左の旧岩淵水門(赤水門)です。その後の老朽化などで1975年(昭和50年)旧岩淵水門の下流(隅田川の入口)に写真下右の新しい水門(青水門)の工事が進められ、1982年(昭和57年)に旧岩淵水門の役割は引き継がれました。

 

 荒川沿いを歩きます。上の土手は桜並木(写真下左)です。「岩淵橋」(写真下右)で新河岸川を渡ります。

 

 岩淵橋の正面が「八雲神社」です。写真下左が入口、写真下右が本殿です。八雲神社は1796年(寛政8年)創建で江戸時代に徳川将軍が日光東照宮に参詣する際に利用した日光御成道の第一の宿場として栄えた岩淵宿の鎮守社でした。

 

 八雲神社の前の道を進み、「小山酒造」跡地を過ぎて「新荒川大橋」に出ます。
 新荒川大橋(写真下左)は新河岸川と荒川に架かる橋です。新河岸川の土手は「赤羽桜堤緑地」(写真下右)で桜の時期にもう一度訪れたい場所です。
 荒川は東京都と埼玉県の境です。YRコースは新河岸川沿いを歩きます。

 

 「岩淵の渡船場跡」の案内板がありました。岩淵宿から荒川を渡り、川口宿に向かうための渡船場です。江戸時代は川口宿の飛び地であったことから「川口の渡し」とも呼ばれたそうです。奥州から兄頼朝の挙兵に参陣した義経もここを渡ったといわれています。日光に参詣の将軍用には専用の船場があったそうです。明治以降も利用され1928年(昭和3年)やや下流に新荒川大橋が開通してその役割を終えました。写真下右のJRの鉄橋をくぐり進みます。
 JRは京浜東北線、東北本線(宇都宮線)高崎線が通っています。
 写真下左は岩淵の渡船場跡の案内板があった場所から新荒川大橋方面を望みました。

 

 「中の橋」(写真下左右)で新河岸川を渡り、水辺歩きは終りです。

 

 星美学園の下の道から「諏訪神社」に向かいます。写真下左は諏訪神社入口、写真下右は本殿です。室町時代の1396年(応永8年)創建で諏訪大社から勧請とのことです。

 

 ここからは道路の右側を歩き、パークブリッジの下をくぐると、すぐ右側が「赤羽緑道公園」入口(写真下左)です。途中で車の通る道を横断する長い緑道ウォークです。写真下右は紅葉(左)と桜(右)の下を歩きました。四季を通して楽しめる緑道です。

 

 赤羽緑道公園の終点は「赤羽自然観察公園」(写真下左)の北門(写真下右)です。赤羽自然観察公園は自然の回復・自然のふれあい・防災機能の向上を整備テーマとして北区固有の種から郷土の自然を育て、災害時の飲み水確保の井戸保有、区民の植林の雑木林などです。

 

 ふるさと農家体験館(写真下左)から東門へ向かいました。

 

 東門を出て左折、西が丘方面に向かいます。右側一帯(写真下左)が独立行政法人日本スポーツ推進センター「ハイ パフォーマンス スポーツセンター」(HPSC)(写真下右)です。赤羽駅からバスも出ていますが、最寄り駅は都営地下鉄三田線 本蓮沼駅です。

 

 写真下左は「国立スポーツ科学センター」、写真下右は「味の素フィールド西が丘」(サッカー場)です。

 

 「味の素ナショナルトレーニングセンター」(写真下左右)の交差点を左折して、YRコースは赤羽駅方面に戻ります。

 

 写真下左は次の左折ポイント(治療院の看板)、写真下右は赤羽台西小学校下の道から亀ケ池辨財天方面に降りる右への坂入口です。ここを間違えるとYRコースを外れてしまいます。コースを間違ったと思ったら元に戻って確認することが最大の対応です。

 

 最後のポイントは「亀ケ池辨財天」(写真下左右)です。地元商店街の弁天講の要望で近くの静勝寺の辨財天を勧請したとのことです。

 

 赤羽駅を抜けてYRステーションの靴のマルノ店に戻り、ゴールです。
 毎回の反省ですが、曲がるポイントは地図をしっかり見て、地図を信じて進むことがYRの基本です。眼も衰えてきた私は地図をよく見るために拡大鏡を持って歩いています。
 新河岸川・荒川の水辺の道や緑道を堪能、赤羽の古い寺社を勉強、アスリートを育てるスポーツ科学センター・トレーニングセンター・西が丘サッカー場の場所を知ることができたYRコースでした。
 赤羽には毎年4月1日に「赤羽馬鹿祭」があると聞いて、一度見ようと訪れたことがあります。映画「男はつらいよ」では叔父のおいちゃんが寅さんの言動を見て「寅 ばかだな〜」が口癖でしたので・・
 リンクのできる湘南ふじさわWAのHPひろば寅さん歩121 江戸・東京の祭ー47(江戸らしい祭りー21)をご覧ください。


 

平野寅次郎 拝






 

 「麻布十番」や「神楽坂」の銭湯YRコースを歩き、YR後の銭湯にすっかりはまった寅次郎、今回は北区志茂のテルメ末広のYRコースです。

『テルメ末広 A 荒川コース 10km』
ステーション:テルメ末広 住所:北区志茂5−16−14 最寄駅:東京メトロ南北線 志茂駅(2番出口)

 

 志茂駅から約7分ですが、寅次郎は行き慣れた赤羽駅東口から約15分歩いて到着(写真下左)です。入口にはウオーキングステーションの看板(写真下右)があります。「テルメ」とはイタリア語で「温泉」とのことです。

 

 ステーションを出て、左へ進むと突き当り右に「熊野神社」があります。 熊野神社は1312年(正和元年)熊野三社権現(現在の熊野三山)より勧請した下村(現在の志茂)の鎮守です。左折し「志茂子ども交流館」(写真下右)沿いを進みます 。

 

 「新河岸川」にかかる「新志茂橋」(写真下左)を渡ります。耐震工事後の橋名を公募、2013年(平成25年)8月、小学4年生の作品「新志茂橋」と命名されました。新河岸川の「新」と新しい「新」という意味とのことです。

 

 橋を渡ると右に「荒川知水資料館」があります。詳細はこのHPからリンクできる「湘南ふじさわWA」のHP 寅さん歩161 東京に こんなところー13及び寅さん歩349 東京の博物館めぐりー36 北区―2をご覧ください。

 

 土手に上がると旧岩淵水門(赤水門)が見えます。荒川の洪水が墨田川に流下する水量を調節するなどの目的で1924年(大正13年)に完成しました。
 写真下右は荒川から墨田川への流れです。右先には老朽化した旧岩淵水門に代わり、1982年(昭和57年)岩淵水門(青水門)が完成しています。



 

 写真下の岩淵水門(青水門)の脇を通って、土手を歩きます。

 

 土手の左側は荒川の河川敷で都民ゴルフ場(写真下左)、右側は隅田川(写真下右)で東京スカイツリーが見えます。

 

 前方の「鹿浜橋」の横断は手前で河川敷に下りて(写真下左)、橋をくぐります。又土手に上がり、少し先の階段(写真下右)を下り「新田(しんでん)三丁目公園」に出ます。

 

 新田三丁目公園の先2本目を右折し、墨田川にかかる「新田橋」(写真下左)を渡ります。写真下右は橋の上から東京スカイツリー方面を眺めました。

 

 突き当たりの広い道(紀州通り)を左折すると、左に「紀州神社」があります。鎌倉時代後期に紀州和歌山の伊大木曽神社を勧請したのが始まりで、水の神様として知られています。写真下右は神社を横から眺めました。

 

 前の紀州通りを横断、「豊島中央商店街」(写真下左)を進みます。突き当たりの「豊川小学校」を左折します。

 

 「善光寺」(写真下左)を左に見て進みます。善光寺は長野出身の倉島大音が大病を患い、「治れば出家する」と長野の善光寺に願をかけ、病は治癒して出家、1928年(昭和3年)開山の浄土宗の寺院で、「北区の善光寺」と呼ばれています。
 都道455号線に出ます。右にある細長い「豊島公園」(写真下右)に沿い進み、都道455号線の王子3丁目交差点に向かいます。

 

 北本通り(都道122号線)と交差する王子三丁目交差点の尾長橋歩道橋を上がり、右に(写真下右)下ります。

 

 写真上の経路案内標識にはありませんが、右斜めに入る道(写真下左で開運延命地蔵尊の案内板あり)を進むと、左側に「開運延命地蔵尊」(写真下右)がありました。由来の説明板はかすれていて読みにくかったのですが、「ここは先の王子五丁目にあった王子製紙十条工場に物資を運ぶ道で交通事故が多かったので地元の方々が地蔵尊を建て、交通安全と町の?栄を祈願した」とのことです。

 

 王子五丁目「王子五団地」(王子製紙十条工場跡地)内の道(写真下左右)を進みます。

 

 スーパー「サミット」の前を右折、次の道を左折すると「東十条銀座」(写真下左)です。商店街を進み、東十条三丁目交差点を右折、環七通りを横断し右折、神谷歩道橋の先(写真下右)を左折します。

 

 右側に「柏木神社」(写真下左右)があります。元亨年間(1321年〜1324年)創建の神谷村の鎮守です。元々は荒川(現在の隅田川)の川岸の高台にあり、川を行き交う船の休憩所になっていたそうです。毎年正月には船に向かって餅を投げるので「餅投げ神社」と呼ばれました。

 

 現在地には1943年(昭和18年)に移転しています。
 「北運動公園」手前の神谷三丁目交差点(写真下左)を左折、稲田小交差点を右折、赤羽岩淵中前交差点(写真下右)を右折して進みます。左折するとLaLaガーデン(商店街)で赤羽駅東口に通じています。

 

 次の分岐を左折、志茂平和通り(写真下左)を進むと、北本通り(写真下右)です。

 

 北本通りを横断、写真上右の正面左側の細い道を入り進むと、左側にあるゴールの「テルメ末広」に到着です。テルメ末広の入浴料金は大人(12歳以上)500円(IVV印代込み)です。入浴せずにIVV印のみをもらう場合は200円です。毎月日曜日は特別サービスがあり、寅次郎の訪問時は若返りの天然ハーブ ローズマリーの香りの湯でした。営業開始が14時からとはウォーカーにとってうれしい限りです。荒川土手をランニングするランナーに荷物を預かるサービスもあるそうです。夏の歩いた後、汗を流す銭湯も良いですが、冬の歩いた後、体を温める銭湯も格別でした。 YRのBコースは新河岸川の桜並木が楽しめるコースなので桜の季節に歩く予定です。


 

平野寅次郎 拝






 

 「麻布十番」・「神楽坂」・「赤羽志茂」の銭湯YRコースを歩き、YR後の銭湯にすっかりはまった寅次郎です。今回は「浅草橋」の銭湯YRコースです。

『辨天湯 Aコース 10km』
ステーション:辨天湯 住所:台東区浅草橋1-33-6 浅草橋シティハイツ1階 最寄駅:JR 浅草橋駅/都営浅草線 浅草橋駅

 

 浅草橋駅から「江戸通り」を左へ行き、柳橋二丁目交差点を左折して進むと左側に「辨天湯」の幟と祠(写真下左)がありました。中に入ると辨天湯入口(写真下右)です。YRコースの地図は辨天湯のHPから印刷できます。

 

 辨天湯を出て、左へ進み、突き当たった「清洲橋通り」(写真下左)を右折します。このコースは都心の多くの主要道路を歩き、交差します。表示されている道路名標識・交差点名も楽しんで歩いてください。写真下右は次の鳥越二丁目交差点で交差する「蔵前橋通り」(都道315号線)の道路名標識です。

 

 蔵前橋通りの名は東京都が定めた通称通り名で、道路法上の道路名は都道315号線で、都道は六角形の中に数字が表示されます。この地区での清洲橋通りは区道のため道路法上の表示はありません。
 進むと、右側に「おかず横丁」(写真下左右)があります。ぶらぶら歩けばごはんのおかずを手に入れて帰ることが出来る「鳥越本通り商店街」です。

 

 更に進むと、左側に「佐竹商店街」(写真下左)がありました。明治の初年に秋田藩屋敷跡に出来た日本で二番目に古い商店街です。ちなみに日本で一番目に古いのは戸越銀座商店街とのこと。元浅草一丁目交差点で「春日通り」(都道453号線)と交差、コースは直進します。

 

 次の稲荷町交差点では「浅草通り」(都道463号線)と交差します。



 

 交差点を渡りすぐ左側にある「永昌寺」(写真上右)は「柔道発祥の地」です。
このHPリンク集にある湘南ふじさわWAのHP寅さん歩15 東京発祥之地めぐり(スポーツ編―1)をご覧ください。次の入谷交差点(写真下左)は歩道橋を上がり、昭和通り(国道4号線)の上を横断し、左に下りて、「言問通り」(都道319号線)を進みます。入谷は「入谷朝顔発祥の地」です。歩道橋下には発祥の地の案内(写真下右)がありました。湘南ふじさわWAのHP寅さん歩75江戸・東京の祭―6(江戸らしい祭―1 入谷朝顔祭り)をご覧ください。

 

 言問通りを進むと左側は「恐れ入りました」の洒落言葉「恐れ入谷の鬼子母神」で有名な「入谷鬼子母神」(写真下左)です。性格凶暴なインドの鬼神がお釈迦様に改心させられ、「安産・子育ての神」となりました。次の鶯谷駅前交差点では右折して写真下右の「尾竹橋通り」(都道313号線)を進みます。

 

 すぐ右にある根岸小学校前交差点(写真下左)で左に分岐する「尾久橋通り」(都道58号線)を進みます。写真下右は道路名標識です。尾久橋通りの標識の右が直角なのはここが尾久橋通りの起点を表します。

 

 右側にある「国際理容美容専門学校」の前交差点の斜め左の道(写真下左)を進み、JR日暮里駅に向かい、「日暮里駅北側ブリッジ」を渡ります。ここは日暮里駅東西を結ぶ跨線橋で「トレインミュージアム」です。下はJR京浜東北線、山手線、北へ向かう各新幹線、高崎線、宇都宮線、常磐線と京成線(写真下右)が走り、運が良ければ同時に複数の電車が見られます。

 

 右側にある「経王寺」(写真下左)山門には上野戦争で敗北した彰義隊員が逃げ込んだと新政府軍の攻撃を受けた当時の弾痕(写真下右)が残っています。

 

 下に進むと「夕焼けだんだん」の「谷中銀座」ですが、コースは経王寺前を左折して「朝倉彫塑館(あさくらちょうそかん)」(写真下左)前を通過します。

 

 朝倉彫塑館は昭和の彫刻・彫塑家の朝倉文夫のアトリエ兼住居を改装した美術館です。「谷中霊園」を左に見て進むと、左側に「愛玉子」(オーギョーチィ)(写真上右)」があります。寅次郎も大好きで楊貴妃も食べたと伝わる台湾のゼリー状のスイーツの店です。湘南ふじさわWAのHR寅さん歩37 東京のご利益めぐりー1 台東区―1寄り道 愛玉子をご覧ください。
 次の上野桜木交差点左は「下町風俗資料館付設展示場」で「旧吉田屋酒店」の建物(写真下左)が見学(無料)できます。交差点を直進して東京藝術大学から上野恩賜公園噴水広場へ向かいます。

 

 写真上右は道路の右側にある「東京藝術大学芸術学部正門」、写真下左は道路の左側にある「東京藝術大学音楽学部正門」です。湘南ふじさわWAのHP寅さん歩196 東京の学食めぐり―5 東京藝術大学をご覧ください。
 「上野恩賜公園」に入ると右側に「旧東京音楽学校奉楽堂」(写真下右)があります。1890年(明治23年)竣工の東京藝術大学音楽学部の前身で、日本最初に建てられた本格的な西洋式音楽ホールで改装して現在も使用されています。
 歴史的建物の公開日(有料)もあります。

 

 写真下左は「上野恩賜公園噴水広場」から見た「東京国立博物館」です。湘南ふじさわWAのHP寅さん歩301 東京の博物館めぐりー1台東区―1をご覧ください。

 

 「上野動物園」を右に見て、」桜通りから、「不忍池」にある「弁天堂」に下ります。弁天堂入口には「駅伝発祥の地の碑」(写真上右)がありました。1917年(大正6年)首都遷都50年を記念して開催された大正博覧会会場までの大阪〜上野不忍池の「東海道五十三次徒歩競争の記念碑」です。湘南ふじさわWAのHP寅さん歩15 東京発祥之地めぐり(スポーツ編―1)をご覧ください。

 

 「弁天堂」(写真上左)にお参りをして、入口に戻り、不忍池沿いに左へ回ります。右側には「五条天神社」(写真上右)、「上野東照宮」(写真下左)の鳥居、「上野動物園の東園と西園を結ぶモノレール」(写真上右)の下をくぐります。モノレールは現在運転休止中です。

 

 2021年(令和3年)10月15日で営業を終了した「森鴎外の旧居がある水月ホテル」(写真下左)脇を左折、「不忍通り」(都道437号線)に出て不忍池沿いを歩きます。左側に「鑑真像」(写真下右)を見つけました。2022年(令和4年)7月、日中国交正常化50年を記念して設置されたそうです。

 

 不忍通りは「中央通り」(都道452号線)の上野四丁目交差点(写真下右)が終点です。コースは右折して中央通りを万世橋方面へ向かいます。写真下左は交差点にある経路案内標識です。

 

 上野広小路交差点(写真下右)で「春日通り」(都道453号線)と交差、コースは直進です。

 

 外神田五丁目交差点(写真下右)で「蔵前橋通り」と交差、コースは直進です。

 

 「秋葉原の電気街」を進み、「万世橋」(写真下左)を渡ります。写真下右は下を流れる「神田川」です。万世橋交差点から中央通りは国道17号線となります。

 

 須田町交差点(写真下右)で左折、「靖国通り」(都道302号線)を進みます。

 

 靖国通りは岩本町交差点(写真下右)で「昭和通り」(国道4号線)と交差、コースは直進です。国道は逆おむすび型の中に数字を表示します。

 

 交差点を渡ると左側の空き地に「岩本町馬の水飲み広場」の案内板(写真下左)がありました。案内板には「この場所は江戸時代より房総・東北方面からの物資(米・野菜・魚介類・材木等)輸送のために荷車を引く牛馬の水飲み場、また街道を往来する人々のための休息所として重要な役割を果たしていました」と記載。靖国通りは次の東神田交差点で(写真下右)で「清洲橋通り」と交差します。コースは清洲橋通りを左折します。

 

 清澄橋通りは都道474号線の名が付きました。神田川にかかる美倉橋・総武線ガードをくぐり、ガードから三つ目の信号の交差点(写真下右で電柱には浅草橋4-16の表示)を右折するとゴールの「辨天湯」に到着です。
 辨天湯の入浴料は大人500円(入浴せずにIVVスタンプのみの場合は200円)です。浴槽は二つですが、ジャグジーが身体を癒してくれました。営業時間は15時30分〜、休日は毎月第2・第4月曜日です。

 

 このHPからリンク出来る湘南ふじさわWAのHPには「東京の主要道路起点〜終点」を掲載しています。今回歩いた道路や交差した道路に興味のある方はご覧ください。
 寅さん歩405 江戸通りー2、寅さん歩385 春日通りー2、寅さん歩443 中央通りー2、寅さん歩403 昭和通りー2、寅さん歩403 靖国通りー1、他の道路はこれからの掲載です。


 

平野寅次郎 拝






 

 「麻布十番」・「神楽坂」の銭湯YRコースを歩き、YR後の銭湯にすっかりはまった寅次郎です。前回は浅草橋 辨天湯 Aコースを歩きました。今回はBコースを歩きます。

『辨天湯 Bコース 10km』
ステーション:辨天湯 住所:台東区浅草橋1-33-6 浅草橋シティハイツ1階 最寄駅:JR 浅草橋駅/都営浅草線 浅草橋駅

 

 浅草橋駅から「江戸通り」を左へ行き、柳橋二丁目交差点を左折して進むと左側に「辨天湯」の幟と祠(写真下左)がありました。中に入ると辨天湯入口(写真下右)です。

 

 辨天湯から右へ行き、江戸通りに戻り、柳橋二丁目交差点を左折します。
 ここからは浅草名所(などころ)七福神めぐり・寺社めぐりと隅田川の橋めぐりです。早速左側に「須賀神社」(写真下左右)があります。

 

 600年(推古天皇9年)創建といわれ、江戸時代は「牛頭天王社」や「団子天王社」と呼ばれました。1868年(明治元年)「須賀神社」に改名、疫病退散の幟が目立ちました。
 「蔵前橋通り」の蔵前一丁目交差点を右折すると右側に「蔵前警察署」、左側に「蔵前水の館」(下水道幹線や螺旋案内路の中を下水が流れる様子が見られる施設で写真下左)があります。隣は東京都下水道局です。その先、左に「浅草御蔵跡碑」(写真下右)があります。

 

 説明板には「この地に江戸幕府が全国に散在する直轄地(天領)から年貢米や買いあげた米などを収納・保存した倉庫があり、その米は旗本・御家人の給米用に供されました。浅草御蔵・大阪・京都二条の御蔵と合わせて三御蔵といわれました」と記載。
 蔵前橋手前(写真下左)から「隅田川テラス」に下りて、「蔵前橋」をくぐり(写真下右)「隅田川」沿いを進みます。

 

 隅田川テラスには隅田川周辺の資料が展示されています。次は「厩橋」(写真下左)です。橋名は蔵前の米蔵の荷駄馬用の厩に由来します。「厩の渡し」が花見客の人出での渡し舟事故が絶えず「三途の渡し」と揶揄されたので、最初の橋は民間の手でかけられたそうです。
 次は「駒形橋」(写真下右)です。橋名は西岸の台東区にある「駒形堂」に因みます。駒形堂は「浅草寺」のご本尊が墨田川にご示現され、この地に祀られた「浅草発祥の地」に建つお堂です。



 

 次は「吾妻橋」(写真下左)で橋名は東岸の墨田区の地名がつけられています。
 家康が江戸に入府してかけた当時は「大川橋」と呼ばれました。アサヒビールの金のオブジェは“アサヒビール社員の燃える心”をイメージした「金の炎」でフランス語で「フラムドール」、下の台は「聖火台」とのことです。
 次は「言問橋」(写真下右)です。橋名は在原業平の「名にし負はば いざ言問はむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと」の歌に由来するといわれていますが、業平が歌を詠んだ場所は「白鬚橋」の「橋場の渡し」とのことです。

 

 言問橋から上に上がると「墨田公園」です。桜の名所なので桜ばかり見ていますが、今回は戦争の悲惨さをかみしめ、平和を考えました。写真下左は「戦災により亡くなられた方々の碑」です。この一帯は1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲等により亡くなられた数多くの方々を仮埋葬した場所です。遺体は戦後荼毘に付され「東京都慰霊堂」(墨田区)に納骨されました。写真下右は碑の隣に東京大空襲の時に「猛火に見舞われた言問橋の縁石」が置かれていました。

 

 言問橋西交差点を右折して、「都道314号線」を今戸方面に進みます。左側に「待乳山聖天」(写真下左)があります。595年(推古天皇3年)、地中から湧き出た霊山と伝わります。浅草寺一山支院の一つで宗派は「聖観音宗」、天台宗の流れを汲んでいます。寺院でありながら、本堂正面には「聖天宮」の扁額が掲げられており神仏習合的な信仰が今も生きています。浅草名所七福神の「毘沙門天」です。お供えされた大根を振舞う「大根祭り」はリンク集の湘南ふじさわWAのHP寅さん歩81 東京・江戸の祭12 江戸らしい祭―5をご覧ください。
 その先は「山谷堀公園」(写真下右)です。「山谷堀」と呼ばれた水路でしたが、暗渠化され、上が公園になっています。右は残された橋の親柱です。

 

 その先左は「今戸神社」(写真下左)です。縁結びにあやかり絵馬の形は丸(縁)、浅草名所七福神の「福禄寿」です。「招き猫発祥の地」で社殿前左に写真上右の置物があり、また「今戸焼発祥の地」、「新選組 沖田総司終焉の地」の案内がありました。湘南ふじさわWAのHP寅さん歩11東京の発祥之地めぐり(産業・商業―1)をご覧ください。

 

 その先の橋場交番前交差点を右折して、白鬚橋方面に進みます。左に「橋場不動尊」(写真下左)があります。浅草名所七福神の「布袋尊」です。
 「明治通り」に出ると右が「白鬚橋」です。橋の手前右に「対鴎荘跡」(写真下右)があります。この辺りは風光明媚な地で、明治時代の政治家 三条実美(1837〜91)の別邸 対鴎荘がありました。征韓論を巡って政府内に対立が続き、太政大臣の要職にあった実美は心労のあまり、病に倒れ、この別邸で静養していました。明治天皇も見舞いに訪れています。対鴎荘は1928年(昭和3年)白鬚橋架橋工事に伴い、多摩聖蹟記念館に移築されました。

 

 写真下左は「白鬚橋」です。橋名は東岸の墨田区にある「白鬚神社」に由来しています。隅田川で一番古い「橋場の渡し」があり、平安時代の歌人 在原業平の「言問いの歌」はここで詠んだとの説明板がありました。左前方に「石浜神社」(写真下右)があります。浅草名所七福神の「寿老人」です。

 

 明治通り右脇の東京ガスの千住天然ガス充填所や千住水素ステーションの新しいエネルギー基地を過ぎた後は悲しい話の場所です。写真下左は「泪橋」交差点です。橋名の由来は「小塚原のお仕置き場」に赴く囚人たちが現世を去るにあたり涙を流しながら渡ったからとも、囚人の知人が今世の別れを惜しんで袖を濡らしたからだとも伝わります。この先のJR常磐線 南千住駅脇には「小塚原刑場跡」に建つ「回向院」があります。
 写真下右は三ノ輪二丁目交差点から右の道に入った所にある「投込寺(浄閑寺)」です。浄土宗の寺院で1855年(安政2年)の大地震の際、沢山の新吉原の遊女が、投げ込同然に葬られたことから「投込寺」と呼ばれるようになりました。

 

 境内の墓地に「新吉原総霊塔」(写真下左)が建立されています。遊女の暗く悲しい生涯に思いをはせ、しばしば当寺を訪れていた作家 永井荷風の「荷風詩碑」(写真下右)が総霊塔の前にあります。

 

 「国際通り」を千束方面に進むと、左側角に一葉記念館の案内があり、左折すると「樋口一葉旧居跡の碑」(写真下左)があります。本郷菊坂からここ竜泉に移り住み、この界隈を背景に名作「たけくらべ」を書いたとのことです。その先左に「一葉記念館」(写真下右)があります。湘南ふじさわWAのHP寅さん歩301 東京の博物館めぐりー1 台東区―1をご覧ください。

 

 国際通りに戻り進むと、左側に酉の寺「長国寺」(写真下左)があります。
 隣は浅草 酉乃市御本社「鷲神社」(写真下右)です。酉の市で有名な地、浅草名所七福神「寿老人」です。湘南ふじさわWAのHP 寅さん歩39 江戸・東京の祭―10 江戸らしい祭―3、寅さん歩81 江戸・東京の祭―12 江戸らしい祭―5をご覧ください。

 

 写真下左は社殿、写真下右は「なでおかめ」です。「おでこをなでれば賢くなり、目をなでれば先見の明が効き、手をなでれば食運がつく、向かって右の頬をなでれば恋愛成就、左の頬をなでれば健康に、口をなでれば災いを防ぎ、顎から時計回りになでれば物事が丸く収まる」となで方が掲示されています。
 寅次郎、混雑しない時に来て、いつも全部をなでています。おかげさまで昨年、傘寿が迎えられました。

 

 鷲神社前から右折、左折して金竜小学校方面に進みます。「金竜小学校」(写真下左)の塀には創立110周年の横断幕がありました。浅草金龍山が近くにあるので、当初は“金龍小学校”で戦後、“金竜小学校”に改名しています。
 「言問通り」を渡り、進むと左側の「生涯学習センター」(写真下右)内の台東区中央図書館内に「池波正太郎記念文庫」があります。作家 池波正太郎(1923〜1990)は待乳山聖天の近くで生まれています。湘南ふじさわWAのHP寅さん歩305 東京の博物館めぐりー3 台東区―3をご覧ください。

 

 「かっぱ橋道具街通り」を進みます。朝早いので”食”の専門店が集まる各店はまだ眠っていましたが,合羽橋交差点右側にある「かっぱ河太郎像」(写真下左)と「浅草通り」と交差する菊屋橋交差点右角にあるかっぱ橋道具街のランドマークの「コック像」(写真下左)にご挨拶して通過しました。
 かっぱ河太郎については湘南ふじさわWAのHP寅さん歩305 東京の博物館めぐりー3 台東区―3の寄り道をご覧ください。

 

 「浅草通り」を渡り、「春日通り」と交差する三筋二丁目交差点左角に「川柳発祥の地」の碑(写真下左)があります。川柳の創始者とされる「柄井川柳」がこの地(龍宝寺)で日本初の万句合を開催しました。左手裏にある龍宝寺に柄井川柳の墓があります。湘南ふじさわWAのHP寅さん歩23 東京の発祥之地めぐり(学問・文化編4)をご覧ください。
 突き当りの「蔵前通り」を右折し、右にある「鳥越神社」(写真下右)にお参りしました。651年(白雉2年)日本武尊を祀り、「白鳥神社」と称したのが起源とされ、前九年の役の折、源義家がこの地を訪れ、「鳥越大明神」と改めたと伝わります。例大祭に出る「千貫神輿」は都内最大級です。

 

 「蔵前橋通り」の鳥越二丁目交差点を左に入り、「忍岡高校」先の浅草橋五丁目交差点を左折すると、ジャグジーの待つ「辨天湯」に到着です。
 華やかさや悲しさの歴史を持った見所が次々に出てきて、楽しむこと・お願いすること・学ぶことの多いYRコースでした。


 

平野寅次郎 拝






 

 今回は2023年2月19日(日)〜2月23日(木)アメリカ テキサス州サンアントニオで開催された第18回IVVオリンピアドでの散歩です。

『平野寅次郎のYR散歩(番外編)』


 

 IVVオリンピアド
 国際市民スポーツ連盟(IVV)主催の市民スポーツ(ウォーキング、自転車、水泳など)を自由に選択して楽しむ2年に一度開催される国際大会です。開催地は各国の持ち回りです。1989年第1回大会がオランダで開催され以降 ヨーロッパ各国で開催されました。アジアでは2009年第11回大会が日本(富士・河口湖)、2015年第14回大会が中国で開催、2021年第17回大会が韓国で予定されましたが、新型コロナで中止となりました。2023年第18回大会はアメリカでの初めての開催です。

 国際市民スポーツ連盟(IVV)
 「成績を競わないスポーツ=市民スポーツ」の国際組織です。目的は参加する人それぞれの健康・体力の維持・増進すること、国際的な大会に参加する人びとの間で互いの友情を深め合い世界の平和に貢献することです。1968年にドイツで誕生し、市民スポーツを世界共通基準で個人の達成記録(回数と合計距離)を認定しています。日本市民スポーツ連盟(英文名の略はJVAですが、最近は呼びやすい呼称としてIVVの後に各国名をつけてIVV―JAPAN)は国際市民スポーツ連盟の日本組織です。

 寅次郎とIVVオリンピアド
 1997年寅次郎(当時55歳)は会社の健康診断で医師から脂肪肝・高脂血症と診断され、歩くことを勧められ、休日のウォーキングを始めました。ウォーキングにはまり込み、生涯目標を@地球一周4万キロ(歩行距離4キロ)の達成、Aオールジャパン ウォーキングカップ(国内47都道府県認定大会参加)の達成、B海外ウォーキング大会のオランダ フォーデーマーチの完歩と決めました。Aで全国のウォーキング大会を歩き回っていた時に妻の友人から「映画“男はつらいよ”の寅さんのようだ」と「平野寅次郎」と呼ばれ、ペンネームにしました。@及びAを達成し、2006年第90回オランダ フォーデーマーチに参加しました。この大会は年齢に応じて定められた距離(30・40・50km)のコースを4日間歩く、毎年開催の世界最大のウォーキング大会です。
 参加した第90回大会はヨーロッパの記録的な猛暑で死者も出て1日目で中止となってしまいました。2007年第91回大会に再挑戦して120km(30km×4日)を完歩しました。日本からの第91回大会参加ツアー(日通旅行)には第10回IVVオリンピアド エストニア大会が組み込まれていて、IVVオリンピアドの存在を初めて知り、初参加でした。距離と参加回数を増やすことに熱中して、ひたすら歩いていた寅次郎には長い距離にこだわらないウォーキングとサイクリングの市民スポーツを自由に選択して楽しんだ体験は衝撃的でした。生涯目標BはIVVオリンピアドの参加に代わり、2009年日本大会、2011年トルコ大会、2013年イタリア大会、2017年ドイツ大会、2019年フランス大会と続けて参加、すっかりその魅力にはまってしまいました。

なぜ今回参加?
 2021年3月前立腺全摘手術を受け、体調は完全には元に戻らず、2022年11月には80歳を迎え、脚力・聴力・視力・記憶力などが低下した寅次郎、日本市民スポーツ連盟のHPで第18回アメリカ大会の参加募集を知りましたが、老化に加えて新型コロナ禍や急激な円安の時にアメリカ大会への参加は躊躇しました。
 でも次の思いが寅次郎の背中を押してくれました。

・2011年トルコ大会〜2019年フランス大会まで一緒に参加し、次の大会も行こうと話していた親友の長津 豊さんが2022年6月逝去、長津さんの写真を持って一緒にテキサスを歩きたい。

・2019年フランス大会でお会いして「平野寅次郎のYR散歩」の誕生となった日本市民スポーツ連盟 川内基裕会長と又ご一緒したい。

・ウォーキングの距離は5・10・21k(キロ)と選べること。80歳になり「だれでも・いつでも・どこでも・いつまでも」の「いつまでも ウォーキング」の在り方をこの大会で見つけたい。

・市民スポーツ種目以外に市の行事のMarugarita & Tako TrailWalkがあり、アメリカ的な面白さを感じた。

・IVVオリンピアード(2月19日〜23日)と国際マーチングリーグ(IML)テキサス トレイルラウンドアップ(2月24日〜26日)が一体の大会として行われる。日本ではIVVオリンピアドは日本市民スポーツ連盟の管轄、国際マーチングリーグは日本ウオーキング協会の管轄と分かれています。今回の大会運営に大変興味を持った。

・HPでのサンアントニオ市長のメッセージ動画を見て、歩いてみたい所だと感じた。

・今回が最後のIVVオリンピアド参加になるかもしれないと考えた。

 IVVオリンピアド サンアントニオ大会
 サンアントニオはアメリカ合衆国の中南部に位置し、メキシコと国境を接し、首都ヒューストン・ダラスに並ぶテキサス州の大都市です。1836年メキシコからの独立を勝ち取るために189人の男たちが命を懸けて壮絶に戦った舞台「アラモの砦」(写真下左 2015年世界遺産に登録)が有名です。ダウンタウンの中心部を流れる運河のようなアントニオ川のリバーウォーク(写真下右 スペイン語でパセオ・デル・リオ“川の散歩道”)も観光の目玉です。

 

 ダウンタウンにある「LA QUINTA SUITES」(写真下左)は大会本部が置かれ、我々も含め、大会参加者の多くが泊まった大会オフィシャルホテルです。ホテル前がウォーキングのスタート地点、ゴールは「LA VILLITA」(開会式が行われたアントニオ川の沿岸)内のCos House(写真下右)です。大会参加費は事前申し込みの$105でした。

 

 ウォーキングは毎日7時から21k、8時から5k・10kを歩く人が自由にホテル前からスタートです。三日目には7時から42kがスタートです。
 朝、大会本部に置いてある自分の歩く距離の地図(裏に詳細な行き方が記載)を持って歩きます。写真下左は1日目5kの地図、写真下右は裏面です。この他にコースの見所が書かれた資料もありました。いずれも5か国語がありましたが、残念ながら日本語はありません。日本語に訳せるボランティアがいれば可能だと言っていました。各コースには距離ごとの矢印やリボンがあり、英語力が乏しい寅次郎には強い味方でした。また、バイク(自転車)25kやスイム(水泳)300mに参加希望者はホテルから大会手配のバスで離れた会場に向かいます。学生時代に水泳部だった川内会長や藤本さんはウォーキングの後スイムを楽しんでいました。

 

 チェックポイント(給水ポイント)でウォーキングパスポート(写真下左)にシールが張られ、ゴールするとIVV印が押印されます(写真下右)。
 別に我々が日本で使っている国際市民連盟パスポート(距離・参加回数証)を提出すれば押印されます。海外では押印が基本で日本のように印刷した紙でのIVV配布はありません。

 

 ウォーキングのプログラムに9時「10k Group Walk with Buffy」がありました。ベテラン ウォーカーのBuffyさん(紫色のシャツを着た女性)とのグループ歩きです。希望者は9時にホテル前に集まります(写真下左)。



 

 コース上の見所の説明もあります(写真上右)、遅れる人は信号やチェックポイントで待っていてくれました。途中でコースを変えたリ、グループ歩行をやめるのは自由ですが、一言声をかけてくださいと言っていました。
 初心者や世界の友達を作りながら歩きたい人のための企画のようです。
IML大会のプログラムにもBuffyさんの10kグループ歩きがありました。こんな配慮が 「だれでも いつまでも」の ウォーキングの決め手ですね。寅次郎の所属するFWA(湘南ふじさわWA)の例会やYRでもスタッフによる同じ企画が行われており、我が意を得ました。

二日目に行われた「Marugarita & Tako Trail Walk」の参加費は事前申し込みで$18です。15時〜19時の間に地図(写真下左・写真下右は裏面)にある11のチェックポイント(お店や屋台)を回り、試食や試飲してスタンプを集める市行事のスタンプラリーです。

 

 写真下左はホテルの脇に来ていたチェックポイント1のフードトラックです。写真下右はいただいたタコスです。

 

 写真下はコースの一番遠くにあったチェックポイント6のハンバーガー店のジェラード(写真下右)です。30分並んで、美味しくいただきました。

 

 写真下はゴールにあるチェックポイント11のBBQのお店の屋台です。

 

 各チェックポイントでは写真下のパスポートにスタンプを押してもらいます。最後の欄にゴール印がないのは寅次郎、午前中に5kコースを歩いた後、観光をして、16時にスタート、18時40分にゴールしたため、ゴールが撤去されていたためです。
 翌日、大会本部に「19時まででは?」と文句を言ったら「LA VILLITAのゴールは17時まで、完歩賞のワッペンは大会参加記念品の中にすでに差し上げています」と言われました。

 

 市が主催して地域を巻き込んだ楽しく歩くアメリカ的なやり方に感心しました。参加者はお互いに「この先にあるよ」と声かけながら、楽しんでいました。地元の人たちも参加して大会を大いに盛り上げる企画だと思いました。写真下左はいただいていた完歩ワッペンです。完歩したかどうかにかかわらず、すべての参加者に事前に配られています。参加者への配慮が感じられました。

 

 今回の大会は2月19日〜23日のIVVオリンピアドと2月24日〜26日の国際マーチングリーグ(IML) テキサス トレイル ラウンドアップが一体となっています。(参加費は別々)大会参加記念品が入ったバック(写真上右)にはILMマーク(左)、アメリカズ ウォーキング クラブマーク(中)、IVVマーク(右)が並んでいます。アメリカズ ウォーキング クラブ(1976年創立)が運営の中心になって市とIVVとIMLをとりまとめ、多くの協賛スポンサーの協力を得た大会と感じました。
 大会プログラムやパスポートは両大会の共通使用のもので大会資料には協賛スポンサーが表示されています。自治体・地元・地域が一体となった市民スポーツの企画は大会を大いに盛り上げると痛感しました。
 今回のIVVオリンピアドは世界27ケ国、約1100人の参加とのことですが、平日開催のためか若い人達の姿が少なかったのが残念です。この後の土・日開催のIML大会はウォーキングだけですが、若い人達も多く参加することでしょう。
 オリンピアドなので午前中に行われた「コミュニティ ウォーク」のゴール地点から開会式会場までの「フラッグパレード」(写真下右)が行われます。白バイも出動してパレードのための交通規制をしています。川内会長の掲げる日の丸のもと日本チームは9名(我々5名と別のグループ4名)です。写真下左はパレード前の川内会長とのツーショットです。寅次郎の首には昨年亡くなった親友 長津 豊さんの写真がぶら下がっています。

 

 開会式(写真下左)では各国の旗・IVV旗の入場、軍隊によるアメリカ国旗入場、国歌斉唱、ミス テキサス嬢による聖火入場(写真下右)、大会開会宣言、地元高校生のメキシカン音楽演奏などがありました。会場は川を挟んで右側が舞台、左側が観客席です。

 

 時折、観光客を乗せたボートが通り過ぎます。寅次郎も後日、ボートに乗り、リバーウォークを楽しみました。約30分のクルーズは大人$14.5、シニア(65歳以上)と軍人$11.5、子供(1〜5歳)$8.5です。
 2月23日15時からマジック シアターで行われた閉会式(写真下)ではIVV旗(中央の旗)が次回の開催国 フィンランドへ引き渡されました(写真下右)。開催は2025年8月14日〜8月17日です。

 

 IVVオリンピアドの閉会式に引き続き、ILM大会の開会式が行われました。

 大会に参加して
 今回は80歳を迎えた父の面倒をみようと休暇を取って参加した娘(ウォーキング大会初参加)と一緒に午前中は5kコースを歩き、午後は観光やショッピングを楽しみました。今まではより長い距離を歩くのみでしたが、こんな楽しみ方も知りました。娘は “4万キロウォーカー”の父より健脚でした。コースの確認はスマホのグーグルマップでやっていました。
 大会参加を終えた娘の感想は「楽しかった。元気に10k・20kを歩く年配のみなさんに驚きました」とのことです。

寅次郎は次のことを再認識した大会でした。
  ・ウォーキングは「だれでも いつでも どこでも いつまでも」の市民スポーツだ。
 ・「老いや脚力の衰えは だれにでも いつか訪れる」
 ・「歩かなければ 歩けなくなる そして寝たきりになる」
 病気などをすればその訪れはより早くなります。歩いて誰にでもいつか来る訪れを遅らせることです。
 ・「楽しく歩くことだ」
 “楽しく歩く”とは自分の目標を持って歩くことです。IVV記録やシリーズパスポートの達成目標から風景・歴史・花などを楽しむなど多くの目標があります。目標は年齢や経験の経過で当然変わっていきます。歯の健康で「8020(80歳でも自分の歯は20本)」をもじった寅次郎の当初の目標は「8020(80歳でも20キロ歩く)」でしたが、70歳になると「8010(80歳でも10キロ歩く)」になり、80歳になった今の目標は「8005(80歳で5キロ歩く)」です。マイペースで単独で歩くことも楽しいですが、寅次郎の経験では 仲間や家族と楽しく歩くことのほうが長続きする秘訣でした。若者が楽しく歩くためのスマホなどを使った歩き方の工夫や家族(ファミリー)が参加して楽しく歩くことを自治体や地域の協力を得た新しい企画が必要です。

日本市民スポーツ連盟は高齢ウォーカー・歩行に支障のあるウォーカー・ファミリーウォーカーがウォーキング大会や例会・YRに参加しやすいように3k・4kコースの追加IVV認定を2023年7月1日から行うと発表しました。従来の認定コースは5k以上でした。「だれでも」にとっての朗報です。また、YR(イヤーラウンド)は「だれでも いつでも」歩ける最高のウォークです。大いに利用しましょう。日本市民スポーツ連盟のHPには全国のYRステーション164が掲載されています。

   最後にBuffyさんから頂いた「しおり」(写真下)を紹介します。上段の文は孔子の言葉で下段の文はBuffyさんの言葉だそうです。「どこに行くにも真心とお気に入りのウォーキングシューズを携えて」と受け止めました。

 

 今回の大会の詳しい状況報告はリンク集にある湘南ふじさわWAのHPのひろば「寅さん歩」に掲載しています。また、2017年ドイツ大会の「寅さん歩178 ドイツ散歩」や2019年フランス大会の「寅さん歩282 南フランス プロヴァンス散歩」もご覧ください。


 

平野寅次郎 拝






 

 「麻布十番」・「神楽坂」・「浅草橋」・「志茂」の銭湯YRコースを歩き、YR後の銭湯にすっかりはまった寅次郎、今回は北区志茂の「テルメ末広」YRのB 新河岸川コースを歩きました。このコースは見事な桜並木があるので桜の時期が来るまで残していました。2023年の東京の桜の開花発表は3月14日(史上タイの早さ)、満開発表は3月22日(史上二番目の早さ)でした。3月27日に歩きましたが、桜はまだ満開でした。

『テルメ末広 A 荒川コース 10km』
ステーション:テルメ末広 住所:北区志茂5−16−14 最寄駅:東京メトロ南北線 志茂駅(2番出口)

 

 今回は志茂駅から「北本通り」を歩き、約7分で「テルメ末広」(写真下左)に到着です(赤羽駅東口からは約15分)。入口にはウオーキングステーションの看板(写真下右)があります。「テルメ」とはイタリア語で「温泉」のことです。

 

 営業時間は14時からなので、前回Aコースを歩いた時にもらった裏面のBコース地図を見ながらスタートです。地図は日本市民スポーツ連盟のHPからも印刷できます。「北本通り」に出て右折、「新荒川大橋」方面へ向かいます。新荒川大橋の手前右側に「史蹟 岩槻街道岩渕宿問屋場址の碑」(写真下左)と「小山酒造跡地」(写真下右)がありました。小山酒造は1878年(明治16年)創業、2018年(平成30年)2月まで続いた造り酒屋です。当時は都内23区内では2軒しかない造り酒屋とのことです。代表銘柄「丸眞政宗」の製造は遠縁の埼玉県さいたま市小山本家酒造に引き継がれているそうです。
 「岩槻街道」は日光御成街道の別名で東京都内から埼玉県さいたま市岩槻へ向かう国道122号線の愛称です。

 

 「新荒川大橋」の手前を右折、新河岸川に架かる「岩淵橋」を渡ると「赤羽桜堤緑地」で満開の桜がお出迎えです(写真下左右)。桜並木は約700m先のJR線ガードまで続きます。



 

 JR線ガードを越え新河岸川左岸の「川岸の散歩道」(写真下左)を「浮間橋」(写真下右)まで歩きます。

 

 浮間橋を渡り、新河岸川右岸に下りると、また桜並木(写真下左右)で「新河岸大橋」まで約600m続きます。


 

 新河岸川には「東京辺水ライン(水上バス)」が通っており、写真下右が「小豆沢発着場」、その先に見えるのが「新河岸大橋」です。案内板によると「小豆沢(あずさわ)の地名は平将門が活躍した頃に、小豆を積んだ船が、当地にあった「七子崎」という入江に沈んだことに因み付けられたといわれています。江戸時代以降、小豆沢河岸は荒川舟運の河岸として水上交通の要所、また近くを通る中山道などの陸上交通網の結節点にもなっていました」と記載。新河岸川の名も両岸に河岸場があったことに因むそうです。

 

 新河岸大橋手前を左折し、「環八通り」を横断して進みます。写真下右は「小豆沢体育館」です。奥には「小豆沢公園」があります。

 

 突き当りを左折して進むと右側に「大恩寺」(写真下左)があります。1624年(寛永元年)創建の日蓮宗の寺院、関東大震災の被災で文京区から移転、境内に三十三観音(写真下右)が並びます。

 

 隣は「善徳寺」(写真下左)で1453年(享徳2年)創建の浄土宗の寺院で関東大震災の被災で台東区から移転、日本橋大伝馬町の御伝馬役名主の馬込家の墓があるとの案内板がありました。
善徳寺の角を右折、「西が丘競技場」方面へ向かいます。写真下右は「国立スポーツ科学センター」です 。

 

 国立スポーツ科学センター交差点(写真下左右)を左折して、直進します。

 

 「稲付公園」(写真下左右)に立ち寄ります。稲付公園は講談社の創立者 野間清治氏(1878〜1938)の旧別邸跡地で、公園前の坂は「野間坂」とのことです。

 

 野間坂を下りると写真下左の左側の下の道に出ます。コースはさらに下りますが、右側の上の道を少し上がると「香取神社」(写真下右)があります。せっかくなので立ち寄りました。香取神社は旧稲付村の鎮守社で創建は不明ですが、徳川家光の時代にはすでにあったと伝わります。

 

 香取神社の隣は「法真寺」(写真下左)があります。1537年(天正元年)創建の日蓮宗の寺院です。4枚の言葉の内で気に入った1枚(写真下右)です。

 

 「赤羽西口通り」を横断して、写真下左のJRのガードをくぐり、左側にある赤羽駅東口方面へ進み。「LaLaガーデン商店街」(写真下右)を通過して、岩淵中前交差点を横断して、すぐ左の「志茂平和通り」から「北本通り」に出ると、ゴールの「テルメ末広」に到着です。
 テルメ末広の入浴料金は大人(12歳以上)500円(IVV印代込み)です。入浴せずにIVV印のみをもらう場合は200円です。
 桜を堪能できるYRコースですが、桜以外の季節でも史跡と西が丘の新しいスポーツ施設が見学できるYRコースです。



 

平野寅次郎 拝






 

 今回は靖国通りの神田小川町にあるMIZUNO TOKYOのYRコースを歩きます。最寄り駅は代表例と出口です。

『水のめぐりCコース 上野不忍池〜谷中〜神田川 12km』
ステーション:MIZUNO TOKYO 千代田区神田小川町3-1 最寄駅:都営地下鉄 新宿線 小川町駅B5出口

 

 前回は水のめぐりBコースを歩き、皇居周辺の秋を楽しみました。
 今回はCコ−スで都心の桜の名所と地図に記載の見所を歩きます。
 2023年東京の桜の開花発表は3月14日(史上タイの早さ)、満開発表は3月22日(史上二番目の早さ)でした。4月1日に歩きましたが、桜はまだ大半が残っていました。YRの開設は9時30分〜18時ですが、お店(写真下左)の開店時間は11時からなので、11時まではお店の裏にある受付ボックス(写真下右)で受付してスタートします。コース地図が置いてあります。

 

 淡路町交差点を左折して、昌平橋方面に向かいます。左側には淡路町二丁目西部地区の再開発事業で2013年4月に整備された「ワテラス」(写真下左)があります。名前の由来は「和」の精神、人の「輪」、緑と水の「環」の創造と三つの「わ(W)」からだそうです。写真下右は「昌平橋」で上は中央線のガード、右側は秋葉原電気街、左側は湯島聖堂(孔子廟)があり「昌平」とは孔子の故郷「昌平郷」に因んで「昌平橋」や「昌平坂」が名付けられています。

 

 写真下左は昌平橋から聖橋方面を見ました。進んで右側に入った所にある「昌平小学校」前の「芳林公園」(写真下右)は南総里見八犬伝などを著わした江戸時代の戯作者「滝沢馬琴住居跡」です。1824年(文政7年)〜1836年(天保7年)ここで暮らしたと説明板がありました。


 

 地図に記載の見所@「湯島天神」(写真下左)は学問の神様・梅の名所です。このHPからリンク出来る湘南ふじさわWAのHPの寅さん歩84 江戸・東京の祭―13(花の祭−2)をご覧ください。湯島天神の前の「湯島ハイタウン」(写真下右)の2階に日本市民スポーツ連盟の事務所があります。


 

 見所A「旧岩崎邸庭園」(写真下左)は三菱財閥の岩崎家の建物と庭園の一部を東京都が公園として整備した公園で建物は国の重要文化財になっています。
 写真下右は「無縁坂」で森鴎外の小説「雁」、さだまさしの歌、里中真知子の漫画の舞台になっています。左の赤レンガは旧岩崎庭園の塀です。

 

 名所B「上野恩賜公園不忍池」(写真下左右))は桜の名所です。

 

 「弁天堂」(写真下右)にお参りして向かいの上野の山に上ります。


 

 写真下左は階段の上から弁天堂を眺めました。写真下右は「清水観音堂」です。「上野恩賜公園」は三代将軍徳川家光が江戸城の鬼門を封じるため、この地に「東叡山寛永寺」を建立、芝の増上寺に並ぶ将軍の墓所としました。上野戦争で焼け野原になりましたが、1873年(明治6年)日本初の公園として整備され、文化と芸術を発信する「文化の森」となっています。

 

 2023年はコロナ対策の一環で、まだ桜の下にシートを敷いてのお花見は出来ませんが、公園中央部の桜並木をご堪能ください。

 

 写真下右は名所C「噴水広場」で正面は「東京国立博物館」です。

 

 左方向に進むと「旧東京音楽学校奏楽堂」(写真下左)があります。1890年(明治23年)東京音楽学校(現在の東京藝術大学)本館として建設された国の重要文化財です。写真下右はその先にある当時の校門です。

 

 現在の東京藝術大学の校門は道を挟んで左が美術学部(写真下左)、右が音楽学部(写真下右)です。湘南ふじさわWAのHP寅さん歩196 東京の学食めぐりー5をご覧ください。

 

 上野桜木交差点を進みます。交差点右側に台東区の「下町風俗資料館付設展示場」(資料館は不忍池端にあります)です。明治時代の建物「旧吉田酒店」(写真下左)が無料で見られます。写真下右はその先にある台湾のデザート専門「愛玉子(オーギョーチー)」の店で寅次郎のお気に入りです。湘南ふじさわWAのHP寅さん歩37 健康後利益めぐりー1台東区―1 (寄り道)をご覧ください。

 

 見所D「谷中霊園」は徳川最後の将軍 徳川慶喜や著名人のお墓があり、桜の名所で有名です。写真下は中央通りの見事な桜並木でこの日は桜吹雪でした。


 

 墓地の中央部には1957年(昭和32年)放火で焼失した「天王寺五重塔跡」(写真下左)があります。幸田露伴の小説「五重塔」のモデルとなりました。

 

 谷中霊園にも最近はやりの樹木葬の墓地(写真下左)がありました。写真下右は墓地を出て右折した所にある江戸の趣を残す「築地塀」(写真下右)です。

 

 彫刻家 朝倉文夫のアトリエ兼住居を改装した美術館「朝倉彫塑館」(写真下左)脇を通過、前方右には山門に上野戦争の弾痕が残る「経王寺」(写真下右)があります。

 

 左折して、「夕焼けだんだん」(写真下左)を下りて、見所E「谷中銀座」(写真下右)に向かいます。

 

 谷中銀座を通りぬけて左折、「よみせ通り」を進み、蛇のように曲がっていることから呼ばれている「へび道」(写真下左右)に入ります。

 

 見所F「根津神社」(写真下左)に到着です。産土神としていた甲府藩主 徳川綱豊(後の第六代将軍徳川家宣)の藩邸でしたが、叔父にあたる五代将軍徳川綱吉の養嗣として江戸城へ移るので藩邸を閉じて献納した地です。写真下は楼門です。

 

 左側は「つつじ園」で4月1日〜4月30日文京区のつつじ祭が開催されます。写真下左は4月1日の状況です。満開の状況は湘南ふじさわWAHP 寅さん歩89 江戸・東京の祭―18 花の祭―4をご覧ください。写真下右は社殿です。

 

 東京大学の脇から「農学部正門」(写真下左)に出ます。正門を入り、左側に「上野英三郎博士とハチ公」像(写真下右)があります。勤務先の東京大学にて急死した上野博士の帰りを渋谷駅前で10年間待っていた忠犬ハチ公と上野博士は90年ぶりに、この地で再会しました。

 

 見所G「こんにゃく閻魔(源覚寺)」(写真下左)は眼病の老女に自分の眼を差し上げた閻魔大王に老女は大好物の「こんにゃく」を絶って供えたとの伝説があります。今でも眼病快癒のご利益をいただいた方が供えたこんにゃくの山が手前にありました。写真下右は隣にある「塩地蔵」でお地蔵さんの身体の自分が治したいに箇所に塩をかけ、ご利益を受けます。

 

 写真下左は寺の入口にあった「憧れ」についての言葉です。WBCでアメリカとの決勝戦の試合前に大谷選手がチームメイトに「今日だけはアメリカの選手への憧れを捨ててください!」と言った言葉を思い出しました。 源覚寺を出て東京ドーム方面に向かいます。写真下右の左側は文京シビックセンター(文京区役所)正面は東京ドームの白い屋根です。右側は東京メトロ丸ノ内線 後楽園駅です。前方は東京メトロ丸ノ内線でここでは地下鉄が地上を走っています 。

 

 見所Hイタリア・ルネッサンス式庭園の「礫川公園」(写真下左)です。この一帯は江戸時代 水戸徳川家の土地で明治時代以降は陸軍の砲兵工場がありました。戦後は分割されて公園・住宅・大学・後楽園球場(現在の東京ドーム)となりました。見所I「小石川後楽園」は水戸徳川藩藩邸の庭園で、写真下右は「西門」です。

 

 小石川後楽園脇の小道(写真下左)を通り、「東門」(写真下右)に出ます。

 

 写真下左は「東京ドームシティ」で東京ドームの屋根が見えます。右は東京ドームホテル、奥は遊園地です。道路の右側は見所J「神田川・水道橋」一帯で写真下右は神田川の「市兵衛河岸跡」です。

 

 写真下左は「水道橋」です。写真下右は「神田上水掛樋跡」で江戸時代、神田川に木製の掛樋(かけひ)をかけて、神田上水の水を通し、神田、日本橋方面に給水していました。1901年(明治34年)まで江戸・東京市民に飲み水を供給し続け、日本最古の都市水道として大きな役割を果たしました。

 

 東京医科歯科大学の前を右折して、「お茶の水橋」を渡り、JRお茶の水駅・明治大学の脇を通り、「駿河台下交差点」を左折して靖国通りを進むと右側がゴールです。6階売り場でゴール手続きをしてください。 都心の名所・旧跡をたっぷり味わったYRコースでした。


 

平野寅次郎 拝






 

 日本市民スポーツ連盟は高齢ウォーカー・歩行に支障のあるウォーカー・ファミリーウォーカーがウォーキング大会や例会・YRに参加しやすいように3km・4kmコースの追加IVV認定を2023年7月1日から行います。従来の認定コース5km以上からの改定です。
 日本市民スポーツ連盟のYR(イヤーラウンド)コースにも7月1日から上野恩賜公園の不忍池を回る3kmコースが新設されました。
 今回は新YRコースを紹介します。最寄り駅は代表例と出口です。

『不忍池コース 3km』
ステーション:日本市民スポーツ連盟事務所 文京区湯島4-6-11 湯島ハイタウンA棟208号 最寄駅:東京メトロ千代田線 湯島駅1番出口

 

 日本市民スポーツ連盟事務所は春日通りの湯島天満宮(写真下左)前の湯島ハイタウンA棟2階(写真下右)にあります。

 

 写真下左の入口を入り、右側の階段を上がると2階が事務所です(写真下右)。YRの受付を行い、地図をもらってスタートです。事務所の業務時間は9時30分〜16時30分ですが、業務時間以外にスタートしたい人は事前に入手した受付カードに記入、事務所入口のドアの隙間に投入して、スタートできます。
 YRは「いつでも・だれでも」のウォーキングです。大いにYRを利用して「いつまでも」歩きましょう。

 

 事務所を出て、春日通りの次の天神下交差点を左折、不忍通りの池之端一丁目交差点から不忍池(写真下左右)に入り、右へ進みます。目の前は「蓮池」です。かつての不忍池は、武蔵野台地の東端に位置し、上野台と本郷台に囲まれた入江でした。その後。海岸線の後退とともに取り残され、池になったと考えられます。不忍池の名の由来は諸説ありますが、地名が「忍ケ岡(しのぶがおか)」と呼ばれていたのが有力な説だそうです。


 

 「蓮見のステージ」(写真下左)から「蓮池」を見ましょう。右奥には弁天堂の屋根が見えます。蓮の花はまだ少なく、これからです。(6月18日撮影)
 近くに「不忍池と蓮」の説明板に次の記載がありました。
 延宝5年(1677年)に出版された「江戸雀」という本に不忍池の蓮が詠み込まれた和歌が載っていることから、この頃には不忍池に蓮があったことが分かります。

   「涼しやと池の蓮を見かへりて 誰かは跡をしのばずの池」


 

 右側には明治・大正・昭和初期の東京下町の生活風俗を保存・展示の「下町風俗資料館」がありますが、リニューアル工事中で令和6年度まで休業中でした。その先左側に「駅伝の碑」(写真下左)があります。日本最初の駅伝は大正6年(1917年)4月27日〜29日の三日間にわたり開催、スタートは京都・三条大橋、ゴールは東京上野・不忍池の博覧会正面玄関でした。
 このHPからリンクできる湘南ふじさわWAのHPひろば 寅さん歩15 東京発祥之地めぐり スポーツ編―1をご覧ください。

 

 「弁天堂(辨天堂)」(写真下左)へは「大龍橋」(写真上右)を渡ります。歴代将軍の祈祷寺・菩提寺の上野寛永寺を創建した天海僧正は比叡山・琵琶湖の竹生島に見立て、上野の山を東叡山として不忍池に中島を築造、弁天堂を創建しました。弁天様は音楽と芸能の神、また弁財天とも書きますので金運上昇のご利益があり、江戸最古の谷中七福神です。右隣にある「大黒天堂」(写真下右)は福を授かり、福を招く神で家内繁栄・富貴をもたらすご利益がある大黒様が祀られ、豊臣秀吉が大切にしたと伝わります。谷中七福神の大黒天は別の場所にある護国院です。

 

 境内には多くの碑があり、「魚」、「鳥」、「包丁」、「筆」、放浪の画家・日本のゴッホ「長谷川利行」などの碑がありますが、字が読めずになんの碑かわからないものもあります。代表的な二つを紹介します。写真下左は「フグの碑」、写真下右は「眼鏡の碑」です。


 

 弁天堂を出て左へ進むと上野動物園の「弁天門」(写真下左)で不忍池の一部が上野動物園西園になっています。右側には「五條天神社」の鳥居(写真下右)があります。

 

 五條天神社は大和武尊が東征の際に祀ったと伝わります。医薬の神様で無病息災・病気平癒のご利益があるそうです。江戸時代初期には菅原道真も合祀されました。寄り道して写真下左の社殿に「末永い健康寿命を」とお願いしました。コースに戻り、進むと徳川家康が祀られている「上野東照宮」の不忍口鳥居(写真下右)です。

 

 上野動物園の西園と東園をつなぐ通路(写真下左)、その先に現在は運休中の園内モノレールの線路(写真下右)をくぐり進みます。

 

 前方左側に「森鴎外旧居跡」の「水月ホテル?外荘」の建物(写真下左)があります。敷地内には旧居の一部とカヤの木があり、寅次郎、ここで忘年会をしたことがありました。残念ながら営業は終了、解体工事(2023年6月12日〜2024年2月10日予定)を待っています。
 その先の都電が展示してある「池之端児童遊園」(写真下右)の手前を左折して不忍通りに出ます。

 

 上野動物園「池之端門」の先から不忍池(写真下右)に戻ります。

 

 不忍池「ボート池」(写真下左)で途中まで木道(写真下右)を歩けます。左側は上野動物園西園です。

 

 右側は「ボート乗り場」(写真下左)です。左側は「弁天堂」の裏(写真下右)で、ここからも弁天堂に行けます。


 

 ここは蓮と桜の名所で江戸時代は賑わった場所です。写真下左が蓮池の蓮、写真下右が桜の時期です。

 

 突き当りを左に進むと(写真下左)、最初に不忍池に入った入口です。不忍通りの池之旗一丁目の信号(写真下右)を渡り、今度は直進、突き当りを左折すると右側が日本市民スポーツ連盟の事務所がある湯島ハイタウンA棟です。

 

 距離の短いYRコースでしたが、ゆっくりと不忍池を散策できるコースで桜・蓮・紅葉と四季を通じて楽しめます。


 

平野寅次郎 拝






 

 今回は靖国通りの神田小川町にあるMIZUNO TOKYOのYR新コースを歩きます。最寄り駅は代表例と出口です。

『東大赤門&坂道見所 Dコース 8km』
ステーション:MIZUNO TOKYO 千代田区神田小川町3-1 最寄駅:都営地下鉄 新宿線 小川町駅B5出口

 

 前回は水のめぐりCコースを歩き、都心の桜の名所・旧跡を楽しみました。
 今回は2023年5月新設のDコ−スを歩きます。スタートから上野恩賜公園不忍池まではCコースと同じですが、以降は東京大学本郷キャンパス・明治大学駿河台キャンパスの脇を通り、文京区の坂道を楽しむYRコースです。YRの開設時間は9時30分〜18時ですが、お店(写真下左)の開店時間は11時からなので、11時まではお店の裏にある受付ボックス(写真下右)で受付してスタートします。置いてあるCコースの地図の裏面にDコースがあります。

 

 コースは靖国通りの淡路町交差点を左折して、昌平橋から天神下交差点方面に向かいます。天神とはで学問の神様 菅原道真を祀る湯島天満宮(湯島天神)(見所@)です。泉鏡花の小説「婦系図」の舞台や受験シーズンに合格祈願で賑わうところです。
 写真下左は昌平橋から聖橋方面を見ました。写真下右は別の日に出会った湯島天満宮例大祭(5月27日)の三組弥生会氏子の神輿です。
 このHPからリンク出来る湘南ふじさわWAのHPの寅さん歩84 江戸・東京の祭―13(花の祭−2)をご覧ください。

 

 湯島天神(写真下左)の前の「湯島ハイタウン」(写真下右)の2階は日本市民スポーツ連盟の事務所です。


 

 見所A「旧岩崎邸庭園」は三菱財閥の岩崎家の建物と庭園の一部を東京都が公園として整備、建物は国の重要文化財になっています。コース上では不忍池の後に行くこともできます。写真下左は2023年6月1日から変更になった旧岩崎庭園の入口で料金(65歳以上200円、一般400円)を支払い、右の坂道(馬車道)を上がると洋館前(写真下右)に出て建物内を見学できます。


 

 見所B「上野恩賜公園不忍池」で一面の蓮でおおわれている蓮池(写真下左)、ボートが楽しめるボート池(写真下右)です。かつては上野台地と本郷大地の間の地名が「忍ケ丘(しのぶがおか)」と呼ばれていたのが地名の由来とのことです。

 

 YRコースは「弁天堂」(写真下左)の裏を通過、ボート乗り場から不忍池を周り、不忍通りに出て、横断して旧岩崎庭園方面へ向かいます。
 ここから旧岩崎庭園に入ることもできます。
 文京区の坂めぐりの始まりです。写真下右は旧岩崎庭園脇にある「無縁坂」です。森鴎外の小説「雁」、さだまさしの歌、里中真知子の漫画の舞台になっています。

 

 無縁坂を上り、東京大学の塀に沿って進むと「鉄門」(写真下左)があります。説明板には「鉄門は東京大学医学部正門だったが、鉄門前の民有地を構内に取り込むため撤去された。東京大学医学部百五十周年を記念して現在地に再建した」と記載。鉄門から東京大学付属病院や構内に入れます。さらに進むと「竜岡門」(写真下右)です。ここからも東京大学附属病院や構内に入れます。旧龍岡町の地名は地名案内板によると『明治7年向が岡の台地に立てた町という意味から、「立つ」を縁起のよい「龍」の字に変えて、龍岡町と名づけたといわれます』と記載。


 

 春日通りに出て右折、本郷三丁目交差点を右折すると「赤門」(写真下左)です。説明板には「文政10年(1827年)加賀藩主 前田齊泰にとついだ11代将軍 徳川家斉の息女 溶姫のために建てられた朱塗りの御守殿門であり、重要文化財に指定されています」と記載。
 時間があれば赤門から東京大学本郷キャンパス構内に入り、安田講堂や三四郎池(写真下右)の見学をお勧めします。特に構内の秋のいちょうは見事です。
 このHPからリンク出来る湘南ふじさわWAのHPの寅さん歩197 東京の黄葉・紅葉ー5及び寅さん歩196東京の学食めぐりー5をご覧ください。

 

 本郷通りを進み本郷郵便局前の交差点を左折して、郵便局脇を進むと、写真下左の碑「石川啄木ゆかりの蓋平館(がいへいかん)別荘跡」があります。
 説明板によると『石川啄木は明治41年(1908年)5月、北海道の放浪から創作生活に入るために上京、赤心館(現在の本郷五丁目)に下宿し、小説を書いたが売れず、収入の道なく、短歌でその苦しさをまきちらした。「東海の小島の磯の白砂に 我泣きぬれて蟹とたわむる」の歌はこの時の歌である。
 下宿代が滞り、友人の金田一京助(言語学者)の助けを得て、この地にあった蓋平館別荘に移った。3階の3畳半の部屋で書いた小説「島影」が東京毎日新聞社に連載された。また文芸雑誌「スバル」の創刊号の発行人となった。東京毎日新聞社の校正係として入社し、明治42年6月には本郷弓町(現在の本郷二丁目)に移っている。ここでの生活は約9か月間であった』と記載。

 

 その先の急な坂道「新坂」(写真上右)を下ります。説明板には「名前は新坂だが、江戸時代に開かれた古い坂、このあたりは。もとは森川町と呼ばれ、金田一京助の世話で石川啄木、二葉亭四迷、尾崎紅葉、徳田秋声など、文人が多く住んだ。この坂は文人の逍遥の道でもあったと思われる」と記載。
 新坂を下り、菊坂下交差点を左折、「菊坂」を上ります。24歳の若さで亡くなった小説家 樋口一葉は近くの旧菊坂町(現在の本郷四丁目)の貸家に住んでいて苦しい家計のやりくりでたびたび「伊勢屋質店」(写真下左)に通いました。現在は跡見学園女子大学が建物を所有して、指定日の午後に一般公開されています。菊坂を上がった本郷通りに別れの坂跡「見送り坂」と「見返り坂」の説明板がありました。この辺りは江戸を追放された人が別れを交わす坂だったとのことです。平野寅次郎のYR散歩No20 文京の坂113 B本郷ブロックー1をご覧ください。

 

 本郷三丁目交差点に戻ります。交差点には「本郷も かねやす までは江戸のうち」と古川柳にも歌われた「江戸時代に歯磨き粉を売っていた「かねやす」(写真上右)があります。東京医科歯科大学附属病院前のお茶の水橋を渡ると右側に「お茶の水の碑(写真下左)」があります。慶長年間に将軍徳川秀忠がこの辺りに湧き出た水でお茶をたてて飲んだのが「お茶の水」の地名の由来とのことです。湧水は神田川の拡張工事で今は水底だそうです。

 

 明治大学駿河台キャンパス脇を通過します。写真下左は「アカデミーコモン」で生涯学習の拠点、BI階には明治大学博物館、OBで作詞家・作家の阿久悠記念館があります。無料ですので寄り道をお勧めします。
 写真下右は「リバティータワー」で地上23階、地下3階の校舎です。17階には学生食堂がありあます。
 このHPからリンク出来る湘南ふじさわWAのHPの寅さん歩200 東京の学食めぐりー8及び寅さん歩315 東京の博物館めぐりー8 千代田区―2をご覧ください。

 

 駿河台下交差点を左折して靖国通りを進むと右側がゴールのMIZUNO TOKYOです。6階でゴール手続きをしてください。このコースでは町名案内板や坂の説明板が多くありますので参考にしてください。


 

平野寅次郎 拝






 

 今回は靖国通りの神田小川町にあるMIZUNO TOKYOのYR新コースを歩きます。最寄り駅は代表例と出口です。

『気楽に散策 Eコース 5km』
ステーション:MIZUNO TOKYO 千代田区神田小川町3-1 最寄駅:都営地下鉄 新宿線 小川町駅B5出口

 

 前回は2023年5月新設の「東大赤門&坂道見所 Dコ−ス」を歩きました。
 今回は同じ時期新設の「気楽に散策 Eコース」を歩きます。スタートから上野恩賜公園不忍池入口まではDコースと同じですが、不忍池方面には行かず不忍池から出てきたDコースと合流します。春日通りの本富士警察署前交差点で左折、Dコースと別れて、サッカー通りを通って戻るYRコースです。
 「気楽に散策コース」なので、見所の内に入って紹介します。
 YRの開設時間は9時30分〜18時ですが、お店(写真下左)の開店時間は11時からなので、11時まではお店の裏にある受付ボックス(写真下右)で受付してスタートします。置いてあるCコースの裏面がEコース・Dコースです。

 

 小川町  YRステーションの前の靖国通り一帯の地名「小川町」の説明板がありました。『江戸時代、小川町は神田の西半分を占める広大な地域を指す俗称でした。古くは、鷹狩りに使う鷹の飼育を行う鷹匠が住んでいたことから、元鷹匠町と呼ばれていましたが、1693年(元禄6年)小川町に改称されました。
 五代将軍綱吉が「生類憐れの令」を施行、鷹狩りを禁止したために改称されたという話も伝わっています。小川町の名前の由来は、このあたりに清らかな小川が流れていたとも、「小川の清水」と呼ばれた池があったからともいわれています。1856(安政3年)には3大名の上屋敷があり、「小川の清水」は信濃高遠藩 内藤家の屋敷内にあったといわれています。明治に入り武家地は整理され、百貨店の前身や大弓場、寄席などがある東京を代表とする繁華街・学生街でした。昭和30年代からは日本屈指の大型スポーツ店街となっています』と記載。写真下左はYRステーション前の靖国通り、写真下右は説明板の安政時代の同場所の大名屋敷図です。

 

 湯島天神(湯島天満宮)  天神下交差点手前の湯島中坂下交差点を左折して、地図の見所@「湯島天神(湯島天満宮)」に立ち寄ります。地図裏面のCコースに点線で書かれている道を行きます。坂を上がり、突き当りを右折すると湯島天神の表鳥居(写真下左)です。写真下右は正面奥にある本殿です。


 

 458年(雄略天皇2年)創建と伝わる「湯島天神」は菅原道真を祀る学問の神様で泉鏡花の小説「婦鏡図」の舞台になった梅の名所です。境内にある代表的な碑を紹介します。写真下左は菅原道真ゆかりの御神牛像、写真下右は泉鏡花の筆塚です。


 

 写真下左は新派の碑(新橋演舞場にありましたが改装で境内に移設)、写真下右は講談高座発祥の地の碑です。

 

 写真下左は文房具発祥の地の碑、写真下右は奇縁氷下石(江戸時代の迷子案内塔)です。

 

 詳しくはこのHPからリンク出来る湘南ふじさわWAのHPの寅さん歩22及び23 東京の発祥之地めぐり(学問・文化編3及び4)、寅さん歩84 江戸・東京の祭―13(花の祭−2)をご覧ください。社殿裏の階段(写真下左)を下りると春日通りです。前は日本市民スポーツ連盟の事務所(2階)がある「湯島ハイタウン」(写真下右)です。


 

 旧岩崎邸庭園  見所A「旧岩崎邸庭園」は1896年(明治29年)三菱財閥の岩崎家の本邸として建てられました。2001年(平成13年)10月建物と庭園の一部を東京都が公園として整備しました。建物は国の重要文化財になっています。開園時間は9時〜17時、休園日は年末年始(12月29日〜1月1日)です。写真下左が2023年(令和5年)6月から変更となった入口で一般400円(65歳以上200円)を払います。靴を脱いで建物の中に入れますが、内部は撮影禁止が多いので建物外観を撮影しました。写真下右はジョサイア・コンドル設計の洋館です。

 

 写真下左は洋館の裏側、写真下右は洋館に併館の書院造の和館です。
 洋館から少し離れた場所にコンドル設計の撞球場(ビリヤード場)もありました。当時の日本では非常に珍しいスイスの山小屋風の造りです。

 

 麟祥院・春日局の墓  春日通りに突き当たり、左折すると左側に春日局像(写真下左)があります。春日局(1579〜1643)は三代将軍徳川家光の乳母で生涯家光に仕えました。この奥にある麟祥院(写真下右)は春日局の隠棲所として創建され、春日局の墓があります。

 

 写真下左は春日局の墓です。あの世からこの世がよく見られるように四方に穴が貫通した特異な形(写真下右)をしています。よほど家光や大奥のことが心配だったようですね。麟祥院売山門の左に「哲学館跡」の説明板がありました。1887年(明治20年)院内に東洋大学の前身である「哲学館」が井上円了により創立されました。現在の東洋大学は文京区白山にあります。

 

 春日通りの麟祥院前(湯島四丁目)の交差点から入る道(写真下左)がサッカー通りです。日本サッカー協会のオフィス・日本サッカーミュージアム(写真下右)があることからサッカー通りと名付けられました。日本サッカーミュージアム日本サッカー協会の新オフィス移転に伴い、2023年(令和5年)2月26日の営業で休館しました。以前に訪れた 寅さん歩330 東京の博物館めぐりー17 文京区―4をご覧ください。

 

 東京医科歯科大学・順天堂大学の間を通り、お茶の水橋を渡ると、右側に明治大学駿河台キャンパスがあります。


 明治大学博物館・阿久悠記念館  明治大学駿河台キャンパスの「アカデミーコモン」(写真下左)の地階1階に明治大学博物館と明治大学OBで作詞家・作家の阿久悠記念館があります。明治大学創設者3名の顔の碑(写真下右)があるのが1階入口です。

 

 写真下左は地下1階の明治大学博物館入口、写真下右は隣にある阿久悠記念館入口です。入場はいずれも無料です。阿久悠記念館の内の視聴コーナーで阿久悠作詞の桜田淳子「夏にご用心」に聞きほれました。これは寅次郎の持ち歌で、歌って踊り好評を博した曲です。このHPからリンク出来る湘南ふじさわWAのHPの寅さん歩315 東京の博物館めぐりー8 千代田区―2をご覧ください。両方とも開館時間は10時〜17時、休館日は夏季休業日(8月10日〜16日)、冬季休業日(12月26日〜1月7日)です。8月の土・日曜に臨時休館があります。

 

 食堂スカイラウンジ暁  隣の「リバティータワー」(写真下左)の17階に学生食堂 スカイラウンジ暁があり、一般の人も利用出来ます。8月1日〜9月19日は平日の11時30分〜14時(ラストオーダー13時30分)のランチのみの営業です。但し、8月10日〜8月16日及び土・日・祝は休業です。9月20日以降は通常の営業時間の平日11時〜17時30分(ラストオーダー17時)、土曜日11時30分〜14時30分(ラストオーダー14時)の予定ですが、ご利用の際は事前に確認をお願いします。

 

 写真下左は17階からの聖橋方面の景観でニコライ堂の緑の屋根が見えます。写真下右は景観を見ながら食べた、暁ランチ(味噌マヨ ジャンボメンチカツ丼 味噌汁付)440円、ご飯の大盛は500円です。

 

 このHPからリンク出来る湘南ふじさわWAのHPの寅さん歩200 東京の学食めぐりー8をご覧ください。

 駿河台下交差点を左折して靖国通りを進むと右側がゴールです。6階でゴール手続きをしてください。ゆっくりと楽しめた食事付き(自腹)のYRコースでした。


 

平野寅次郎 拝






 

『〜YRよもやま話〜』
 

 暑さでYRコースを歩くのをお休みしていたら、腹部の手術を受けることになり、現在はリハビリ中です。今回はYRについて振り返ってみました。

 

 YR(イヤーラウンド(R))とは  ウォーキングでは国際市民スポーツ連盟(IVV)が歩いた距離や参加回数を認定・表彰する制度があります。日本市民スポーツ連盟(IVV-JAPAN)は日本の窓口です。認定された大会や例会のゴールで、距離と回数の記録帳に認定印が押印されます。押印が基本で寅次郎がウォーキングを始めた26年前の例会では、押印の長い行列を覚えています。参加者数が多くなったため、日本ではIVVと称してスタンプを印刷したシールが配れるようになり、自宅に帰り、記録帳に貼るのが日課でした。
 寅次郎もその一人でしたが、ウォーキングを始めてすぐにIVVの記録収集にはまるウォーカーが多いです。
 ※日本市民スポーツ連盟の英文略称はJVAですが、国を明示するためIVV-JAPANのような表記を各国で行っています。

 YRとは通年(1年中)日本市民スポーツ連盟の認定を受けたYRコースでウォーキングが出来て、IVV認定が受けられる仕組みです。主に土休日に開催の例会や大会でしかもらえなかったIVV取得の機会が増えて、IVV収集にはまったウォーカー達にはYR開設が朗報でした。1年中といってもスタート・ゴールが置かれるYRステーション(基地)には営業日・営業時間が定められています。ステーションで参加費200円支払い、コースを選び、地図をもらい、地図を見ながらコースを歩きます。
 ウォーキングは「いつでも だれでも どこでも いつまでも」ですので「いつでも どこでも」の環境ができました。
 ※イヤーラウンド(R)は、一般社団法人 日本市民スポーツ連盟の登録商標です。

 

 YRの誕生と展開  日本市民スポーツ連盟は1997年1月にYRを開設しています。制度の改定やステーションの拡大を進め、HPでは2023年9月7日現在ウォーキングステーション157(以降の廃止5と表示)が登録されています。各ステーションは複数のコースを設けておりPDFでコース内容も確認できます。
 東京都ではゴールして銭湯に入れるコース、スタート・ゴールが別のステーションの連絡コース、文京の坂113のアプリウォークなどがあります。
 さらにYRを盛り上げようとイヤーラウンドRコースを歩いた回数の表彰制度もあります。この「平野寅次郎のYR散歩」は2019年IVVオリンピアードフランス大会でお会いした日本市民スポーツ連盟川内基裕会長からYRを盛り上げて欲しいとの要請を受けて連載を始めました。

 寅次郎の所属する湘南ふじさわWA(FWA)では、2003年(平成15年)4月関水スポーツ店をステーションにYRコース(20kmと12kmの2コース)を開設しました。現在は18km、15km、7kmを加えた5コースあります。
 2022年実績を見ると最も延参加者が多かったのは7kmコースで延参加者2905人のうち約40%でした。写真下左はFWAのYRパンフレットの表紙、写真下右はその中の藤澤宿コース7kmの案内です。他のコースの内容についてはこのHPのリンク集から「湘南ふじさわWA」をリンクして「YR・四季の道」をご覧ください。


 

 FWAではYR開設に当たり、東京都御茶ノ水にあった(当時)日本市民スポーツ連盟の事務所に通い、初めてのYRを体験して地図作りを学びました。せっかちな寅次郎、スタートして他のコースへ進む道を間違えて、何度も靖国神社の鳥居が見えて戻った苦い体験を地図作りに活かしました。
 FWAでは独自の「FWA通年歩行パスポート」を発行・表彰制度を導入して盛り上げました。パスポートは1冊で30回記録できて、ブロンズカード(2冊、60回分)、シルバーカード(4冊、120回分)、ゴールドカード(12冊、360回分)、プラチナカード(36冊、1080回分)を用意しました。
 その結果なんと2008年1月(平成20年)にプラチナカード第一号の達成者が出て、協会幹部を慌てさせました。達成者はブロンズカードから再スタートして2度目のプラチナカードに挑戦しています。
 又、「YRコースを歩きたいが一人では歩けるか心配だ」の声に曜日を決めて「スタッフと歩こう!」を企画しました。2022年実績は12回実施で平均約15名の参加者です。YRコース以外の道も歩きたいと「ウォークメイト」が誕生して短い距離をゆっくり歩いてウォーキング教室などを実施しました。2022年実績は7回実施で参加者は平均約60名です。「ウォークメイト」は自治体や地域を巻き込みウォーキングの普及にも一役買いました。
 さらに月1回YRコースの一部を清掃する「クリーンウォーク」の活動も実施しています。2022年実績は11回実施で参加者は平均約17名です。
 

 今後のYR  日本市民スポーツ連盟の川内基裕会長は「YRコースの意味は時代と共に変わりつつあります。コロナの時代は密集しなくとも歩けるコース、これからは、自分の体力に合わせて何歳になっても繰り返して歩けるコースを目指したいと思っています。距離だけでなく時間も含めてゆっくり楽しめるコースです。」と言われています。
 各ウォーキング協会にとってYRは下見や誘導などにスタッフの手がかからない貴重な収入源として位置づけられています。特にスタッフの高齢化やスタッフのなり手が少ない昨今ではYRの盛り上げは協会存続の鍵です。
 又、ウォーキングの普及で参加者が増えて、団体で街中を歩く姿は改善が必要な頭の痛い各協会の課題でした。しかし新型コロナ問題が発生して団体で歩く例会が出来なくなり、YRが協会収入の柱となりました。コロナが収束して普通の生活に戻り例会は小グループや自由歩行などが取り入れられて再開していますが、課題の抜本的な解決はまだまだです。

 高齢ウォーカーや歩行に支障のあるウォーカー及びファミリーウォーカーに、より短い距離での大会、例会、YRコースの設定を可能にするとしてIVV認定基準が3kmからに変更(2023年7月1日から)され、日本市民スポーツ連盟はYRの3kmコースを新設しています。各地でのステーションを見ると10km以下のコースはまだ少ないです。高齢化・体力の衰えで例会に参加できなくなったウォーカーやリハビリ中の方の短いコース(3・4km)があればと身を持って実感しています。
 長いYRコースを歩いてIVV記録を集める人や短いコースを歩いて再度ウォーキングを始める人などに、繰り返してYRコース歩いてもらえるように知恵を出し合い、ウォーキングの「いつでも だれでも どこでも いつまでも」の「だれでも いつまでも」を実現しましょう。


 

平野寅次郎 拝






 

『〜YRよもやま話−2〜』

 今回はIVV記録の挑戦・YR制覇に情熱をもって取り組んでいる素晴らしい人が身近にいましたので紹介します。
 その方の名は榊原克世さんです。小学校5年生の時に静岡から転校して来て、同じクラスの仲間になりました。背が高く、みんなより首一つ出ていたので「キリンさん」略して「キンさん」と呼びました。
 中学校でも同じクラスになった寅次郎の幼馴染(1942年生)です。現在はヒゲを生やしているので下のイラストはヒゲ付きです。
 2012年寅次郎は生まれ育った神奈川県藤沢市から東京都豊島区へ移住、コロナ禍もあり、キンさんとはなかなか会えなくなっています。
 今回は書面インタビューで作成しました。


 

 キンさんとウォーキング  キンさん曰く、ウォーキングの原点は中学・高校の6年間毎日往復6kmを徒歩通学していたことにあると当時を回想していました。銀行からメーカーに転職して間もない1998年5月のゴールデンウイーク、4日の日が束の間の晴れとなり、近くの鎌倉大仏・長谷寺に久々に出かけ,納経帖を手にした人々に出会い、坂東33ケ所の札所めぐりを初めて知りました。
 早速,納経帖を購入し1番の杉本寺を目指したのがウォーキングの道に入る第一歩でした。その後、秩父34観音、西国33観音で100観音を巡拝しましたが、札所間の距離があり車での巡拝となりました。ウォーキングというよりも名所旧跡を訪ねるために歩くということでした。以降の実績を聞いて寅次郎、驚きました。東海道、日光街道、甲州街道、中山道、奥州街道、四国88ケ所札所めぐりなどを踏破したそうです。
 何がキンさんを駆り立てたのか、はっきり聞けませんでしたが、厳しい職場環境からくるストレスの解消からではないかと邪推する寅次郎です。
 2007年4月の中学校のクラス会で寅次郎から全国各地で開催のウォーキング大会に参加してみてはとのアドバイスをもらい、あわせて参加記録「寅次郎ウォークの旅全集 〜オールジャパンウォーキングカップ達成への足跡〜」の小冊子を見て、その内容から「ウォーキングと観光を楽しむ」というニーズにぴったりで、次の目標はウォーキング大会に参加だと直感したそうです。2007年7月の田沢湖ツーデーマーチ参加が本格的ウォーカーへのスタートでした。以降の大会参加はすさまじい速さで達成しています。
 2009年11月オールジャパンウォーキングカップ完歩、2014年11月日本の歩きたくなる道500選完歩、北海道、関東・甲信越、東海・北陸、近畿、四国、九州・沖縄、沖縄の各マーチングリーグ完歩、温泉、さくら、島の各リーグの完歩、セブンハーバーの完歩、2回の測足達人証受賞、IVV認定ツーデー・スリーデーマーチ100大会参加表彰など主要なウォーキング大会を制覇しています。その間に全国一之宮108社への巡拝、日本100名城への登城も行ってきたそうです。
 2023年3月現在IVV距離認定75.000km、回数認定5,000回を達成しています。今後の進度は日本市民スポーツ連盟のHPからご覧ください。
 キンさんではなく榊原克世さんの名前で載っていますよ。
 2027年12月までにIVV100,000km達成との大目標に挑戦しています。

 

 うら話  オールジャパンウォーキングカップとは47都道府県で開催の認定大会の1大会参加が必須で、各大会は年1回 土日に開催されます。キンさんは2年4ケ月で完歩です。参考までに寅次郎は6年4ケ月でした。
 日本の歩きたくなる道500選は全国の僻地の道も選ばれていますが7年5ケ月で完歩、全国で107番目の完歩者とのことです。
 当時、寅次郎は湘南ふじさわウオーキング協会(FWA)の会長でした。(WAはウオーキング協会の略。固有名詞の協会名のウォーキングのオは大文字を昔から使っています)FWAは神奈川県ではよこはまWAや川崎WAという歴史の古いWAがある中では後発のWAでしたので、会員増に躍起になっていました。保険会社に就職した新人社員が親戚や同級生に保険の勧誘をするように、クラス会に出席して盛んに入会を勧めました。キンさんは全国大会制覇が優先と云われ、2010年にやっと入会してくれました。毎年のクラス会の日は大会のある土日は避けて欲しいと幹事にお願いしていました。
 FWA入会当時は「平野の同級生の榊原君です」と紹介していましたが、全国区のウォーカーとなった後は「あの榊原さんの同級生の平野です」と言っています。
 

 キンさんとYR  2009年頃に全国のウォーキング大会で歩友からYRの存在について教わったそうで2010年4月にIVV4,000kmを達成して、その頃から距離に対する挑戦意識が芽生えて来たそうです。毎日歩いてIVVがもらえるYRに地元藤沢の関水スポーツ店やNPO法人大船・鎌倉のYRステーションに通うようになりました。その後は神奈川県内のステーションを順次回るようになりました。
 動機は「地図を見て見知らぬ土地を歩くのが楽しかったからだと思います。街道歩きの延長でしょうかね」と話しています。
 日本市民スポーツ連盟は多くのYRステーションを歩いてもらう目的で2015年1月「YR30」(1年間で30のYRステーションをまわる)の企画を実施しました。キンさん、持ち前の行動力を発揮して、神奈川県内・東京都内のステーションを歩き、3ケ月で達成してしまい事務局を驚かせたそうです。YR30はその後も毎年実施されていてキンさんは9年間連続の達成です。2017年からは30ステーション達成後に更に30ステーション単位での達成をYR60、YR90・・として表彰しました。キンさんは2018年にYR150を達成し、同年には全国すべてのステーションをまわり「オールスター」として特別表彰を受賞しています。
 以降、9年間の累計実績は850ステーションになる見込みだそうです。
 2024年のYR本体企画が発表されました。30ステーションでの申請は従来通りですが、コース回数での申請は同じステーションで同じコースでもカウントできるようになり、50コース単位で踏破の表彰制度ができました。地方のYRに行かずに近くのYRを歩く方への配慮だそうです。
 又、満10周年企画として10年間の全申請累計数で表彰を行うという企画です。詳しくはHPをご覧ください。
 キンさんは既に850回達成しており、上位入賞を目指したいと言っていました。
 

 キンさんのYR攻略のポイント
1.まずは地図の事前入手を!
 日本市民スポーツ連盟のHPウォーキングステーション一覧から該当するコースの地図が入手できます。
2.地図の作成年月日の確認を!
 コースが開設されたときに作成された地図がそのままで更新されていないケースがあります。区画整理や道路の拡張工事などにより大きく変化しているケースがあります。
 また目標となる店舗などが移転又は閉鎖されていることもあります。ステーションで最新情報を入手するようにしてください。
3.観光協会の活用を!
 最寄りの駅周辺に観光協会があるケースが多いです。コースマップに加え観光地図の入手も役に立ちます。コース地図を補完するように努めました。
4.出発すれば後は地図が頼り!
 晴天であれば方角は太陽の位置で分かりますが、曇りの日にはわかりません。コンパスがあれば便利です。またコースは概して郊外を歩くことが多いです、人とすれ違うことがまれであることが普通です。もし会えたら幸運です。声をかけて現在地を確認するように努めました。
5.全国のウォーキング大会参加の際は近くのYRステーション踏破を!
 せっかく地方に出かけたのですから、土日の大会の前後に近くにあるYRも調べて制覇してください。

今回はここまでとして、次回はキンさんのYR体験の話を紹介します。


 

平野寅次郎 拝






 

『〜YRよもやま話−3〜』

 前回は1998年から坂東33ケ所札所巡りを皮切りに5街道、四国88か所遍路などを踏破、2007年からは本格的なウォーキングに挑戦、オールジャパンウォーキングカップ、日本の歩きたくなる道500選ほか主要ウォーキング大会を制覇し、その間全国の一の宮巡拝や100名城への登城をしてきました。2010年IVV4,000kmを達成した頃から距離を伸ばすYRに取り組んだ榊原克世さんを紹介しました。
 寅次郎とは小学校からの幼馴染です。当時から背が高くみんなよりより頭一つ出ていたので「キリンさん」、略して「キンさん」と呼びました。現在はヒゲを生やしているので右のイラストはヒゲ付きです。
 今回は2015年からのYR30企画で9年間累計850ステーションを踏破したキンさんのYRの体験談をお送りします。なかなかお会いできないので書面インタビューで作成しています。


 

 歩いた各県のYRステーションの特徴
1. YRステーションは地元の運動具店、靴屋さん、大手スポーツ用品販売チェーン店、百貨店のスポーツ用品売り場、銭湯、旅館、ホテル、道の駅、公共団体の施設、公民館、体育館、温泉プール、観光案内所などでした。

2. 交通不便な場所に立地しているステーションが散見されました
・最難関のステーションは高知県と愛媛県の県境にまたがって建物が立つ「星ふるヴィレッジTENGU」でした。路線バスは廃止されており、レンタカーで現地に行った記憶があります。
・香川県高松市の「鬼の館」は高松港からフェリーで20分の女木島にあります。帰りのフェリーの時間との兼ね合いが大変でした。
・愛媛県の佐田岬にある「亀ケ池温泉」と「NPO法人佐田岬ツーリズム協会」(現在の名称:佐田岬観光公社)もバスの便で制約を受けました。
 その他最寄駅からバスで30分以上かかるステーションが多々あり、事前の時間確認が欠かせませんでした。

3. 首都圏、関西圏、名古屋周辺は交通の便で比較的恵まれ、1日で2ケ所歩くことが可能でした。

4. パスポートの発行によるウォーカーの定着化を図っているステーションがありました。そのステーションには複数のコースがあるのが共通点です。特典は参加当時のものです。
・神奈川県鎌倉市NPO法人鎌倉 6コース・大船 5コース
 パスポート1冊で40回、40回で1回無料
・神奈川県大和市KATSURA 3コース、海老名市足道楽+ららぽーと海老名店(県央WA運営)5コース
 パスポート1冊で30回、30回で無料券3枚贈呈
・神奈川県横浜市よこはまWA 3コース
 パスポート1冊で40回、40回で4回無料 ・神奈川県藤沢市関水スポーツ(湘南ふじさわWA運営)5コース  通年歩行パスポート1冊で30回
 各カード達成時点で関水スポーツ店の商品券と記念品贈呈
 ブロンズカードは60回、更にシルバーカードは120回
 更にゴールドカードは360回、更にプラチナカードは1080回
 通算すると1620回で通年歩行パスポートは54冊分です。
・東京都江戸川区DBW東京・江戸川  8コース
 参加記録表 1冊で40回、40回で500円のクオカード贈呈
・埼玉県狭山市産業労働センター
 16コース1冊で32回、10回、20回、30回目で無料
・千葉県松戸市スポーツオーソリティ松戸(北総歩こう会運営)
 6コース 1冊で30回、30回で記念品贈呈
・茨城県牛久市サワムラヤ靴店 6コース
 1冊80回、8回で500円、40回目で1,500円、80回目で5、000円の商品券
・三重県WA 県内5ステーション 9コース
 パスポート1冊60回、10回、30回、60回の達成ごとに完歩賞と記念品贈呈、10回目の記念品はコロナ以前でしたがマスクでした。

 

 YRについての要望話
 YRの存在意義はIVV認定がいつでも受けられることにあると思います。総元締めの日本市民スポ―ツ連盟が主導性を持って各県のWA、該当する市の地元WA、大手スポーツ用品チェーン店などへアプローチして、次のことを実行して欲しいとキンさんは訴えています。
1. ステーションが年々減少していることに危機感を覚えます。ステーションがゼロの県(10県:青森、新潟、福井、岐阜、山口、徳島、長崎、宮崎、鹿児島、沖縄))を解消しステーションの復活・新設を!
2.県庁所在地にステーションがない県(14県:群馬、長野、山梨、富山、石川、静岡、三重、奈良、和歌山、鳥取、島根、岡山、愛知、高知))の解消を!
3.IVV新規会員の増加が鈍化しているように見受けられます。会員増加の対策を!
4.前述で話したように各ステーションは個性あるパスポートを発行したり、コースの増設を行ってYRの固定客の増加を図る工夫を!
5.現在行われているYR30の更なる活性化を!

 

 キンさんの壮大な目標
1.2026年丙午(満84歳)
  秩父34ケ所午年御開帳の巡拝
 (60歳と72歳で巡拝)

2.2027年12月までに IVV 100,000kmの達成
 (現在80,000km)

3.2027年12月までに 湘南ふじさわWAのYR プラチナカード
 1,620回の達成 (現在 800回)

 

 寅次郎のつぶやき
 YRの盛り上げはIVV認定に挑戦するキンさんのような人たちがどんどん増えて、これから歩く多くの人々へ影響を与えていくことが望ましい形です。
 でも寅次郎、自らの体験を踏まえると「人は歳を重ねると病は避けられない。体力、特に足は衰える。キンさんのように歳に関係なく元気で歩ける人は特別の人・一握りの人だ」と思うようになりました。
 でも「歩かなければ歩けなくなる。歩けなくなれば寝たきりになる」といわれています。寅次郎、短い距離でも歩くことを続けて、寝たきりにならずにキンさんの壮大な目標達成を見届け、お祝いすることを2027年までの目標としました。長い距離が歩けなくなった人たちやリハビリの人たちをいかにYR参加に引き込むことが出来ないかと頭を悩ませているこの頃です。そのためにはいくつかの課題があり、工夫や見直しが必要です。
 距離3kmからのIVV認定が始まりました。短い距離のYRコースを設定すると参加回数の表彰を個別に定めているステーションでは従来の表彰基準と差が出るとの声もありそうですね。最近は「1日8,000歩で病気予防」と医学的にいわれています。8000歩は個人の足幅によりますが約4km〜5kmの距離です。この位の距離ならば表彰基準の追加になりませんかね。
 YRは自由に一人で歩くのが基本です。それが良いという人ばかりはいません。初心者が一人で地図を頼りに知らない土地を歩くのには勇気がいります。また一人でばかりで歩いていると、たまには仲間と話しながら歩きたくなるものです。こんなことへの工夫や対応が必要と思います。
 湘南ふじさわWAでは日を定めて「イヤーラウンドウォークをスタッフと歩こう」を毎月1回実施しており、毎回初心者を含め20名前後の参加者があります。
 100km歩行のイベントがあり、参加者は約2,000人、参加費は18,000円、IVV認定はないと聞きました。YRはいつでも参加できて、IVVがもらえて、参加費は200円です。「IVV認定は要らない」という人もいますが、多くの人々が歩いて、寝たきりにならないようにしてもらうにはどうしたら良いか課題ですね。多くの人たちをYR参加に駆り立てる方法をみんなで考えましょう。


 

平野寅次郎 拝






 

 今回は神奈川県藤沢市の湘南ふじさわウオーキング協会(FWA)のYR 7km 藤澤宿コースを歩きます。藤沢市は寅次郎の生まれ育った地、70歳で東京都豊島区に移住するまで過ごしました。現在もFWAの会員です。FWAは会員約300名の半分が藤沢市在住者です。残りは神奈川県内の在住者で、東京都や静岡県在住の会員もいます。FWAではYRコースを歩く「イヤーラウンド フリーウォーク」を年間計画の例会としています。2023年は12月3日に開催され私も参加しました。YRの5コースの内、当日は湘南国際マラソンが湘南海岸で開催されましたので、海岸線を歩く2コースを除いた7・18・20kmコースが対象でした。参加費は一律200円、地図を見ながらの自由歩行です。参加者は206名で内訳はFWA117名、神奈川県の各WA(KWA)78名、他協会4名、一般7名です。
 2023年8月に腹部手術を受けた寅次郎はリハビリ中なので7kmコースを選択しました。このHPの「国内リンク」にある湘南ふじさわウオーキング協会のHPの「例会報告」や「YR・四季の道」をご覧ください。

『藤澤宿コース 7km』
ステーション:関水スポーツ  神奈川県藤沢市鵠沼石上1−3−1 最寄駅:JR・小田急線 藤沢駅南口

 

 今回は例会なので、関水スポーツの先にある奥田公園がスタートです。  藤澤宿は1601年(慶長6年)東海道五十三次の江戸より6番目の宿場として誕生しました。藤澤は宿場町として栄えるとともに、江ノ島、鎌倉、大山などへの参詣や観光の足場としてもにぎわいました。また、鎌倉時代以来、時宗総本山の遊行寺の門前町としても古い歴史を持つ町です。関東大震災や太平洋戦争の被害がありましたが、今回のコースには昔の風景が点在しています。
 写真下左はYRステーションの関水スポーツです。コースはJR線をくぐり、JR藤沢駅北口から遊行通りへ進みます。写真下右は「蔵前ギャラリー」です。藤澤宿から江島神社に至る旧江の島道で江戸時代に年貢米を貯蔵する御蔵が建っていた一角があり、蔵前と呼ばれていました。現在は蔵を活用したギャラリーが当時の雰囲気を伝えています。コースはここから藤沢橋交差点へ進みます。

 

 写真下左は藤沢橋交差点です。右からの道は戸塚宿からの旧東海道で、遊行寺の坂を下り、藤沢橋交差点で右折、藤澤宿の中心に入ります。交差点を左折すると江の島方面です。お正月に開催される箱根駅伝は当初戸塚中継所から遊行寺坂を下り、藤沢橋を右折して旧東海道を平塚中継所に向かっていましたが、藤沢橋交差点を直進する道路(湘南新道)が整備されてから交通混雑を避けて、駅伝コースは辻堂の湘南海岸に出て、平塚中継所へ向かうコースに変更されました。
 藤沢駅方面から来たYRコースは交差点を直進して藤澤宿に入ります。写真下右は藤澤宿で茶・紙問屋を営んでいた旧家「桔梗屋」です。1902年(明治35年)に建てられた店蔵で国登録有形文化財に登録されています。現在は藤沢市へ売却、市の所有になっています。

 

 写真下左は「本町郵便局」で、後ろのマンションを含めた土地が寅次郎の生誕地です。実家は江戸時代に東海道が出来た頃から「牧野屋酒店」を営んでいました。太平洋戦争末期に公共施設の郵便局の隣にあった住まいは建物疎開で壊され、住まいは裏に引っ越しました。寅次郎は70歳までそこで育ちました。牧野屋酒店の隣は「旅籠 小松屋」(写真下右)で、現在は子孫の方がラーメン店「小松屋」を営んでいます。
 この辺りは旧東海道・藤澤宿の中心部で1596年(天保元年)徳川家康、その後 秀忠、家光らが利用した将軍宿泊施設の「藤沢御殿」、その後は参勤交代の大名宿泊施設の本陣、脇本陣が整えられます、本陣は本町郵便局の斜め前にありました。
 明治・大正時代には、藤沢の中心部がこの辺りになり、役場の他に郵便局、警察署、消防署、銀行などが置かれました。現在では当時の賑わいはありませんが、それは東海道線の鉄道敷設の際に、東海道から離れた場所に藤沢駅を設けたためです。蒸気機関車の煙や火の粉などの被害を恐れた住民の反対の結果だったそうです。


 

 写真下左は旧東海道から少し入った先にある「永勝寺」です。説明板には「小松屋源蔵の墓域の中に旅籠 小松屋で抱えていた飯盛女の墓が39基あり、うち38基は1761年(宝暦11年)から1801年(享和元年)までに建てられました。飯盛女がこのように供養された者は少なく、借金の形など苦界のなかに身を沈めた者が多い中、小松屋の温情が偲ばれます」と記載。


 

 YRコースは旧東海道に戻り、右折してチェックポイントの「済美館」(藤沢公民館分室)に寄ります。FWAではIVVの他に独自の「通年歩行パスポート」を発行して、YRの通算参加回数による表彰制度があります。
 チェックポイントでこのパスポートに到着の確認印を押します。表彰の通算参加回数はブロンズ(60回)、シルバー(180回)、ゴールド(540回)、プラチナ(1620回)です。2003年(平成15年)4月のYR開設以降、2022年(令和4年)末までのプラチナ達成者は10人です。
 済美館前の横断歩道を渡り、左へ進むと右側の交番の奥に「伝義経首洗い井戸」(写真下左)があります。説明板には「源義経は頼朝に追われ奥州に逃げていましたが、1189年衣川(岩手県奥州市)で自害しました。腰越(神奈川県鎌倉市)で首実検の後に浜に捨てられた義経の首は、潮にのって川をさかのぼり、里人に拾われてこの井戸で清められたと伝えられています」と記載。写真下右は敷地内にある「源義経首塚」です。

 

 東海道に戻り、白旗交差点を右折すると、「白旗神社」(写真下左)があります。白旗神社の創建年は不詳ですが、鎌倉時代以前に相模国一之宮の寒川比呂命を勧請して、寒川神社を号としていたそうです。鎌倉時代の1249年(宝治3年)源義経を合祀、江戸時代の1752年(宝暦2年)社号を白旗神社に改めています。境内に源義経公・武蔵坊弁慶公之像(写真下右)が没後830年の2019年(令和元年)に建立されました。

 

 藤沢市民病院の脇を通って東海道に戻り、藤沢橋交差点方面に戻ります。
写真下左は遊行寺橋(旧大鋸橋)・高札場跡です。説明板によると「東海道の遊行寺橋はここで、橋のたもとには高札場と江の島一の鳥居が建っていました」と記載。戸塚宿から来た東海道は赤橋(写真下右)を渡り、右へ進みます。江の島道は左にあった江の島一の鳥居をくぐって進みます。


 

 赤橋の下を流れるのは境川(写真下左)、左奥にあるのが御殿橋で、藤沢御殿の名が唯一残る場所です。赤橋を渡ると右側に「藤沢市ふじさわ宿交流館」(写真下右)があります。2016年(平成28年)労働基準監督署の跡地に建てられました。藤澤宿の歴史・文化に親しむ機会を提供するとともに地域住民や来訪客の交流を目的に郷土資料の展示やイベントが行われています。月曜日が休館日ですが、この日は他のイベントの関係で休館でした。

 

 交流館のすぐ前は「遊行寺」総門(写真下左)です。遊行寺は一遍上人を宗祖とする時宗の総本山で正式名称は藤澤山 無量光院 清浄光寺(とうたくさん むりょうこういん しょうじょうこうじ)です。
 遊行寺は遊行上人四世?海上人により1325年(正中3年)開山されました。
 遊行寺には開山忌が年に2度あり、春が?海上人、秋が一遍上人です。遊行寺は?海の開山以来、遊行上人が住まわるお寺として「遊行寺」の名で親しまれました。 総門を入ると左の墓地に「板割浅太郎の墓」(写真下右)の案内がありました。説明板には「赤城山で有名な国定忠治の子分で小説や映画に登場する板割浅太郎は忠治と別れた後、無職渡世の足を洗い、長野県の時宗の寺に入り、後に遊行上人の導きにより遊行寺の堂守を勤め、仏門に入り改心した姿が認められ、遊行寺塔頭の貞松院の住職を拝命しました。藤澤宿の大火で遊行寺が類焼すると、老骨に鞭打ち勧進僧となって各地を巡り、遊行寺復興のための浄財を募り遊行上人の仏恩に報いました。1893年(明治26年)74歳の生涯でした」と記載。

 

 総門から続く石段は「いろは坂」(写真下左)で阿弥陀様の四十八願にたとえて、四十八段と呼ばれています。春には両脇の桜で花のトンネルとなり、訪れる人々の憩いを与えています。「いろは坂」を上がると、遊行寺境内で樹高約21m、幹回り710cmの大イチョウ(写真下右)が見事です。2008年(平成20年)に立てられた説明板には「かつては高さが約31mあったが、1982年(昭和57年)の台風で幹が折れました。樹齢は600〜700年と推定」と記載。

 

 正面は本堂(写真下左)です。広い境内では節分の豆まき、夏の「遊行の盆」が恒例行事です。昔は春・秋の開山忌にサーカスや見世物小屋がかかり、小学生の寅次郎も見に来ました。東海道沿いには植木市が開催され、行田方面から来た沢山の植木が立ち並んでいたのを思い出しました。

 

 写真上右は境内の右側にあった「敵御方供養塔」で室町時代の1416年(応永23年)上杉氏憲と足利持氏の戦いの戦死者を、遊行十四代上人が敵味方の区別なく平等に供養して建てた塔です。このような例では最も古い塔として1926年(大正15年)に国指定重要史跡になっています。
 YRコースは遊行寺坂を下り、現在の藤沢橋を左折して、藤沢市役所脇から今回のゴールの奥田公園へ向かいます。YRのゴールはステーションの関水スポーツです。短い距離でしたが、寅次郎、生まれ育った藤澤宿の歴史を改めて見直すことが出来たYRコースでした。
 今回は7km以上が歩ける人の参加で、一般参加は7名でした。ウォーキング人口のすそ野を広げるため、3〜5kmのウォーキング入門コースも加えるなどの工夫をすると一般参加がもっと期待できるのではと思いました。
 今回のようにYRコースを例会として行うFWAの取り組みはYRを広め、盛り上げる一策だと思います。更にFWAでは初めてYRを歩く方にと「YRウォークをスタッフと一緒に」や有志でYRコースを清掃する「クリーンウォーク」を毎月、日を定めて行っています。
 YRの周知度はまだ低いと思います。YRを運営の各ウオーキング協会や団体の皆様、YRを広め、盛り上げる一層のご努力をお願いします。


 

平野寅次郎 拝






 

 今回は神奈川県川崎市の川崎ウオーキング協会のYR 8km  F二子坂戸緑道・円筒分水コースを歩きます。2023年8月に腹部手術を受けた寅次郎はリハビリで10km以下のYRコースを歩いていました。HPのイヤーラウンド ステーション一覧表から今回のコースを見つけました。

『F二子坂戸緑道・円筒分水コース 8km』
ステーション:大山街道ふるさと館  神奈川県川崎市高津区溝口3−13−3 最寄駅:東急田園都市線 高津駅西口

 

 多摩川は東京都と神奈川県の境に位置します。東京都の渋谷駅から東急田園都市線各駅停車で多摩川を越えて神奈川県川崎市の高津駅まで約20分です。
 高津駅西口脇の府中街道を行くと高津交差点で大山街道(大山道)と交差、左折すると右側が大山街道ふるさと館(写真下左)で駅から約5分です。
 大山街道は、江戸の赤坂御門から雨乞いで有名な大山阿夫利神社のある大山(神奈川県伊勢原市)までの道です。江戸時代中期に庶民のブームとなった大山詣りの道(大山道)として盛んに利用されるようになりました。参詣の際には太刀を納める習慣があり、人の背よりも長いものもあったそうです。
 江戸時代後期には、駿河のお茶、秦野地方のたばこなど、様々な物資を江戸に運ぶ大切な輸送路として、商人たちで大変栄えました。多くの人々や物資が往来し、様々な交流が生み出されてきた歴史ある街道です。写真下右は大山街道ふるさと館入口に展示の大山道の道標です。

 

 YRコースは5・8・10・15・20・25・30・35kmがあります。受付時間は9時30分からですが、事前受付ボックスでのスタートが可能とのことです。9時30分にスタートした寅次郎、ゴールする湘南ふじさわWAの仲間と出会いました。
 大山街道を進むとすぐに二ケ領用水と交差する大石橋(写真下左)があります。二ケ領用水(写真下右)は江戸時代 徳川家康の命を受けて、代官 小泉次太夫が14年に及ぶ難事業を完成させた農業用水です。川崎のほぼ全域にあたる稲毛領・川崎領の二ケ領を潤し、二ケ領用水と名付けられました。その本流は、この大石橋で大山街道と交わります。

 

 コースは大石橋の手前を左折して二ケ領用水に沿って歩きます。溝の口カトリック教会の先を右折して二ケ領用水を渡り、二子坂戸緑道(写真(左右)に入ります。二子坂戸緑道は二ケ領用水(川崎堀)の跡地を整備した住宅内の緑道・みどり公園です。


 

 緑道は昭特製作所入口で切れますが、直進して二ケ領用水にかかる境橋を渡ります。左折して府中街道まで進み、右折して東高津小学校前信号前のY字路を斜めに進みます。
 また府中街道に突き当たり、正福寺入口信号を横断すると正福寺(写真下左)で1682年(天和2年)法印快雅により開山の真言宗智山派寺院です。


 

 写真上右は正福寺の先にある白髭神社です。1610年(慶長15年)頃に北見方総社として伊勢猿田彦神社より分霊し、創建されました。北見方は当地一帯の地名です。二子駅前通りから東急田園都市線の二子新地駅(高津駅の隣駅)を過ぎると二子神社(写真下左)があります。1641年(寛永18年)武田家旧臣 小山田兵部により天照皇大神を守護神として祠が建てられ、明治時代に第六天と稲荷を合祀して二子神社と改称、村社に列せられました。

 

 写真上右は二子神社境内にある岡本かな子文学碑で後ろは多摩川土手です。
 この碑は地元有志の発意により前衛的な画家・彫刻家の岡本太郎がモニュメントを制作、建築家の丹下健三が台座と築山を設計しています。岡本太郎の父 岡本一平と母 かの子がこよなく愛したこの地、二子の多摩川のほとりに1962年(昭和37年)11月に建てられ、岡本太郎が「誇り」と命名しました。
 また、岡本かな子の業績を讃える文芸評論家・思想家の亀井勝太郎の文を小説家 川端康成の直筆によって刻んだ碑が「誇り」の横にありました。
 土手を下りて、かわさき多摩川ふれあいロード(写真下左)を上流に向かい、気持ちよく歩きました。脇を流れる多摩川の水も春の到来を感じさせる穏やかな流れ(写真下右)でした。

 

 国道246号線の下を進み、多摩川に注ぐ平瀬川にかかる東久地橋をくぐって平瀬川沿いを左に進みます。しばらく行くと、このコースのもう一つの見所の久地円筒分水に到着です。久地円筒分水(写真下左右)は1941年(昭和16年)サイフォンの原理を応用して新平瀬川の下をくぐり、円筒の切り目の角度で分水量を調節する仕組みになっている農業用水の施設で当時の科学の粋を集めた大変優れたものでした。


 

 その経緯は多摩川の二か所からの取り入れ口から流れ込んだ水はここ久地で合流し、分量樋へ導かれていました。久地分量樋は四方向に水を分ける施設で、それぞれの耕地面積に応じて用水の幅を分割する樋が使われていましたが、水量を巡る争いが絶えず、より正確な分水が望まれていました。
 水争いを一挙に解決した久地円筒分水は多摩川右岸農業水利改善事務所長の平賀栄治(1892〜1982年)設計し手がけました。 久地円筒分水から国道246号線の歩道橋を渡ると下は二ケ領用水(写真下左)で、大石橋(写真下右)で左折すると大山街道ふるさと館に到着です。

 

 受付でゴール手続きを済ませて、せっかくですから館内(写真下左右)を見学(無料)して大山街道について学びました。

 

 水に関する興味深いコースです。今回の説明内容は現地の説明板によりました。コースには川崎名産の梨畑や桜の並木があり、季節を選んで、もう一度歩きたいYRコースです。


 

平野寅次郎 拝








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